起業家キャリア研究所__1_

起業家キャリア研究所(仮)_playground・伊藤圭史氏のケーススタディ

注目起業家の「起業までの人生の意思決定」に注目し、起業家のキャリアの再現性について研究する本シリーズ。今回、インタビューに伺ったのは、スポーツ・エンタメ領域でのスタートアップ・playgroundの代表を務める伊藤圭史氏だ。元サッカー日本代表・本田圭佑氏がアンバサダーに就任したことでも注目される同社。注目の起業家は、いかにして現在の姿に至ったのか。

伊藤 圭史(いとう・けいじ)
playground 株式会社 代表取締役
上智大学卒業後、IBMのコンサルティング部門にてデジタルマーケティング施策推進、CRMシステム導入など、顧客政策を中心とした戦略・システムプロジェクトに従事。2011年、オムニチャネルに特化した戦略・システムファームLeonis&Co.を設立し、小売業を中心に大手各社の事業展開を支援。各種メディアで執筆・解説も担当するなどオムニチャネルの専門家として活動し、2014年トランスコスモスへ売却。「リアルとデジタルを融合させる」というオムニチャネル領域の知見・技術をもってエンタメ業界に貢献するべく、エンターテインメント業界に特化してサービス開発とコンサルティング支援を行うplayground株式会社を設立、代表取締役に就任。主事業であるコネクテッドスタジアムサービス「MOALA」は埼玉西武ライオンズ、サンリオピューロランド、吉本興業など大手興行を中心に多くのイベントで採用されている。

playground・伊藤様


ーご出身はどちらでしょうか

出生地は兵庫県・姫路です。ですが出身地がどこかと聞かれると、難しいです。新聞記者だった父親の転勤で7歳の頃にバージニアに移るまでは、1年スパンで引っ越しを繰り返していました。兵庫県で生まれ、福岡、北九州、調布、ボストン、川崎などです。子供のころに一番長く定住したという定義ならバージニアだと思います。

ーどのような幼少期だったのでしょうか

スポーツとお笑いが大好きなミーハーな子供でした。元・広島カープの前田智徳さん、NBAのグレン・ロビンソンとよしもと新喜劇の辻本茂雄さんが小さいころのスターです。結構マニアックですよね(笑)。今振り返ると当時から一番の花形じゃなくて黙々と努力を続ける人が好きだったんだな、と思います。

あと、いまの自分の性格を形成する大きな要因になったのが保育園だったと思います。父の留学でボストンの保育園に通っていたのですがどうやらハーバード大学がモンテッソーリ教育を研究するための施設だったらしく、クラス全体の遠足に行くかどうかも自分の判断でした。「嫌だ。部屋でお絵描きする」って言ったら先生が一人付き添ってくれるんですよ。私は「こうしたい」っていう意思が強い人間なんですが、それは多分このときの教育があったからだと思っています。

画像2

ーいつ日本に帰ってこられたんですか

小学校6年生のときです。アメリカでは小学校でもプレジデントを決めるんですよ、ホントの大統領選挙みたいに。"VOTE FOR ME!"みたいなポスターが学校中に貼られて、候補者が校内放送で立派に演説するんです。僕も当時仲良くしてもらっていたジェレッドという友人が立候補したので投票したんですが見事当選。次の日から彼は学校中のスターになりました。そのイベントのあとすぐに日本に帰ったんですが、登校初日に「学級委員長を決めましょう」という話になったんです。クラスの子が「●●君に手を挙げてね」って言うので、あいつがこのクラスのスターなのか、と思いながら手を挙げたらその子が泣き始めてしまって、いわゆる学級崩壊です。日本はなんてやばい国なんだ、って衝撃を受けたのをよく覚えています。

当時、私は今以上に猪突猛進な変人だったので、やりすぎな正義感を振りかざして、解決しようとしない担任や主導していた生徒に全力で喧嘩を売りにいったら当然にクラスにも馴染めなくなって、しばらくして学校に行かなくなりました。最近SNS上で「学校/会社に行かないといけないのか」という議論を見かけますが、私の場合はそのとき「学校行かなくてもいいよ」と母が言ってくれたので気負いすぎることなく好きなときに登校拒否させてもらってました(笑)。母にはとても感謝してます。

画像3


そんな帰国子女あるあるな引きこもり生活をしていたなかで、実は塾だけはとても楽しく通っていました。当時、世間知らずだった私は算数をパズルゲームの一種だと思っていたんです。塾っていうのは難易度の高くて面白いパズルを出してくれる遊び場だと勘違いしていて「子供は勉強より遊ぶことのほうが大事」という母の反対を押し切って通わせてもらっていました。のちのち、塾は受験のための場だと知ったときは驚いたのですが、公立の中学に行く気にもならなかったのでそのまま受験することにして、バージニアを思い出せる緑が多くて広いキャンパスが気に入ったので学習院中等科に入学しました。

画像4

ー中学・高校生時代について教えてください

NBAが大好きだったので中学ではバスケ部に入りました。成長期が遅くて学年で1、2を争う低身長だった私は全然通用しないのが悔しくて、せめて体力だけは勝ってやろうと全力で走り込みし続けた結果、半年で両膝を怪我して辞めざるを得なくなってしまいました。そのあとは正直あまり記憶がないですね。なんか夢中になれるものを失って、ほんとにダメ中学生としてたぶんパワプロとかやってダラダラ生きていたんだと思います。

そのなかでは唯一、今の企画好きの原点にもなるんですが、文化祭だけはほんとに夢中で取り組みましたね。プロ野球のイベントをやったり、教室を準備日に釣ってきた魚で埋めてリアルな釣り堀を作ったり。顧問の先生には無茶過ぎるって猛反対をくらったんですが、やってみたら両方とも3時間待ちとかになって表彰してもらいました。思えばこの頃からかもしれないですね、他人の批判に耳を傾けなくなったのは(笑)

画像5

高校時代は初めて自分に自信が持てるようになった大きな転機でした。本当は昔から好きだった乗馬部に入ろうと思っていたんですが、筑波大でエースとして全国4連覇を成し遂げたばかりの現役バリバリの選手がコーチとしてバレーボール部に入ってきたんです。この人のもとならもう一度夢中になれるかもしれない、と思って入部しました。チーム自体は弱小なんですが強豪校並のハードなトレーニングをさせてもらえてほんとに充実した時間を過ごさせてもらいました。

親が「高校で明らかに性格が変わった、あの先生は恩人」とよく言っているのですが、振り返ると確かに努力をするための根性と体力を身につけさせてもらったと思います。物理的にも体脂肪率5%を切っていましたし(笑)。小さい頃から努力できる人間がカッコいいと思っていましたが、情けないくらい全然実践できなくて。このときようやくそのきっかけを掴めたかな、と思います。

ー大学生のころはどのような学生だったのでしょうか

高校3年の秋になって、多くの友人が学習院大学に進学しないことを知ったんです。それなら受験しようと思って「テレビのプロデューサーになりたい」と父親に相談したら社会学を勧められ、私学で一番偏差値の高い社会学科がある上智大学に入学しました。

それから、ラクロス部に入部したんですが、バレー部のときほど100%努力し切れる場所じゃないなぁと思い半年で退部しました。ちょうどその頃に現れたのがホリエモンだったんです。彼のニュースで起業という人生の選択肢を初めて知り、次の時代はこういう場に世代で一番面白い人が集まるはず、と確信してベンチャーでのインターンや仲間探しをはじめました。

その頃、大学で一番エキセントリックだなー、と思っていた先輩がいて、彼はのちに最年少で佐賀の町長になったんですが、その人が智深館という学生団体を立ち上げるから一緒にやろう、と半ば強引に参加することになりました。これに熱中してしまって、そこでいろいろなことに手を出しました。伊右衛門のブランドマネージャーをお呼びして大学生向けマーケティングを実践したり、セブンイレブンのマーチャンダイザーを呼んで大学の売店の品揃え研究をしたり、衆議院選挙のタイミングには公開討論会に出席してもらうために当時出馬していた小池百合子氏(現・東京都知事)に直談判しに行ったりしてました。私、キラキラ系女子が集まる上智大学ではめちゃくちゃ浮いてたんですが、そのぶん面白い人が沢山集まってくれて、とても素敵な時間を過ごすことができました。

画像6

ー新卒でIBMを選ばれた背景を教えてください

学生時代から起業という選択肢は考えていました。ですが、当時の学生起業というと、一つ上の学年に慶應義塾大学の佐俣アンリさん(現・ANRI 代表)、東京大学・TNKの同い年には高橋飛翔さん(現・ナイル代表)が、もう少し上だと早稲田大学の村上範義さん(現・東京ガールズコレクション社長)がいたりして。みんなが能力的にも人間的にも凄すぎて、このレベルの人が本物の起業家になるんだな、自分じゃ無理かな、って思ってて、正直勝ちたいとかよりも尊敬の念が勝ってしまうくらい圧倒されていました。それで、起業するなら彼らとは違う自分なりの勝ち筋を作らないと、と考え大企業を経験することにしました。

当時、インターネット回線の訪問営業で関東1位までは成績を伸ばせたので、営業はできそうだ、と思っていてあえて経験する必要はないかな、と思って。あとは自分の傾向を考えたとき、とにかく昔から物覚えが悪くてセンスも良くない、本を読んだりしても理解が進まないタイプだったんで、とにかく一度「企業の完成形」を実例で体験できる、世界で一番成熟している企業で働いたほうがいいと思ったんです。世界的な企業をリストアップして巡ってみて、話を聞いているなかで、IBMにはIBMの成功事例を研究・体系化して他社に展開することで稼いでいる部署があると言われ、ここだ!って思ってIBMビジネスコンサルティングサービスに入社することにしました。今となっては自分の軸となってくれているITもコンサルも就職活動の軸にはありませんでした。

ーどのような新卒時代だったのでしょうか

学生時代、Salesforce.com JapanでインターンをしていたこともあってSFA/CRMがやりたいな、と思ってました。IBMはほとんどが会計系のシステムを担当するのですが、私は1年目での取得が必須とされていた会計系の資格の受験を無視したことで、見事に第一志望のCRMチームに配属してもらいました(笑)。

最初に携わったのは大手企業のグローバルでのCRM/SFA統合プロジェクト。当時、お世辞にも仕事ができるとは言えなかった私なのですが、小さくて人不足なプロジェクトだったので要件定義して設計図を書いて開発してテストを回すまで、ラッキーなことに一人でなんでもやらせてもらえたことで、システム開発の全体像を理解できるようになりました。次のプロジェクトもチームリーダーが入院し途中離脱したことで実質的にチームリーダーの役割を担わざるを得ない状況になって、そのままお客さんから新プロジェクトのプロジェクトリーダーに指名してもらいました。結果、完全に先輩・お客様や運のおかげなんですが、同期で一番高い評価をもらって2年目の終わりには戦略コンサルチームに引っ張ってもらいました。

移籍して最初のころは酷いもので、お客さんや上司に怒られ続け、プロジェクトを燃やし尽くした記憶しかありません。私、遅いんですよ、覚えるのが。実力だけで言えば同期にも明らかに劣ってたので、どうやったら勝てるだろう、と考えたときにバレー部で鍛えた根性と体力かな、と思って誰よりも働き続けることにしました。最大3つのプロジェクトを掛け持ちさせてもらって、9時から15時で1つ目、15時から22時が2つ目、23時から3時が3つ目という感じです。そこで、当時、登場し始めたSNSや、オンライン/オフラインを統合したマーケティング戦略などの新しい研究領域を沢山学ばせていただきました。

画像8

本当に素晴らしい環境に恵まれていたので起業は延期して、そのまま今のチームでプロジェクトマネージャーできるようになるまで続けたいな、と思い始めていた折、友人から起業するという話を聞いたんです。どんなことやるの?と聞いたら、"Shopkick"(店舗へのチェックインアプリ)のようなサービスをやると言うんです。

当時シリコンバレーではとても話題になったアプリだったのでもちろん私も知っていて、O2Oの領域には強い関心があったので IBM を休職して手伝うことにしました。当時、年間稼働目標の300%くらいを既に達成していて、上司も理解のある方だったので時間は充分に確保できました。ただ、始めてみたら運よく素敵なお客様と出会うことができ、大手小売業を中心に沢山の案件を担当させていただくことになっていました。さすがに辞めるという選択肢はなかったのでIBMを正式に退職。その後、紆余曲折あって会社を買い取ることになり、気づいたら代表になってました。

よく「どうやって起業の決心したの?」と聞かれるのですが私は完全に「気づいたら」って感じです(笑)。その後、無事会社は成長して創業から2.5年でトランスコスモスグループ入りすることになりました。

画像9

ーplaygroundの創業について教えてください

noteの記事にも書いたのですが、売却後、しばらくは幸せな日常生活を過ごしていました。日中働いて夜は友だちと飲んで週末は大好きな釣りをする。ただ、そんな日々を過ごしていたら、死ぬときに後悔するんじゃないか、という恐怖感が生まれてきました。そこで、文化祭の企画をやっていたときのように働くことに熱中できる場を作りたい、と思って作ったのがこのplaygroundという会社です。社名の由来は文化祭が行われていた「校庭」。仕事に没頭する日々を送り、人生を振り返ったときにやりきったな、と思えるような時間を過ごせる会社にできたらと思っています。

画像10

ー研究員コメントー

起業家の情熱について考えてみたい。「Keep looking, Don't settle.」あまりにも有名なこの一節は、その有名さゆえに議論の対象となる。情熱とは偶発的なものだ、情熱は育てられる、とか。ただ、伊藤圭史氏ほど、その宝探しに躍起になった人物も珍しいだろう。その歴史は幼少期からはじまる。住んだ場所の数、手を付けたスポーツも数しれない。野球、バスケットボール、バレーボール、釣り、乗馬、ラクロス、そして大学時代のビジネスと、情熱を捧げる対象をテストしては、また別に移る。

だが、情熱を探そうだとか、育てられるとか、そういった話の対象物はいわゆるテーマの話だ。そうではなくて、そのテーマ探しをするエネルギーの源泉となるような、そういった人生観のようなものについて、ここでは考えてみたい。

伊藤氏は、小学生の頃、大好きだったバスケットボールや野球を、やりたかったのに、やれなかった。いや、やれる環境にあったのだが、やらなかった。それが、ひっくり返ってパラノイア的に後悔というものを恐れている。本インタビュー中、とても印象に残っている言葉がある。「才能がないことで恨むのは仕方がない。ただ、努力し切らなかったことで、後で後悔するのは最悪な気分だ」。才能があるかないかは分からないが、才能が使い尽せなかったとしたら、それは死ぬときに後悔する。それが、彼が努力し、探し続ける理由だ。

さて、その狂おしいほどの努力に対する信仰は、どこからやってくるのだろうか。それはきっと、自身の存在理由の探求だ。なぜ生まれてきたのか、この人生にはなんの意味があるのか。引っ越しの多いムービングな環境が、そういった内省的な人格を形成したのかもしれない。それは承認欲求とかいう生易しいものじゃない。自身の人生との闘いだ。少年時代の些細な出来事だったかもしれない。ただ、死を迎えるその瞬間に、自身の存在する理由を実感することが出来なかったなら、という強迫観念が、伊藤氏をそうさせているのだろう。だからこそ、"イグジット"という一般的に見れば成功という状態には満足できない。平凡な幸せは、生きる意味を満たさないのだろう。起業家という生き物には、少なからずそういった側面がある。

伊藤氏の凄さは、そういった隠しようがない自らの感情や価値観を、うまくキャリアの戦略にのせて、行動に昇華させたことだ。まさに人の3倍働いたのだろう。ただし、それは自身の可能性を拓く機会となった。変えられない自分自身と向き合い、うまく付き合う術を見出したからこそ、いまの姿があるのではないか。あなたにとって、変えられない自分とはなんだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?