カフェと余白

コロナパンデミックが始まるまで住んでいたブライトンではカフェが多く、そのカフェ文化を自分も楽しんでいた。
日本に帰ってきて同じような感触のカフェを探したが、どうもしっくりこない。東京でもエスプレッソベースのカフェはたくさん現れたが、その違いを言語化できずにいた。
そんな中でも数少ない寛げるカフェ(オーナーはカフェではないと主張している)のオーナーとカフェ論を交わしていたら、オーナーが「自分は余白を大事にしている」と話してくれ、自分がカフェに何を求めていたか、またなぜその店が好きかやっと気付いた。
思うに東京の最近出来たカフェはまるで寿司屋のように客の経験を予め決定しているところがある。それを楽しむ文化も否定しないが、あらかじめデザインされた経験を許さないような空気がそこにはある。だが、自分がカフェに求めているのは、そのようなデザインされた経験ではなく、色々な経験を許す余白なのだ。
多分、これはカフェにとどまる話ではなく、東京の色々な空間にもあてはまる話ではないかと思う。

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