子育て、人生の登竜門

どうも、ゴリ松千代です。


先日、パパ友家族が遊びに来た。子どもの前を歩き、強がりな背中を見せ、時に肩を並べて子どもと共に歩む。こうして育まれた『親として良くあろう、正しくあろうとする気概』が、親である私達に確固たる芯を与えてくれる……なんて批評をしてみたものの、普段そこまで考えずに子育てに対し純然と向き合っていた。が、やはりそれは個々の人間なのだ。あなたという出来た人間がいるだけで、それが出来ない人間もいる事を間接的に気付かせてもらう出来事は依然としてある。私はこの『出来た人達』におんぶに抱っこでずっと甘えてきた。これは確信だ。最初は愚痴ろうと思っていたが、私は今日という日を最大限の感謝で締めくくろうと思う。

と、会って早々にそんな話をした(どう思い返してもこんなに堅くないが)。そしてこんな私の戯言に対し、しっかりと耳を傾けてくれる。そして間髪を容れずに「うんうん。で、何があったの?」と喉元に差し込むその必殺の地獄突き。最高だ。それを待ってたんだ。……とばかりについ本音が出てしまった。泣きついてしまった。甘えてしまった。なんて事だ。私は少しずつだが、必死に言葉を紡いで愚痴をこぼし始めた。「このパパ友と違って、」という相対的な評価になってしまう事を念頭に置き、読んでもらいたい。

いざ対面で人間関係の敷居を跨がせると、やはり取り繕ったコミュニケーション能力の裏に粗が目立つ事がある。こちらから話しかけなければ絶対に話そうとしない、まるで自分の家に自分一人しかいないかのように他人の家で振る舞う、ただただ子どもと同調して遊ぶだけで注意喚起が出来ない等、年齢だけを無駄に重ねてきた大人。独身同士ならこういった粗雑な関係も許されるだろうが、良い大人がこれでは頭も痛くなってくると言うもの。狭いコミュニティーの中で生きてきたのならそれをするのは荷が重いし、私から強く求めるのもいささか残酷なのは分かってはいるのだが。

わざわざ他人の家族に混じり「そのうちパパ嫌いって言うよ」「一緒に服洗わないでって言うよ」と何処かで聞いて覚えたであろう昭和な定型文を吐き出す人間も多い。大変面白い、そして興味深いと思う。親子という関係性を目の前にしたコミュニケーション能力の引き出しの少なさの露見が。「冗談じゃん」「その程度も許せないのか」等といくつものカウンターを懐に忍ばせて、自分で考えた発言でもないのにさもスムーズな会話かのように余計なテンプレートを挟む。それを言われて楽しい気分になる『だけ』のお友達が周りに多いのだろう。知っている鳴き声を喚き合って安心する豚だ。

家族や職場だけでなく子どもの通う幼稚園や学校、PTA、評議会、教育委員会などで100人、200人単位での付き合いが多くなると「こいつは本当に協調性がないな」と言えるヤバい奴に出くわす(気付ける、と言った方が正しいかもしれない)。エンチャント不機嫌な属性の言動で他人を動かし、「私が楽しんでいないぞ、空気を読め」とばかりに我を通し、自分の幸せを追求する。それを許してくれる『心の広い人間』と居るか、帰って一人でやれ。人の良さ、懐の深さにタダ乗りするような愚行。やりたい放題がすぎる。「最初からこいつは変わらずこういう奴だから仕方ない」としばらく思っていたが、変化のないモブ人間を許し続けられるほど私もラブに満ちているわけではなかったのだ。

更に酷いなと思ったのは、自分の未熟さ、愚鈍さを棚に上げて他人を茶化し、からかって笑いを取ろうとする人間だ。普段の生活の中なら「私は所詮私だから」などと自分に言い聞かせてやり過ごす。だが、盛り上がると踏んだその自己判断を、あろう事か子の前でその親に言ってのける人間がいた。私にはこういった親を立てられないような人間に対して抜いた刀で縁ごと断ち切る信念がある。TPOで立ち回りの変えられない、変わらない人間は要らない。そしてそんな人ならざる物と友人を比べてしまっている私もまだまだ未熟だ。と言う事で、私の中で蠢いていたわだかまりは小さくまとまり、また冒頭の反省へと帰っていた。

ありがとう元上司、そして現パパ友。あなたの包容力とその芯のある行動力、そして『育児力』には、紛れもなく暖かな竜が宿っている。


(当記事は特定個人を非難している訳ではないので、『自他含む立候補や御推薦』はご容赦願いたい)

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