弱パンチ、弱パンチ、前進

どうも、ゴリ松千代です。


子どもが二人、三人と増えていくうちに、一番上の子に対し「良い子だね」と言われる機会が増えた。良い子である事は本人にとって当然ながら良い事だし、言ってもらえる事は親である私も嬉しい。だが手放しでは喜べず、いつも私は一抹の不安を抱えていた。私自身の人生の過ちを繰り返して欲しくないという、ステレオタイプな親を体現したようなただの我儘なのだが。

──私は『優しい子』だった。大家族と呼ぶに相応しい人数が家の中にいて、間違いなく私が一番優しかった。私が意識して優しくあろうと行動していたわけではないが、家族全員がそう言っていたのだからそうなのだろう。この「優しい」という言葉を何度も投げかけられ、しっかりと受け止めるようになってしまってからは、私は家族という線引きを超えて他の誰よりも一番優しい子であろうとした。

中学生、高校生の私の中の『優しい』の定義や選択肢はまだ狭く、小さく、そしてやはりどこか幼かった。他人に対しての我慢や妥協、譲歩。私は優しいのだから当然だとばかりに自分を押し殺した。最初は押し殺している自覚すらなかったのにその苦しさだけが私を追いかけてきて、いつの間にかそれは目の前に立っていた。私はもう限界だった。

私は話題として不釣り合いながらも格闘ゲームの事を思い出す。体力ゲージがあり、相手の体力をゼロにすると勝利になるあれだ。弱パンチを一発食らったところでダメージは屁でもないが、体力ゲージの最後の数ミリで同じように弱パンチを食らうとキャラクターが倒れる。「いや、弱パンチで倒れるってどういう事?」……昔の私はそんな風に思っていた。しかしこれは精神面となると話が違ってくる(もしかするとゲーム内でも精神面で倒れているかもしれないが、話が冗長になるのでやめる)。

弱パンチで自分の心が壊れる感覚、これはずっと生活の中に存在する。怒れなくなった時、誰かと距離を置いた時、関係を切った時。他人を慮れない人は「そんなくだらない事で」と言うだろう。最後の一撃がくだらない事もあろうが、その最後しか見えていないのなら私の心は何も分かるまい。ここまで書けば察して頂けるだろうが、私は『優しい』にカテゴライズされる人間ではなく、それが表面上のものである事は明白だ。

私に残る優しさを強いて挙げるなら、最後と呼べるタイミングで本人に対し全力でぶつけない所だろうか。とは言っても「どうせ何を言っても分からないだろう」という諦めが半分、そして「言って改善する事で良い人にでもなってしまったら相手の人生が好転しかねない」が半分なので、優しいとは違うと言われればそれまでだ。それでも何も知らぬ人に「優しい」と言われて訂正しないのは、それを利用する事が自分にとって有利に働くからに他ならない。


私の子ども達よ、良い子であろうとする気概は大事だが、決して良い子である必要はない。嘘をついても良いし、親に反抗しても良いし、親の考え方を疑っても良い。背伸びをするのは大事だが、その身長を自分だと偽らず、我慢し過ぎず、少なくとも自分にだけは素直でいて欲しい。それが私の望む我儘だ。

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