見出し画像

48 神気についての考察

今回はこちらの近況から入ってみよう。

<近況>

私は以前ほど都内での神社巡りはしなくなった。

もっぱら近所の氏神神社のほか、その周辺の神社に散歩がてら行く程度である。

自分から積極的にあちこち巡るのも悪くないが最近そういう行動を取らなくなったのはちょっとした理由がある。
元々出不精ということもあるが、必要なら「呼ばれる」からである。

出不精といえば、私は徒歩圏内イコール行動範囲という感じであったが、最近、電動アシスト自転車を購入したので行動範囲が広がった。

友人の一人からは電動アシスト自転車より原付がいいのに、との意見をいただいた。
だがアシスト付きとはいえ自転車であれば多少の運動にはなるが、原付ではその多少の運動すらできない。音も煩わしい。

大きな川の土手にあるサイクリングロードを自転車で進むときの風の心地よさは果たして原付では得られるだろうか。そもそもそのような場所では原付は侵入禁止である場合が多い。

まあ本格的なツーリングであればまた別の感動はあることは認めるが、以下に述べる感受性の視点から、私は徒歩や自転車が好きである。

私はウォーキングにしても、サイクリングにしても緑が多いところが好きだ。

私は人が殆どいない森林を通る時、「神気」を感じることがある。

そういうところは概して神社の参道に繋がっているケースが多いが、森林だけの場合も多い。

<自然のオーケストラ>

それでは「神気」とはどういうものだろうか。

私の感覚で言えば、その領域に入ると雑念が消え(ゼロにはならないが)、風、それに揺られる木々の枝、小鳥のさえずり、しっとりとした空気、土の匂い、これら一つ一つは単なる自然の一部分でしかないように思えるが、決してばらばらではなく、実際にはそれら全体が統合されており、一つの意思を持っているように感じられるのである。

風は風、岩は岩、川は川、木々の木の葉は木の葉、小鳥は小鳥として、オーケストラの楽器ごとの演奏者のように必要なパートを受け持ち、互いを認識し合っているかのように、私には感じる。

そしてそれらの自然の背後には目に見えない指揮者がいる。

私は神気を感じるとき、雑念が消え、畏まる。
そこには人が放つ邪気がなく、ごく自然に姿勢を正したくなる。

<「呼ばれる」ということ>

先日、そのような神気に触れたとき、ふと前をみると◯◯神社参道入り口と書かれた標があった。

その神気を感じた神社は知らない神社で参拝予定もなかったが、参拝することにした。

そのとき、以前、明け方の夢で鹿が出てくるヴィジョンを何度も見せられたことを思い出した。

鹿が使わしめの神社から呼ばれているんだなとその時は思ったが、なかなか多忙で行けていなかった。

なぜ思い出したかというと、鹿が眷属の神社といえば春日系だが、その森の中にひっそりとあった神社はまさにその春日神社であったからだ。

私は参拝にあたっては個人的な願い事は立てない。高次元の神々の御心と御計画がこの世において実現されますように、そのために私をお使いください、と祈る。

こういう祈りを捧げていると、見えない方から呼ばれることが多い。

まあそうはいっても、別居している家族、親族への愛の祈りも最近は増やしている。

その場合も、必要な相手に必要な時に届いているようである。
あまり親しくはなかった、またはこちらのことを良く思っていなかった相手から唐突にフレンドリーな連絡が来たりするからである。

さて、話を本題に戻し、この「神気」の実体についてもう少し深く考察してみよう。

<ヒト、カミ、デーヴァ>

先ほど、自然の一つ一つをオーケストラの楽器演奏者に喩えたが、その指揮者の実体は神々である。

神社では人を祀っている場合と、地球に一度も転生したことのない元から高次元に存在する、いわゆる古代の日本がカミと称してきた高級神霊を祀っている場合がある。

人を祀る神社において神気を感じることは少ない。ただし、菅原道真公を祀る天神系は別格としても、当時領民から慕われるほど徳のあった古代の豪族・貴族を祀る神社は、その徳を慕う人民の良き思いが蓄積されているのか、私はやはり神気を感じ、畏まる気持ちになる。

だがやはり、人を祀る神社に対して高級神霊であるカミを祀る神社は神気の純度が高い。

同じ高次元の方々ではあっても、人として輪廻転生を卒業したか、もともと宇宙創生の頃からカミとして司っているかの違いなのかもしれない。

このカミの実態は自然界のデーヴァ、水や土や火を司る神霊であり、彼らがまさにそのオーケストラの指揮者のように働かれている。

ヒトとカミ、どちらが祀られているかという切り口とは別に、有名な神社であってもその神気を感じられないこともあるし、小さな名もなき神社にそれを強く感じることもある。

たとえば私が訪れたある地方の神社は無名で社務所も殆ど無人状態であったが、強い神気を感じた。

皮肉なことに大きな神社の宮司の方々がいくら祝詞を上げようが、とある無名の神社の片隅にある神霊のエネルギーにかなわないこともある。

概ね、鎮守の森と言えるような緑に囲まれた神社はその神気が強い。だが残念なことに他の参拝客はそれを感じていないし、そのような参拝者が多いとその神気も感じにくくなる。

<様々な参拝者>

参拝者の中には、パシャパシャと写真を撮ったり、呑気に犬の連れて参道を通ったり、拝殿の横でスマホばかり触っているなど、神域に入っている自覚のない人も多い。
これらは神気を感じていない証拠である。

想像してみてほしい。

例えば、あなたが心の底から尊敬する人や、ずっと好きで思い慕っていた人がその場にいて、話を聞いてくれると知ったならば、そのような時間の過ごし方をするだろうか。伝えたいこと、打ち明けたい心からの思いを限られた時間を惜しむように、濃密な言葉にして話しかけるはずだ。

神社巡りが好きな参拝者の中には、1日に3社、4社と複数の神社を巡ろうとしている人もいる。両社参り、三社参りという言葉もあり、滅多に来れない旅先であれば決して悪い行動ではないと理解するが、境内にいて鳥居の外に出る前から、もう次の神社のことを考えている人が多い。

巡った神社の数だけ意識が目覚めるならいいが...

今この一瞬に自分がいなければ祈りの効果は期待できない。
1日に複数の神社巡りをする方は、無理なスケジュールを立てず、今ここに集中すべきである。

心が今ここにあらずば神気を感じ取れることなし

である。

まあ神社もお賽銭を入れてくれてお守りや絵馬を買ってくれる参拝客がいてこそ存続が成り立つわけだから、彼らも無碍に否定するわけにはいかない。
だが、彼らがその神気を感じとれる感受性をもつならば、行動も変わるはずだ。また、神気を感じることができなければ、神の声が聞こえたり、啓示をいただくこともないだろう。

<精霊、自然界の意識>

自然は神々によりインテグレート(Integrate)されることで秩序が保たれるので、物質世界の現象だけ見ていては自然を理解できない。

高級神霊であるデーヴァは自然の物質を直接指揮するのではなく、指揮をする対象は、川、山、木々などの鉱物、植物、小鳥などの動物の意識である。

古代の人々はそれらの鉱物、植物、動物の意識を精霊と称して畏敬の念を抱いた。

小川のせせらぎの音が心を癒し静寂を促すのは、その音だけではなく、その水の意識、精霊が関与している。

植物についていえば、人間が作る人工的な庭や、荒れ果てた空き家の庭に繁殖した緑にはその神気は感じられない。

素晴らしい造形の庭も人間の自己顕示欲が蔓延していたり、所有者が手入れを放棄して愛の一片も見られない無秩序化した状態であれば、精霊、高級神霊も最小限の仕事しかできないであろう。

私が特に神気を感じるのは自然の森林である。

そこでは植物同士、木々、草、花が巨大なネットワークを築いて盛んに交流している。

森林に囲まれた神社によりパワーを感じるのは、神社自体が持つ神気と森林そのものがもつ神気が重なっているからである。

<「知る」ということ>

そもそも、神社自体は(神々の指示ではあるが)人間が造ったものにすぎないが、大自然は地球の創生と共にあるので、最初の神気は自然から起こったものだ。

神道は自然崇拝、アニミズムが起源だから当然でしょう、と人は言うだろう。

だが、教科書や知識本やネットに書いてある文章を読んでそう分かった気にならないでほしい。

自分の五感、六感、直観、体験を通じてそれを知覚、認識できないと、知ったことにならないし、神々、精霊、自然への崇敬の念は起こらない。

神道は自然崇拝だと本を読んで知った気になっているだけで本質を体験、理解していないから、我々人類は自然の森の木々を伐採し続けるのである。

このような自然破壊の行為は自然の神々、デーヴァ、精霊らのネットワークを分断する行為であり、既に地球において諸々の弊害トラブルが生じている。

土砂崩れ、川の氾濫、市街地における猪や熊の頻繁な出現

これらは偶然起こるのだろうか。
私たちはかわいそうな被害者なのだろうか。

人は自然に逆らえない、自然災害をコントロールしようなんてできないという人もいる。
確かにコントロールできないが、営利目的での過剰な自然破壊という冒涜行為をやめるなら、私たちの未来は変わるだろう。

自分は自然破壊に手を染めていないと主張したくもなるだろうけど、人類の連帯責任として私たちの一人一人は既に、自然破壊の罪に対する集合的カルマを背負っている。

私たちは、過剰な物質文明を享受するだけで自然、精霊、デーヴァの神々を崇敬しないのであれば、私たちは神々による自然のネットワークをズタズタに引き裂いてきている人々の一員である。

そしてそのような姿勢、意識が災害の原因になっていることに一刻も早く気づくべきである。

豪雨が降り続ければ氾濫が起こる

これが物理的法則だが、

あなたが森や川に敬意を持たず破壊すれば、あなたの近くで氾濫が起き、流されるのは他の誰でもなく、あなたである。

これが超物理、論理を超えた目に見えない次元の法則である。

<マテリアリズムとスピリチュアリズム>

自然保護を提唱する公益団体、非営利団体も数多くあるが、彼らはこの目に見えない神々のネットワークの存在に崇敬の念を抱いてそれを支えようとしているだろうか。
残念ながらそのような団体はごく僅かであろう。

表向きには自然を守れと叫んでデモをするが、そもそもその目的は政府批判でありその口実として自然をだしに使っているだけではないだろうか。

環境保護を主張しながら、隠れた目的は補助金、助成金という利権目当てという団体も多いはずだ。

高次元の存在が見えず感知できなくても、高次元の存在を信じて畏れる人はポジティブな姿勢の人である。

だが、見えないだけでなく、その敬意、畏れる気持ちすら持たなければ、唯物主義に陥り、自然をただのモノとして扱い、金儲けの資源、または娯楽の対象としか見れなくなるだろう。つまり神々から見てネガティブな存在になってしまう。

実際に私たちがマテリアリズム(唯物主義)に陥るなら、目に見えない崇高な存在を認識できず畏れることもしなくなる。
そして、自然を破壊するなと叫びながら破壊活動を続け、それでいて自分自身は草木一本愛でようとはしない、その矛盾に気づきもしないだろう。

地球を守れと叫びながら破壊活動を繰り返す若者たち。一輪の花を愛する波動は微塵も感じられない

森で感じられる神気は、自然界を司るデーヴァ、精霊の意識、オーラであり、そのデーヴァ、精霊が神道の神として祀られていることが多い。

ガーデニングや観葉植物が豊かに育ち成長するのは植物の精霊たちに認められ、その彼らのネットワークへの参加を許されたということでもある。

インディアンと称されたネイティブ・アメリカンや古くから日本にいたアイヌの民は当時誰もが神、精霊を感受できた。

バッファローや熊を狩る時も生活に最低限必要な分だけにとどめて、仕留めたらまずは神に感謝の祈りと共に捧げた。

彼らの意識レベルはなんと高かったことだろう。

ただ二つ問題があった。
一つは、彼らはスピリチュアルが主で物質が従であったため(基本的に正しい姿勢だが)、科学技術を軽視しただけでなく、ナイーヴ過ぎて、それらを持つ物質主義の侵略者たちのエゴを見抜けず、戦う術を持たなかったこと。
もう一つは、彼らのエゴに誘発され、持ち込まれた物質文明に溺れ始めたことだ。

西洋人が持ち込んだビールやウイスキーを大量摂取してアルコール中毒に陥ったり、それら欲しさに先祖代々伝えられた土地を売ってしまったり、補助金に味をしめて働かなくなった先住民は過去、現在に至るまで少なくない。

西洋文明に触れる前は幸福度が高かったが、先進国には快適な文明の機器(テレビ、スマホ、エアコン、腕時計...)があり、自分がそれらを所有していない事実を知ったことで幸福度が著しく下がるケースが見られる。

私が繰り返し提唱するのは、スピリチュアルな真理を会得するには、愛やワンネスといった波動の高いエネルギーだけを得ようとするのではなく、人類の獣性の部分、エゴイズムの働きも理解しコントロールしなければならないということだ。

真のスピリチュアルを目指すなら、マテリアリズムから目を背け遠ざけるのではなく、スピリチュアルな真理を軸とし、マテリアリズムを理解し受け入れ、コントロールして乗り越えることが重要である。

<必要なのはスピリチュアルな目覚め>

さて、まとめに入るが、
川の氾濫に苦しんだ人々は灌漑事業を起こしたが、それは自然破壊ではなく、人々が生きるために最小限の人為的な作業であり、やはりそれらが成功し弊害が出ない場合は、神々が認めたということである。

現在の科学では自然に意思、意識があることを十分に研究できていないが、植物と会話し、その山や森を司るデーヴァに敬意を持って祈るのは、神社仏閣での参拝、祈りに勝るとも劣らない。

ガーデニングも植物と語りながら行うとお互いの喜びが増す。

食事をいただくときも、食卓にのぼる野菜や魚に感謝してから頂くならば、自然のネットワークを司るデーヴァも精霊もそれらを食することを認め受け入れてくれるだろう。

科学技術を発展させてきた人類の急務はスピリチュアルな目覚めである。

自然を司っているデーヴァの「神気」を感じとれる、その感受性を身につけることがその第一歩である。

<神気を感じとるために>

神気を感じる感受性を得るには以下をお勧めする

瞑想の他、一人静寂になる時間をもつ

人はいないが木々や草花が豊富にあるところに住む

そのような環境にない場合は観葉植物を育てる

誰もいない神社に行く。ただしパワースポットという言葉は使わない
(パワーを得たいという邪心が生じやすいので)

川沿いを歩く(できれば上流に向かって)

神気を感じたらその発信元を探すつもりで見守り、見つめる。そして(その聴覚版としてーそんな言葉はないが)聴き守り、聴きつめる。
そのように全身全霊で神気の発信元を探っていくと自分の胸の奥に通じる何かを感じるようになる。それはカミが自身の内なる神と繋がっていることの発見である。

以上、読んでくれてありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?