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台湾旅行⑥ 二日目 百人の神様が集う寺

 故宮博物館での悲しすぎる諦観を胸に私たちが向かった次なる目的地は台湾一の由緒ある寺院、龍山寺だ。
 実はこの龍山寺、外国に行ってはその国の宗教施設を巡ってしまう気のある私にとっては、仇分に次いで楽しみにしていたスポットなのだ。なんでも龍山寺は単に台湾一歴史ある寺というだけでなく、台湾中の著名な神様が一堂に奉ってある場所らしい。つまりここにさえ行けば、台湾中の寺院を巡らずともほぼ全ての神様に会える、オールオッケー万事解決という素晴らしい寺なのだ。

 たどり着いた龍山寺は多少色褪せてはいるものの、建物のそこかしこに朱色を基調とした極彩色の着色がされており、手前の池では天を仰ぐ龍の石像が勢い良く水を吹き出していた。絵に描いたような異国の寺だ。

 ひとまず参拝に必要な蝋燭となんだかすごく長い線香を購入した私と友人は、恐る恐る境内に足を踏み入れた。
 門をくぐると学校のグラウンドほどは軽くあるだろうかという広い敷地をぐるりと取り囲むかのようにいくつものお堂が建っていた。この中でさらに細かく分かれた廟に様々な神様が奉られているのだろう。
 中央を見ると、一際立派な大きなお堂があった。恐らくこれが日本で言うところの天照大神的な、元締めの神様のお堂であるようだ。

 正直これだけなら「かなり立派なお寺だな。さすが台湾随一と言われるだけある。」程度の感想ですんだのだが、私が驚いた原因はお寺そのものと言うよりもむしろ、集まっている人々の方にあった。

 境内はかなり広いが、その至る所に多くの参詣者がひしめいている。恐らくこれほどの人口密度に日本の寺社仏閣がなるのは初詣の時の他はないだろう。そしてその全ての人が、歌のような奇妙な抑揚をつけたお経を口ずさみながら、熱心に線香を掲げ参拝の作法であろう動きを繰り返しているのだ。
 全員が口ずさむお経が見事にぴたりと合っているものだから、独特の香りがする線香の煙がもうもうと立ちこめる中、まるで境内中の地面から声が沸き上がるかのような一体感で、そのどこか切なくなる調子のお経が延々と聞こえてくる。
 お経は節回しや言葉を変えつつも途切れることなく連綿と続いている。その場にいる見渡す限りの人々が頭を垂れ手をすり合わせるように神に祈りながら淀みなく経を唱えている。

 この人たちは本当に神様を信じ、敬い、そして祈っているのだ。
 単純すぎる感想だが、心からそう思った。

 今まで私も折りにつけ神社には良く行くほうだ、なんなら信心深いと言っていい、くらいに思っていたのだが、五円の賽銭と引き換えに何の躊躇いもなく法外な要求を神に行う私と、前列の人に手持ちの線香の火が触れるのも構わず何度も何度もお堂に向かってお辞儀をし、目をつぶり祈りを捧げているこの人達とでは、根本的な神様に対するありようが全くもって異なるのだと思わずにはいられなかった。私も般若心経程度なら多少そらんじられるが、こんなどれほど続くのか分からないお経をそらんじる事なんて絶対に無理だ。そもそも般若心経ですら大学受験の現実逃避に身につけたものであり、ある意味苦難の末に悟りを開いた釈迦に近い状況であったものの信仰心の篤さとは全くもって無関係だ。

 とにもかくにもそんな日常では全く接してこなかった人々の神への思いにただただ圧倒されてしまい、ニワカ参拝者である私と友人は門をくぐったその数歩先で、ひたすらにおどおどするしかなかった。
 参拝の仕方はあらかじめ日本で調べてはいたものの、なんだか現地の人達の動きは全然違う気がする。そしてなにより風にたなびく稲穂のごとくひたすらお辞儀をして祈りを捧げる現地の人達の中で、棒立ちの私達はこの上なく目立つ。そもそもここは観光気分で立ち入ってよい場所だったのか・・・?

 どうすりゃいいんだ。

 この旅数度目の困惑が友人と私の顔によぎったところで、見かねた地元のおばちゃんとおぼしき人が私達を線香を立てる場所まで連れていってくれ、そこで身振り手振りでお参りの仕方を教えてくれた。今回のこの行き当たりばったり旅がどうにか遂行できているのも、ひとえにこのおばちゃんのような台湾人の親切で世話を焼いてくれる国民性に依るところが大きい。
 おばちゃんの動作を解釈するに、どうやらみんな熱がはいるあまりもの凄い傾斜になっているだけらしく、基本は事前にネットで調べたとおり、線香を頭上に掲げ参拝、その後名前、住所、生年月日、職業を伝え願い事を行う、という流れで良さそうだ。よかった。ちなみにこの願い事の際に自分のプロフィールを明かすというのは、神様が願い事を叶える際に他の人とごっちゃにならずにちゃんと個人を特定してもらうためらしい。なんのこっちゃと思っていたが、これだけの人が詰めかけているのだからそれも納得だ。ただもっと現実的に言うなら、私が神だったらこんな雪崩のように大量の人達から大量の願い事をされてももう叶えることを断念し、ひたすら供え物の大福を食べ続けるがな。明らかに過剰労働だ。

 ともあれ龍山寺には幾人もの神様が奉られており、健康、恋愛、医療、全体運、などなど、それぞれの神様が司る分野も全く異なる。そして参拝の際のマナーとして、自分がお願いしたい分野の神様だけではなく、全ての神様に順序よくお参りしなければならないというものがあるのだ。

 それにしても神様が多すぎる・・・。百を越えるのではないかという数の神様のそれぞれの担当分野など私が把握できるはずもなく、「幸せになりたい」というどの分野でも応用のききそうな漠然とした願いを携えてひたすら参拝を繰り返していたが、いい加減忍耐が限界に近い。神様側としても願望の達成手段すら丸投げされた状態で、さぞかし困惑したかと思う。

 けれどまぁ、だんだんと参拝方法も様になってきたなと調子づいてきた頃、私達は月下老人の廟にたどり着いた。
 月下老人というのは良縁を司る神様で、台湾でも最も有名な神様の一人にあたる。老人の持つ本には過去未来全ての縁が書かれており、月下老人はそれを読みつつ縁のあるもの同士の足首を赤い糸で結びつけるのだ。そう、あの有名な「運命の赤い糸」とは月下老人の糸なのだ。

 なぜ私がここが月下老人の廟だと分かったかというと、でかでかと「月下老人」と神様の頭上に看板が掲げられていた事もあるが、なによりその廟の前に半月型の朱色の木片が二つ置いてあったからというのが大きな理由だ。 
 この木片、半月型に見えるうちの一方は完全な平面状となっているがもう一方はゆるやかな丸みを帯びており、表と裏で形状が違う。参拝客は、月下老人にお祈りした後この二つの木片を同時に投げ、一つが表一つが裏という結果になればお守りの赤い糸が貰えるという仕組みなのだ。

 これはもうやってみるしかない!さっそくチャレンジし、見事表裏がでたため月下老人の廟から赤い糸を一つもらう。糸は一つ一つビニールの小さな袋に入れてあり、赤い文字で何やら言葉が添えてある。特別アイテムを手に入れられた感があり嬉しい。
 ほくほく顔でふと横を見ると、友人は見事に表表の結果を叩き出していた。さすがという他ない。ちなみに表表、裏裏のように同一面がでた場合、糸は貰えないがもう一度チャレンジして良く、合計三回まで挑戦できる。三回目でもまだ同一面が出た場合はもう諦めろよ、という月下老人からのメッセージで、赤い糸は貰えないという仕組みなのだ。さすがに台湾くんだりまできてそんな結果は避けたい。

 「マジかよ・・・。」という雰囲気を若干漂わせつつ、木片を再度手に取り投げようとする友人。「おっ。面白いことになってきたぞ。」という雰囲気を漂わせつつ、見物を決め込む私。そんな二人の中に唐突にもう一人の登場人物が現れた。老人である。もちろん月下老人ではない、謎の老人だ。

 現れた老人は木片を投げようとする友人の手をやおら掴むと中国語でこう言った。「だめだ!せっかく参拝しに来たのにそんな荒々しいことをしては!神様に失礼に当たる!ちょっとこっちに来なさい!」正直老人が発している中国語のうち単語の意味が分かったものは一言もなかったが、老人の形相と熱い思いで不思議なほど意味が分かった。おそらく寸分違わずこのニュアンスだろうという確信がある。中国語の学習など必要なかった。
 老人に導かれるまま向かいの大きな拝殿に連れて行かれた私達はそこで老人に指示されるまま神様ごめんなさい参拝を再度行うと、再び月下老人のもとへと戻った。
 「ほら、こうやってかがんで、そっとこぼすような感じで投げるんだ。」  かがんでジェスチャーする老人。

 ってゆーか、このじいちゃん、誰・・・?

 あからさまに当惑しながらも再度木片を投げる友人。
 投げられた木片は、私の期待を裏切り表と裏でころりと止まった。

 「さぁ、この糸を貰って!そしてついてくるんだ!」

 颯爽と先導する老人に連れられ再度移動を開始する。たどり着いた煙が立ちこめる香炉の前で「香炉の上でこんな風に三回糸を回すように!」とこれまた矢継ぎ早に指示をとばされる。相変わらずの強すぎるメッセージ性のおかげで言わんとすることは分かるものの、一体この行為が何を意味するのか等、正直他に分からないことが多すぎる。
 そもそもこのじいちゃんは何者なんだ?寺の精か、ボランティアスタッフか、はたまた縁遠そうな私達を見かねた一般人なのか・・・。そして一体どこまで同行してくるつもりなんだろう。この先じいちゃん監修のもと残りの参拝を終わらせるとなるとかなりしんどいぞ。なにより終わった後ガイド料的なものを請求してきたりはしないよな・・・。

 不安渦巻く私をよそに、「この糸を大切に持っておくように。そしてここで同じようにあの木片を投げればおみくじがひけるから。」そう言い残すと鮮烈な光を残し老人は去っていった。友人と私、そして自分の3ショットを持参しているデジカメで去り際に自撮りしたのである。

 「あのじいちゃん何なの・・・?」

 熱心に礼拝を繰り返す人々の群の中、フラッシュの洗礼を浴びた私と友人は、老人の消えゆく背中を確認した後、ここしばらく毎分単位で思っていた疑問をようやく口にした。
 当然答える声もなく、帰国した今となってもあの時の老人と写真の行方は謎のままだ。

 いまいち判然としない気持ちのまま、せっかくなので教えてもらったおみくじに早速チャレンジしてみることにした。幸い木片の投げ方は前述の老人のレクチャーのおかげで完璧だ。
 今度は私と友人、どちらも一発で表裏の結果を叩きだし、おみくじの入っている六角柱の木の箱をしゃかしゃかと振ることができた。出てきた木の棒には「九十一」とだけ書かれている。なるほど九十一番か。・・・それで・・・?  日本だったらここで巫女さんが木のタンスのようなものからその番号のおみくじを取り出してくれるのだが、残念ながらこのおみくじコーナーには駐在する巫女さんなどいない。そもそも先ほどの赤い糸お守りといいこちらのおみくじといい、驚きの完全無料なんだから贅沢言うなという話だ。

 周囲を見渡してもおみくじの入っているらしき箱は無く、しかたなく忘れないように自分の番号を心の中で繰り返しながら参拝を再開することにした。身が入らないことこの上ない。
 一通りの参拝を終え、ようやくスタート地点の拝殿に戻ってきたとき、おみくじBOXを発見した。ここにあったのか!おみくじを引く場所とほぼ対極と言っていい位置取り。なんでまたこんなに離れたところに・・・。
 ともあれ参拝中も番号を復唱していた甲斐があったというものだ。浮き立つ心を抑え自分の番号が書かれた引き出しからおみくじを一つ取り出しいそいそと読む。当然中国語で書かれている。一言も分からない。
 幸い龍山寺には外国からの参拝客のためにおみくじを英語訳や日本語訳してくれる窓口が設けてあり、外国人であれどその内容を知ることができるらしい。ありがたい限りだ。無料のおみくじに設けられた手厚いサポートに感謝しつつ窓口に向かうと、奇跡的に日本語訳のスタッフが昼食により不在となっており、受けられる翻訳は英語訳のみとなっていた。

 最悪だ・・・。  私は英語が話せない。のみならず書けない。さらに言うならば聞き取れない。私の英語力たるや、大学のTOEIC点数別の英語クラス分けで未受験者と同じクラスになったほどなのだ。成績の序列が分からぬようクラスの順位を開示せずに張り出してあったのだが、未受験者と一緒になっている時点でこのクラスが学年の底辺であることは誰の目にも明白であった。おいおい、一番隠さなきゃいけない恥部が全開になってるぞ、うっかりさんなんだから。と当時は思っていたが、よくよく考えるとあれは教授からの処刑だったのかもしれない。 さらにいうならばそんな学校の底辺クラスの創作スピーチ暗記テストで「ハロー!エブリワン!」と言った瞬間続く言葉を全て忘れ、学年でも粒ぞろいのバカたちを圧倒した実績もある。

 そんな私に台湾人のお姉さんの流暢な英語が聞き取れるはずもなく、英訳を受けた結果さらに困惑するという負のスパイラルが生じていた。
 こうなればもう、自力で中国語を解読するしかない。今までの経験上、中国語といえども用いられている漢字の意味でなんとなく内容が分かるはずだ。そう思い目を通してみたのだが、これがもう全く分からない。友人のおみくじが「婚姻‐良好」のようにわりかし分かりやすいのに比べ、私のみくじときたら、「婚姻‐條向、自身‐路行・・・」などといった意味不明文字のオンパレードとなっているのだ。このメッセージが何を意図するのか、多少なりとも読みとれただろうか。少なくとも私は無理だ。そのうえ疾病や失物の欄に至ってはもはや何も書いていない。もう怖い。

 無い知恵絞って考えた私が出した結論は、「家に帰ってグーグルで検索する。」というものだった。
 グーグルは偉大だ。誰とも知れぬ親切な人が龍山寺のおみくじに書かれている全部の詩を解説するサイトを設けてくれており、そのうえ他の人のページで私の引いた九十一首だけは何故か各項目の解説は書かれておらず、私が各項目の判定結果だと思って必死に読もうとしていた言葉たちは実は項目など無視して横に読むものであり、全てを通すと「一條大路心中用事諸事如意・・・(オールオッケー的なざっくりした意味)」といった一つのメッセージになるということまで分かった。そりゃあどれだけ縦読みしても意図の欠片も汲み取れなかったはずだ。こんなもの足りない頭を絞って考えても一生かかっても分からないところだった。ありがとうグーグル。ありがとう人の善意。

 その後、龍山寺にあるたくさんのお守り(種類も豊富で驚くほど良心価格!)をどれにするかで延々と悩んだりしたりと、私と友人はかなり満喫し龍山寺を後にした。

 結局私達が龍山寺を後にするまでのかなりの時間、参拝客は途絶えることなく、また優美な抑揚のついたお経も絶えることなく流れ続けていた。
 戦後の風刺画もかくやというほど手に持ったカメラで目に映るもの全てをバシャバシャとおさめてきた私だったが、ここ龍山寺の境内でだけは、ついぞカメラを取り出すことすら叶わなかった。こんなにもたくさんの人達が真摯に祈りを捧げているその光景を、ふらっとやってきた私が気軽にカメラに収めてしまうことはなんだか彼らの思いを踏みにじってしまうような気が無性にしたのだ。
 帰国した今でもあの光景をカメラに収めていなかったことは正直悔やまれるが、同時にあれは目に焼き付けるに留めておいてこそ正解だったのだとも思う。きっと私がシャッターを切ったところで、カメラに収まった景色は今私の記憶している光景とは異なるものとなってしまっていただろう。同時にその瞬間、私の記憶にのこる光景からまでも、これほどまでの特別性は失われてしまっただろうと思うからだ。  
 とかなんとかセンチメンタルに思いを馳せてはみたものの、よくよく考えてみれば途中参加の謎老人にフラッシュたきまくりのデジカメ写真をバシャバシャ撮られている時点で神秘性も何も無くなっている。モラルハザード起きまくりだ。
 こんな事ならやっぱり、線香をもって拝む姿の一枚や二枚、記念に撮影しておくべきだった・・・ちょっぴり悔やまれる今日この頃だ。

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