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楽しい。

楽しいってなんだろう、と考えているこの頃です。いや、そんな事考えなくてもわかるでしょ!って言われそうだけれど、わかんないんです。
自分の感覚全てを親に捧げて生きてきたから、自分にとって何が嬉しいとか楽しいとかわかんないんです。
伽藍堂なんですよね、感覚的に。自分の実体が無い。虚無。
だから生きられないな・・・と絶望してたんですけど、なんとか何か無いのか・・・と目をつぶって横になって自分の内を探ってたんですよね。そうすると、どこかから沸いてくる混沌とした感情が上がってきて、それが物語だったりする。だからマンガ描く事が楽しいのかなって思っても、それは精神を保つためにやる事だから・・・息抜き!気軽に楽しい!ともまた違う・・・。同じような事で、恐怖をコントロールしたい時に、その恐怖と対峙して直視する時、ただでさえ私の足元って不安定で危ういのに、もう脳みそが大変窮地に達するわけですよ。それ、どうにかしないと・・・!って所で、詩を書いていくと(詩の体系として出来上がってるものではなく、言葉の羅列って言った方が正しい)恐怖から解放されてくんです。「う~そうだったか、自分はそう思ってたか。」とか、「人生ってこういう事だよね?」っていう言葉を書いてくと、初めて人と話したような感じになる。その言葉の羅列も見せていきたいなぁ。
そういえば、日常生活で、ふとした時この伽藍堂を感じてる時、また救いを求めて、何か無いか・・・と自分の内を探していくと、
「私は自分を愛したいんだよな・・・ていう事は自分を許したいんだよな。」と思った時、何かザワついたんですよね。伽藍堂の内が。ザワついたって事は、コレが欲しかったのかな、と思って。
自分を許すってどういう事?と思った時に、今までの自分を許したい、受け入れたい、今の自分も受け入れたいって事でした。
誰にも守られないという世界観の中で育ち、大多数の他者からはみ出れば、「普通」でなければ、私の生きる場所は得られないという価値観を持った私。母親が私を不安そうに見るのが私の世界の不安にもなった。それは私が赤ちゃんの頃からそうであったろう。母親をそうして自分の世界の鏡のように見た。不安と恐怖がそこで創られたと思う。そして何もできない赤ちゃんだった頃の私の世界の中で、守って育ててくれる母の顔色を窺った。私が自分で少しでも安心して育つようにした事。そう母にしたように、他人にもそうするように自然となった。私は自分の安心を守るために他者の中で生き残れるであろう自分を演じるようになった私。
良い子にしていたのは、自分の安心を守る為。だから他人に合わせて生きるが、それは共依存の関係を生み、やがては愛の無い結果を生んでしまう。
そういう今までの自分。

そうして他者に合わせ続ける事で抑圧し続けた自分は、やがて本当に思っている事を止められなくなる。それが人への口撃だったりで現れる。

人間は一面だけでは成立しない生き物だ。バランスが偏ると大変な事になる。

そして自分に問う。私が楽しいと思う事って何だろう。その答えを今は探している。

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