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百田尚樹さんの選挙演説を聞いて

東京15区選挙は大変に残念な結果でした。
私は埼玉県民なので、投票は出来ないけど、YouTubeで飯山あかりさんや百田尚樹さんの演説に、心打たれてました。

戦争から帰還した人が日本を、復興した!百田尚樹さんの演説を聞いて、
80代で亡くなった父も、戦争に行き、戦後は微力ながら日本経済に貢献したのだと、しみじみ思いました。

形見に、父がいつも大事にしていたアタッシュケースから、数ある中のパスポート一冊と、母への手紙をひっぱり出してマジマジと見ることにした。

昭和30年代のパスポート



昭和30年代は、飛行機✈️でアメリカに行くのが珍しい時代です。会社持ちですが、ファーストクラスにも、幾度か乗ったようです。給油の為にハワイに着陸する時代です。
家には、各社の航空バックが沢山あったのを記憶してる。

休日の父

広大な移動手段は水上飛行機だそです


トレラーハウスの前の父。移動中かな?


父はアメリカで商社の仕事をしてました。
母に届いた手紙には、戦後 間もないので、日本人に敵対心を持ってるアメリカ人もいて、人種差別もある。兎に角、友好に、努めてる。なによりもアメリカは銃社会なので、慎重に友好を意識して仕事を頑張ってる様子が書かれてました。
のちに父の所属してた、安宅産業関連会社などは、オイルショックで倒産した。その後の父は仕事に恵まれなかったが、淡々と、愚痴も言わず懸命に働いた。

幼い私にも、フェアバンクスで見たオーロラの美しさや、白夜のこと、国土が広いので、水上飛行機で移動すること、とにかく国が広いので、車を運転しても、どこまでも真っ直ぐな道路と風景が変わらない事など。。。。
アラスカにいた頃には、まだ無名の冒険家で大学生の頃の植村直己さんが、日本人会を通じてバイトに来た話など。(その頃から、マッキンリーの山を、下見してたのでしょうか?)

ドライブに行ったのでしょうか?
どこかな?

晩年の父は、私達が帰省すると、孫(私の息子)達に、ウイスキーを飲みながら、染み付いた自然なジェスチャー混じりでアメリカ時代の事を、陽気に表情豊かに話す楽しい父でした。

今考えると、戦後まだ浅い時期に、戦った国に行き、日本人チーム一丸で現地の人と友好を深めながら、高度成長の一端になっていたのだ!
あの時代の日本人は、根性と責任感があり、チャレンジ精神が強い人が多かったのだろうか?

母へのハガキ



何よりも、父不在の留守宅を、3人の子を育て、しっかりと守る強靭な母が居たから、父も仕事に専念できたのだ。それぞれの役割をきちんと、果たして、両親は天国に居る。私は余り父と話さない子だった。
もっと、たくさんの話を聞いておけば良かった。

百田尚樹さんが言われた日本の美徳と文化を
内側からジワジワと壊そうとしてる今の政治、法曹界、経済界を天国の御先祖様達は、どう思ってるのでしょう。





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