今夜も召し上がれ 第14夜

第14夜 東京地裁の牛すじカレー蕎麦

 俺は大学生だ。
 半年前はまだブレザーに身を包み、高校の教室でキャッキャしていた年である。
 それでいて、18という一応は成人の身分と遥かに自由になった意思決定権を、スカスカの財布に挟み、ジーパンの尻ポケットに突っ込んで行動している。この、手ぶらの身軽さと、必要最低限に足るか足らぬか程度の責任を取れる懐が大学生の強さであり、すなわち俺の武器である──とはいえ、東京地方裁判所をその格好で訪れるのは、ちょっと……いや、かなりよろしくなかった。

 東京に張り巡らされた地下鉄と格闘すること1時間、俺はやっとのことで東京地方裁判所の前にたどり着いた。
 そもそも、俺はひとりで地下鉄に乗るのがはじめてなのだ。階段をひとつ上がっただけで全く行き先が違うだなんて、大都会東京はどれだけ場所が足りていないのやら。
 地裁の入り口に臨む前に、ポケットのなかからスマートフォンを取り出し、愛用の帆布のトートバッグに入れる。金属探知機のゲートを通ると聞いていたから、そこまでする必要があるのかはわからないが、今日は鉛筆削りのカッターナイフも置いてきたし、ベルトのバックルもプラスチックのものだ。
「手荷物こちらにお願いします、ポケットにスマートフォン入ってないですか?」
 揃いの制服の警備員が構えていて、荷物を金属探知機に飲み込ませる用意が整っている。
「それもお預かりしましょうかね」
 それ、と警備員が示したのは、俺の胸ポケットに差していたボールペンのことだった。
 確かに、ボールペン型の注射器や拳銃が出てくるスパイ物は多いしな。
 なにごともなく金属探知機を通り、トートバッグを番号札と引き換える。
 そこはもう、東京地方裁判所であった。
 もう、というかとっくに東京地裁なのだが、傍聴を物色するひとの背中が見え、老いも若きもパリッとしたスーツ姿で早足に奥へ去っていく。
「およ……?」
 あれ……これ、俺の格好、もしかしなくても浮いてるな?
 胸ポケットのあるTシャツと、ポケットがたくさんついているデニムは非常に便利なのだが、いかんせんカジュアルが過ぎる。そのことに、出発前に気付けばいいものを、ここまで全く失念したままきちゃったのである。
 教授が特に格好について指定しなかったからといえばそれはそうなのだが、大学生にもなって基本的な配慮ができないことを露呈している気がしてならない。かといって着替えてくるわけにもいかず、俺はTシャツにジーパンで裁判の予定を物色しに行くことにした。

 裁判所、と言ったって、そこで働いているのは人間である。映画やアニメのなかのように行くことばかりでもないのが実際のところだ。検事は証言のなかの名前を読み間違えたりするし、弁護士は証拠を承認してはいけないのに承認と言ってしまったりするし、判事は次の審理の予定を擦り合わせるという飲み会の幹事みたいなことをする。
 自販機は路上にあるものより少し安価に設定されていて、水やお茶、その他はカフェインを含むものが多かった。
「なんか、思ってたのと違うな」
 だったらお前は裁判所をなんだと思っていたんだと言われれば、それはそれで困るが、なんとなく、もっと格好いいと思っていたような、そんな気がする。
 検事はなぜかみんな、持ち物を風呂敷で包む。

 午前の裁判が終わり、教授や他の生徒と少し話をしてから、昼食にする運びになった。
 地下1階にあるファミリーマートで何か調達してもいいし、食堂を利用してもいいとのことだそうで、それならば食堂に行かない手はない。
 裁判所の食堂なんて、この先いつ行けるか分からないのだ。幸い、今月は懐事情もそこまで厳しくない予定である。
 陰気な階段をとんとこ降りて、地下1階にたどり着く。
「あ」
 裁判所らしからぬ、と言ったら変な話だが、階段室の戸を開けたとたん、今まで空間のなかにほとんど漂っていなかった食べ物の匂いがすることに気付いた。
 大体、法廷は飲食禁止だから、裁判所の地上階はほとんど食べるものの匂いがしない。街中でもなんでも、ごく自然に漂っている匂いがするだけで、こんなにもなにかを身近に感じることがあるだなんて思いもしなかった。
 この匂いは……なんだろうな、麺類だろうか。出汁のような香りだ。
 そういえば、昔見た傍聴マニアの映画で、そばをすすっているシーンがあったような、なかったような。
 他の廊下がそうであるように薄暗い通路を抜け、廊下に置かれた券売機の前に立つ。
  そばを中心に、カレーライスやらうどんやら、レトロな食堂のような名前が並ぶ。思いの外充実しているし、そして安い。
 今どき、400円を切るカレー蕎麦なんてあるだろうか。
 弁護士や検事がここで食事をするかどうかは知らないが、厳めしい19階建ての司法によって地下に閉じ込められたこの場所だけ、時代が進まないままのようだ。
 食券を自分でお盆にのせ、待つこと数分。
 パートなのか社員なのか、不馴れな手付きでカレーをかけられた蕎麦が、お盆に乗せられる。湯気と共に、よく煮込まれたカレーと出汁の香りが立ち上る。
 日本の首都の、その政治的重心とは思えない、普通でいい香りだ。
 午後から見るの、強盗致傷のつもりだったんだけど。
 割り箸を箸にし、親指に挟んで手を合わせる。
「いただきます」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?