見出し画像

【小説】チョコレート・ビター

 二月一四日。
 
 赤とピンクで彩られたハートやリボンのデコレーションが街を埋め尽くし、ほんのりとチョコレートの香りが漂う日。意中の相手に想いを伝える愛の祭典・バレンタインデー。
 そんな甘くロマンチックな日の空気とは裏腹に、シトラスの心は重く沈んでいた。

「はぁ………」

 帰宅するなり、私服に着替えもせずにベッドの上に倒れ込む。スカートが皺になるだとか、ブレザーをきちんとハンガーにかけないと明日の朝に困るとか、頭の隅では分かっていても行動に移す気力が湧いてこない。咎める人もいないのをいいことに、そのままぐったりと横たわり続けた。

「前からモテモテだなとは思ってたけど……まさかこれほどまでだったなんて」

 床に無造作に置いた通学カバンがうごうごと蠢き、ひとりでにファスナーが開く。中から現れたのは、愛らしいミントグリーンの仔猫。ポメポメだ。

「ぷはっ……トルバラン、大人気ポメ……モデルとか芸能人みたいになってたポメ」

 かばんから這い出てきたポメポメはベッドの上に上がり、寝そべっているシトラスの隣にちょこんと座る。ポメポメの小さな頭をよしよしと撫でながら、シトラスは深いため息をついた。

「でも、心配無用ポメ。トルバランはシトラスしか好きじゃないポメ。シトラスも知ってるポメ」

「わかってるよ。別にトルバランが他の女の子のところに行くとか、疑ってるわけじゃないんだけどさ……」

 そう呟きながら、テーブルの上に置かれたラッピング袋を見つめる。中には手作りのチョコレート味のマフィンが入っていた。学校が休みの日にキルシェの家で作ったそれはまだ、目的の人に渡せていない。

(トルバラン、いっぱいもらってたな……)

 思い出すだけで胸がちくりと痛む。彼が女生徒からプレゼントを贈られたこと自体は今までも何度かあったが、今日のそれはいつもと比べ物にならないレベルだった。

 自分もそうだったように、みんなそれぞれトルバランのことを真剣に考えて今日のためにチョコレートを用意をしていた。それも、あんなに大勢。それぞれに形は違えど、みんな自分の大事な時間やお金をかけて彼に想いを伝えている。


 ―じゃあ私は?
 ―本当に、あの子たちに負けないくらい、真剣に考えてチョコを用意してた?
 ―もっとお金をかけることも、もっと時間をかけて本格的なものを作ることも、もっと本気で頑張れば出来たんじゃないの? 

 ぐるぐると頭の中で自問自答を繰り返す。
 考えれば考えるほど自分は彼女達のように本気に、真剣に、このバレンタインデーに向けて準備していたか自信がなくなってきてしまった。
 トルバランのことは大好きだ。心から愛していると言えるし、愛されている自覚もある。そんな信頼と同時に自分はトルバランにとっての特別で、そのたったひとつの席には自分以外の誰も座れないのだという一種の傲慢さも心のどこかで抱いていたのかもしれない。

 ―今の私は、本当にその席に相応しいのかな?
 ―私よりもトルバランのことを想って、一生懸命になれる人がいるんじゃないのかな……?


「ポメ――――――――ッ!!」

「いたっ」

 ぺちっ、と頬に何かが当たる感触と共に視界が開ける。目の前には頬を膨らましたポメポメがいた。どうやら彼女の尻尾で叩かれたらしい。

「今のシトラスの顔、あんまり良くないことを考えている時の顔ポメ……!」

 そんなことが分かるのか、と思ったものの。実際にその通りだったので言い返すこともできない。ポメポメには全てお見通しだったようだ。

「……ごめん。確かにちょっと、卑屈になってたかも」

「ほんとにちょっとだけだったポメ?」

 じと、と訝しげな視線を向けてくる彼女に苦笑しながら答える。

「ちょっとだけだよ、多分……」

 ―嘘。本当は結構、ネガティブになっているかも。

 だけどそれを素直に言葉に出すことは出来なかった。言えばきっとまた叱られてしまうし、何よりこんな些細なことで心配させるのも申し訳ない。シトラスは極力、自分の心の問題は自分だけで解決したいタイプだ。忍耐強いと言えば聞こえはいいかも知れないが、抱え込んだ問題を他人と共有せずに一人で深みに嵌ってしまう事も多々あるので、シトラスを取り巻く人々はもっぱら彼女の問題点として捉えることが多い。

 ポメポメも当然そんなシトラスの本質を見抜いているので、更にじっとりとした目つきで彼女を睨んでいる。そしてやがて小さくため息をつくと、ベランダに向かって歩き出し窓を開け放った。

「ポメポメ……? どこに行くの?」

 冬至を過ぎて昼は長くなったものの、一六時にはもう日が沈み始める。こんな時間から出かけるのかと思い身を起こして声をかけると、彼女は振り返らずにこう答えた。

「今日はキルシェの家に泊まるポメ。もし明日帰ってきてもちゃんと渡せてなかったら、そのチョコはポメポメがもらって食べちゃうポメ!」

 そう言い残してベランダから飛び降りると、ポメポメは猫特有のしなやかな動きでどこかへ走り去ってしまった。取り残されたシトラスはしばらく窓を見つめた後、ベッドへと戻ってぽすんと仰向けに寝転がる。

「何やってるんだろ、私」

 天井を見上げながらぽつりと呟く。言い方は素直ではなかったものの、ポメポメはシトラスがトルバランと二人きりになれるように気を遣ってくれたのだろう。その善意に感謝しつつ、同時に心細さを感じた。

 自分とトルバランの間に入ってくれる人は誰もいない。トルバランにバレンタインの贈り物を渡せるかどうかも、素直に気持ちを伝えられるかどうかも、あとは全部シトラス次第だ。

(……どうしよう)

 今日は特段会議があるわけではないと言っていたので、トルバランは恐らくあと一時間もすれば仕事を終えてアパートに帰ってくるだろう。学園の女の子たちから貰った、大量のチョコレートと共に。どうも、今夜はバレンタインデーの話題から逃れるのは難しそうだ。

「なんで、バレンタインデーなんてあるんだろ……」

 世間の乙女に聞かれたら一斉に抗議されそうなことを呟きながら、もう一度深いため息を吐く。トルバランが帰宅するまでに、覚悟を固めなければならない。そう思いながらも身体は重いままで、シトラスはしばらくベッドの上から動けなかった。

 ***

「ただいま戻りました」

 ポメポメが家を出ておよそ一時間。玄関の扉が開く音と共にトルバランの声が聞こえてきた。どうやら当初の予定通り定時で退勤出来たらしい。深呼吸をして息を整えてから、シトラスは玄関先まで迎えに行く。

「おかえり……わ、すごい量だね」

 仕事用のカバンは肩にかけ、両手が大量のチョコレートの入った紙袋で塞
がっているトルバランを見てシトラスは目を丸くした。やはり予想通りと言うべきか、今日一日で相当数貰ってきたようだ。運ぶのを手伝おうと紙袋のひとつを受け取ると、ずしりとした重みが伝わってくる。

(うわ、重たい……)

 両手で持ち直しながらちらりと中身を確認すると、可愛らしくラッピングされた箱や袋が大量に入っていた。チョコレートだけではなくクッキーやキャンディなど菓子類も多く混ざっている。

 見るからに手作りのものもあれば、有名な高級店の包装紙に包まれたものもあって、だけど恐らくそれらはどちらも贈り主にとっては本命チョコなのだろう。そう判断できるものがこの中だけでも複数あることに気付いてしまい、紙袋の重さが増したような気がした。

「すみません、重たいでしょう? 中身はあとで確認するので、一旦リビングに置いてもらえますか?」

 頷いてリビングに向かい、テーブルの上に紙袋を置いていく。どう考えてもこれは、―いくらトルバランが魔族と言えど、たった一人でどうにか出来る量ではない。

(こんなにたくさんあるのに私まであげたら……迷惑になっちゃうよね)

 そう思うと渡すのが躊躇われてしまう。キルシェに作り方を教えてもらったのに。ポメポメがせっかく二人きりにしてくれたのに。

 このままチャンスを無碍にして終わってもいいのだろうか―そんな風に考えながらも、シトラスはトルバランが帰ってきたら渡そうと思いキッチンに隠していたラッピング袋をこっそり持ち出す。

 トルバランは私服に着替えるために真っ直ぐ脱衣所へ向かったのか、まだリビングに入ってきていない。それを確認すると、シトラスは足音を忍ばせて寝室へ向かいベッドの影に小さなラッピング袋を隠すようにして置いた。

 ずっとそこに置いておくつもりではないが、とりあえず今はトルバランの目に届かない場所に隠しておきたかった。

(ポメポメごめん……ほんとにポメポメのおやつになっちゃうかも)

 明日には帰ってくるであろうポメポメを落胆させてしまうかもしれないという罪悪感に苛まれながら、ひとまず隠し場所を確保することに成功した。この分ならしばらく気付かれずに済みそうだが、寝る前までにまた別の場所に移動させなければ。

 リビングに戻ると、トルバランはまだいなかった。シトラスが何かを隠したことに、恐らくトルバランは気付いていないだろう。そう確信して、ほっと胸を撫で下ろす。程なくして、仕事着のスーツからVネックのセーターにスラックスを合わせた私服に着替えたトルバランが出てきた。手にはシトラスが運ばなかった分の紙袋があり、こちらもなかなかの量のチョコレートが入っているのがわかる。トルバランは先にシトラスが運びこんだ紙袋の隣にそれを置くと、シトラスに向き直った。

「おや……まだ制服から着替えていなかったのですね?」

「えっ」

 言われて初めて、帰ってきてから私服に着替えてないことに気が付いた。トルバランにチョコレートを渡すべきか否か悩んでいる内に、忘れてそのままになっていたらしい。

「あっ、か、帰ってからちょっとお昼寝してて……」

「珍しいですね……疲労が溜まっているのではないですか? 最近は現れる魔獣も強くなってきていますし、あまり無理はしないでくださいね」

 トルバランは身を屈めてシトラスの額に己の額を重ねる。心配そうな表情で顔を覗き込んでくるが、至近距離にある美しい顔に動揺してしまい、うまく返事が出来ない。

「だっ、大丈夫! 寝たらすっきりしたし……そ、それよりご飯にしようよ!」

 慌てて顔を背けると、足早にキッチンへと向かう。

「そういえば、ポメポメは」

「今日はキルシェのとこに泊まるって」

「そうでしたか……手伝ってもらおうと思ったのですが」

 そう言ってトルバランは、テーブルの上の膨大な量のチョコが入った紙袋を見下ろす。ポメポメは見た目こそ猫そのものだが、その正体は聖獣族だ。故に、本物の猫が食べることが出来ないものも口にすることが出来る。猫にとって毒同然であるチョコレートも例外ではない。

「ポメポメ、チョコ好きだもんね」

「皆さんからの心遣いはありがたいのですが、この量は流石に私一人ではどうにも出来ませんので」

 だろうな、と思いながら再びテーブルに目を向ける。どう見ても一人で消化できる数ではない。シトラスが手伝ったとしても数日はかかりそうだし、一度に食べる量を誤れば胸焼けを起こしかねない。

 それに―

(やっぱりチョコの量に困ってる……渡すの、やめておこうかな)

 自信が無いのに渡すのはそもそも相手に対しても失礼だし、とあれこれと尤もらしい言い訳を並べながら自分を正当化させる。自分が意気地無しなのではなく、状況が良くなかった。そう思い込みたいのに、心の何処かではそんな言い訳ばかり並べる自分を最低だと罵っている声が聞こえる。

 ひとまず、先ほど寝室に隠したラッピング袋は明日ポメポメが帰って来るまで別の場所に移して隠しておこう―そんなことを考えながら、トルバランと共に夕食の準備に取り掛かった。



 渡さないことにしよう、と一度決めてしまうと意外と気持ちは楽になった。別にバレンタインにこだわる必要もないし、大事なのは日頃から感謝と愛情を伝えているかどうかなはずだ。

 一緒に本命チョコを作ろうと誘ってくれたキルシェや、気を遣ってトルバランと二人きりにさせてくれたポメポメには申し訳ないけれど、二人にはちゃんと後で事情を説明しよう―そう思いながら、夕食の後片付けを始めたのだった。

「ふぅ……終わった……っ!?」

 洗い物を終えて手を拭いていると、ふわりと後ろから抱きしめられた。こういうことは、別段珍しくない。家の中だと他に誰も見ていないからか、トルバランはこうして頻繁にスキンシップを求めてくる。ポメポメが起きている時は流石に大人しめだが、今日は彼女がいないから遠慮がないのだろう。

 しかし、今のシトラスにとっては心臓に毒だった。普段なら素直にこの好意を受け入れられるのだが、シトラスは今トルバランに隠し事をしている。近付いて触れられると、それが伝わってしまうような気がして怖くなった。

「……どうしたの?」

 平静を装って問い掛けるが、内心気が気でない。抱きしめられてドキドキするのはいつものことなのに、今日のそれは別の意味を持っている。

「いいえ? 洗い物をしてくださってありがとうございます」

 労うような優しい口調だ。ただ純粋にお礼を伝えようとしてくれているだけなのだろうか。それなのに、妙に緊張してしまう自分がいた。
 後ろめたいことがあって、その相手がすぐそばにいる。しかも、自分を抱きしめている。それがこんなにも居心地の悪いものなのだと、シトラスは今初めて知った。

(うう……はやく離してほしい……)

 せめて顔を見られないようにと俯きながら心の中で祈るも、腕が緩む気配は一向にない。振りほどいて逃げる、という選択肢も無くはないが、明らかに不自然だし。何よりそんなことをすれば何かあったと言っているようなものだ。かといってこのままでいるわけにもいかない― ぐるぐると悩んだ末に、シトラスは遠慮がちに口を開いた。

「え、えっと……トルバラン?」

「何でしょう」

「あの……ほら、やらなきゃいけないこと、あるでしょ? 私も手伝うから」

 シトラスは目線でトルバランが貰って来たチョコレートの山を示す。帰ってきた時、トルバランがあとでこれらの中身を確認すると言っていたのを思い出したのだ。その作業を手伝うことを口実に離れてもらおうと思ったのだが、口にしてからシトラスは後悔した。

 これでは、避けたいと願っていたバレンタインデーの話題に自分から飛び込んでしまったことになる。

「……ああ、なるほど。確かにそうですね」

 トルバランはシトラスの目の先を見て意図を理解したのか、頷いた。しかし、シトラスを抱きしめる腕の力は全く弱まらない。むしろより強くなっている気がする。まるで離すまいとしているようだと思ったところで、トルバランはシトラスが最も恐れていることを指摘した。
 
 
「ところで、シトラスからはまだ何もいただいてないのですが?」
 
 トルバランの腕の中のシトラスは、ぎくりと肩を強張らせる。やはり見逃してはもらえなかったらしい。何と切り返せば良いものかと頭を悩ませていると、トルバランが続けて口を開く。

「魔界にこのような風習はありませんでしたが、流石に三〇〇年も生きていますから。今日が人間界でどのような意味を持つ日なのかくらいは、把握しています」

 言いながら身体を離すと、くるりとシトラスを自分の方を向かせて正面から見つめた。後ろめたさから視線を逸らすが、頰に手を添えられて強制的に視線を合わせられる形になる。

「が、学校でいっぱいもらってたじゃん……」

「そうですね、でもシトラスからのものではありません」

 きっぱりと言い切るトルバランに、シトラスはまた閉口してしまう。だけど、まだ言い返す切り札はある。

「それに、食べなきゃいけないものいっぱいあるでしょ?」

 チョコレートの山の方に視線を移して、ね、と同意を求めるように微笑みかけると、トルバランは再びシトラスに視線を戻して答えた。


「そういう話ではないことぐらい、わかっているでしょう」

 どうして今日に限ってこんなに意地悪いのか―そんなことを思いながら口を噤む。

 トルバランもまた、今日のシトラスがどうも様子がおかしいことに気付いていた。いつもならすぐに折れるはずなのに、今日はやけに頑固だ。まるで何か、自分に知られたくないことでもあるかのように。だけど、その理由は何となくわかっていた。

 もし、この憶測通りなのであれば―そこまで考えて思わず笑みがこぼれる。

「そうですか、貴方がそこまで意地を張るのであれば仕方ないですね」

 トルバランはシトラスの頬に添えていた手を、そのままシトラスの背中とひざ下へと伸ばす。

「えっ」

 そしてそのまま彼女を軽々と持ち上げると、リビングを出て廊下を進み始めた。


「では、シトラスごといただくことにします」

「なっ……!? ちょ、ちょっと待って……!」

 トルバランの言葉に驚いて腕の中で暴れるがびくともしない。やがてベッドに下ろされるとそのまま押し倒されてしまった。慌てて起き上がろうとするが手首を掴まれてしまう。上にのしかかったトルバランの重みで、身動きが取れない。至近距離で見つめられてどきどきすると同時に気恥ずかしさが込み上げてくる。顔を真っ赤に染めながら見上げると、にこりと微笑まれた。

 その笑顔はとても綺麗で見惚れてしまいそうだが、同時に嫌な予感を覚える。こういう顔をする時は、大抵ろくな事にならない。今までの経験からシトラスはそれを嫌というほど学習していた。

「待って、制服しわになっちゃう、から……」

「夕方そのまま寝ていたのでしょう? 今更気にすることでもないと思いますが」

 先ほど咄嗟に吐いた嘘を引き合いに出され、またも言葉に詰まる。その間にもトルバランの手はシトラスの身体を這い始めていた。太ももをさわさわと撫でられてくすぐったさに身をよじる。

 白い脚に触れる指先はゆっくりと這い上がるようにして上へ伸びていき、やがてスカートの裾を押し上げて足の付け根に届きそうになっていた。

「んっ……だめっ……」

 背筋にぞくぞくとした感覚が走る中、それでも必死に耐える。ここで理性を失ってしまうと、完全にトルバランのペースになってしまう。そうなるのだけは避けたかった。そんな彼女の態度を見兼ねて、トルバランは耳元に顔を寄せる。

「本当に駄目ですか?」

 吐息を含んだ声で囁いただけで、シトラスはびくりと身体を震わせた。その反応を見て満足そうな笑みを浮かべると、追い打ちをかけるように耳たぶを軽く食んでやった。すると彼女の口から声にならない悲鳴が漏れ出て、本人の態度とは裏腹に正直な反応が返ってくる。
 ここまでくれば、もう完全に流れはトルバランのものになったも同然だった。顔を赤らめながら見つめ返してくるシトラスを自分の方に向かせて、唇を奪う。太ももを撫でていた手はいつの間にか、シトラスの頬に添えられていた。

「んぅ……っ、」

 舌を入れられるかもしれないと身構えていたが、ただ触れ合ったままその先へ進む気配がない。ちゅ、とリップ音を立てて唇を吸われたり軽く食まれるだけだ。

 まるで焦らされているような感覚に、頭がくらくらしてくる。程なくして、トルバランは満足したのかゆっくりと顔を離した。

 シトラスが恐る恐る目を開くと、視界に飛び込んできたトルバランは不機嫌な子供のような表情でシトラスを見下ろしていた。拗ねているのは明らかで、何と声をかけたものかと考えている内にトルバランの方が先に口を開いた。

「ポメポメやキルシェさん、ロゼさんにはあげていたのに、私にはくださらないのですか?」

「え……」

 その言葉に思わず固まってしまう。彼の指摘通り、確かに彼女達には学校で友チョコ交換という形で渡していた。いつの間に見られていたのだろう。

「あ、あれは友チョコ……」

「ではそれすらもらえない私は友人以下と」

 途端に、冷水を浴びせられたかのように全身が冷えていくのを感じた。さっきまでシトラスの身体をしっかりと抱きしめていたのに、まるで愛想を尽かしたかのようにトルバランはあっさりと身を起こす。何も言わずに離れていくトルバランを見て、シトラスは慌てて声をかけた。

「ち、ちがうよ! そうじゃない!」

 ベッドから降りようとするトルバランの腕を掴もうと手を伸ばすが、ひらりと躱されてしまう。伸ばした手を下ろすことも出来ずにいると、見かねたのか彼は小さく溜め息を吐いた後、再び歩み寄ってきた。そしてそっと手を取ると優しく包み込まれるようにして握られる。半分泣きそうになりながら握られた手のひらを見つめているシトラスの頭上から、呆れたような声が降ってきた。

「……冗談ですよ。そんな顔しないで」

 再びベッドに上がり込んできたトルバランはシトラスの隣に腰掛けると、よしよしと頭を撫でる。なんだか子供扱いされているような気がして悔しくなりながらも、シトラスはそれを大人しく受け入れた。

「とはいえ、少し意地悪が過ぎましたね……すみません。どうも朝から様子がおかしいと思ったものですから、少し鎌をかけてみたくなってしまって」

 朝から、と言われて心臓がどきりと跳ねる。そんなに挙動不審だったのだろうか。シトラス自身はいつも通りを装っていたつもりだったのだけど。

「言いたいことがあるなら、遠慮なく仰ってください。それとも……私では信用なりませんか?」

 寂しそうな表情で問われてしまい、シトラスは今日一番の罪悪感に苛まれた。自分が変に意地を張ったせいで、大好きな人にこんな顔をさせてしまうなんて。

 正直なところ、心の内に秘めていることをそのまま口に出していいものかどうかわからない。けれど、これ以上誤魔化し続けることも正しいとは思えなかった。

 逡巡の末に、シトラスは漸く口を開くことにした。

「わ、私、……自分のこと、トルバランの特別なんだって、勝手に、そう思ってて……」

 その言葉はトルバランにとっては少し意外だったらしい。僅かに目を瞠ったのが見えたがそれは一瞬のことで、すぐにシトラスに話の先を促すような視線を送ってくる。それに後押しされるように、シトラスはそのまま続けた。

「だけど今日、トルバランがたくさんチョコを貰ってて、トルバランにチョコをあげた子たちもみんな一生懸命トルバランのことを考えてて、……私とあまり変わらないんだって思って……何なら私のより、ずっとすごくて美味しそうなチョコを用意してる子もいたし……」

 言いながら、段々情けない気持ちになってきて視界が滲みそうになった。それでもトルバランは、何も言わずにシトラスの言葉に耳を傾ける。シトラスが全て言い終わるまで、待つつもりでいるらしい。

「そういうの見てたら……私の用意したものって、もしかしたらそんなにいいものじゃないかもって思っちゃって……私なりに、頑張ったつもりだったけど、」

ぐ、と膝の上に置いた手に力がこもる。少しでも緩めてしまうと、本当に涙が出てきてしまいそうだった。ただでさえ惨めな姿を晒しているのに、これ以上失態を重ねたくない。
 
「トルバランを喜ばせたかったんだけど、そのために全力で頑張ったかって言われたら自信なくて……、だから、チョコが沢山あるせいにして、情けないところをトルバランに見られなくても済むようにしようって……本当、最低」

 最後は消え入りそうな声になってしまった。言いたいことは言えた気がするけれど、これで本当に良かったのだろうか?
 そんな不安が押し寄せてくる。トルバランの反応を見るのが怖くて俯いたままでいると、そのまま引き寄せるようにして抱きしめられた。そしてあやすように背中をぽんぽんと叩かれる。しかし、程なくしてシトラスの頭上から噛み締めるような笑い声が聞こえてきたので驚いて顔を上げると、そこには口元に手を当てて可笑しそうに笑うトルバランの姿があった。

「なんっ、なん、で笑うの!?」

 驚きのあまり素っ頓狂な声が出てしまったが無理もないだろう。自分は今真剣に心の内を晒したというのに、という抗議の意味を込めて睨みつけてやるが、当の本人はどこ吹く風といった様子で笑っているばかりだ。ひとしきり笑った後で、彼は言った。

「ごめんなさい、まさか貴方が嫉妬するとは思わなかったもので……正直、浮かれています」

 嫉妬、とはっきり言われてしまい一気に顔が熱くなるのを感じた。言われてみれば、確かに嫉妬かもしれない。他の女の子と自分を比べて勝手に落ち込んで、負けた気になって拗ねて。
 シトラスは自分のそんな感情が醜くみっともないもののように見えたし、恥だと感じた。だけど、トルバランはシトラスのその感情を見ることが出来て嬉しいらしい。

「私がどういう男か知っているでしょう? シトラスが私のことを考えて用意してくださったものを、他の方から貰ったものと比べるはずがないじゃないですか」

「で、でも、」

 反論しようとすると唇に指を当てられ言葉を封じられる。そして耳元に顔を寄せられると囁くような声で言われた。

「皆さんには申し訳ありませんが……どれだけ手の込んだものより、高級品より、貴方からの想いが私にとって一番価値があるものです」

 その言葉を聞いた瞬間、胸がきゅっと締め付けられるような感覚がした。トルバランはいつも、シトラスの欲しい言葉をくれる。その度に、心の中にあった暗くもやもやした醜いものも、丸ごと包んで抱きしめてもらえたような気持ちになった。そのままでも大丈夫だよ、と認めてもらえたような気がした。

 トルバランの側にいる時の自分が、少しだけ好きだとシトラスは思う。トルバランのことが好きだから、そんなトルバランが好きだと言ってくれる自分のことを好きでいたいと思えるようになった。トルバランと一緒にいれば、いつか自分のことが大好きだと胸を張って言える自分になれるかもしれない。

「……ちょっと、待っててくれる?」

 トルバランははい、と頷き返す。それを確認して立ち上がると、ベッドの物陰に隠していたラッピング袋を取り出してもう一度ベッドの上に戻る。

「それ、やっぱり私へのものだったんですね」

「気付いてたの? ちゃんと隠してたつもりだったのに」

 驚くシトラスに対し、さも当然と言わんばかりにトルバランは答えた。

「先日の休みにキルシェさんの家から帰ってきた時から気付いていました。ここ二、三日、隠している場所の方を何度も目で追っていましたし、今朝も私が見ていないタイミングで取り出そうとしていましたよね?」

 貴方は本当に隠し事が苦手ですね、と指摘されて思わず言葉に詰まる。トルバランの言う通り、バレンタインデー当日である今日に至るまで、シトラスは用意したお菓子が見つかってしまわないよう細心の注意を払っていたつもりだったのだが、どうやらそれが全て裏目に出てしまったらしい。

「そっか……じゃあ、あんまりサプライズじゃなくなっちゃったかもだけど」

 そう言いながらおずおずと差し出したラッピング袋を受け取ると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。袋のリボンが解かれると同時に、洋酒とココアの混ざった焼菓子特有の甘い香りがふわりと部屋に広がる。

お菓子作りに慣れているキルシェに教えてもらいながら、シトラスが一から自分で作ったチョコレートマフィン。焦げ目も無く、初めて作った焼菓子にしては上手くいった方だと思う。
 気に入ってくれるだろうか?
 マフィンを口に運んだ彼の反応を、シトラスは緊張しながら見守った。

「美味しいです、とても」

 その一言を聞いた瞬間、胸に温かいものが広がっていくのを感じた。
 よかった、喜んでもらえた! 
 安堵すると同時に嬉しさが込み上げてきて自然と頬が緩んでしまう。そんな反応を見たトルバランは、くすくすと笑った後に言った。

「そんな、不安になる必要ないでしょう? シトラスは元々料理上手ですから」

「で、でもお菓子はあんまり作ったことないし……それを言ったらトルバランの方が料理上手いもん」

 基本的に二人の共同生活において、料理はトルバランが担当することが多い。というのも、トルバランは自分の料理を食べるシトラスを見るのが好きらしく、自ら進んで台所に立つからだ。実際にトルバランの料理は素人目から見てもどこかの高級レストランで長年修行を積んだのではないかと思うような出来栄えで、見た目も味もいい。
 トルバランと暮らすまで自炊は慣れている方だと自負していたシトラスは、その認識を改めることになった。

「ちゃんと美味しくできてますよ、自信を持ってください」

 それでも自信無さげな顔をしているシトラスに念を押すように、トルバランは再度マフィンが美味しいことを強調する。それでようやく、シトラスの表情に明るさが戻った。
 自分の作ったものを美味しいと言ってもらえることが、こんなにも嬉しい。それだけで満たされた気分になるのだから不思議だ。ふわふわと浮いたような気分に浸っているうちに、トルバランはマフィンを食べ終えてしまったらしい。手元からは茶色い焼き菓子が消え、代わりに空になったパラフィン紙の紙カップがあった。

「ご馳走様でした。美味しかったです」

「よかったぁ……」

 ホッと胸を撫で下ろすとともに、笑みがこぼれる。一度は自信を失くして渡すことを諦めかけたけれど、ちゃんと渡せて良かった。そう、心の底から思えた。

 トルバランはラッピングの袋とパラフィン紙の紙カップを綺麗に畳んでサイドテーブルに置くと、再びシトラスの隣に腰掛けた。二人分の体重を受けたベッドがぎし、と音を立てる。

「ひとつ、勘違いされているようでしたので」

「え?」

 何のことだろう、と首を傾げると、おもむろに顎に手を添えられて上を向かされた。次の瞬間、シトラスの唇に柔らかいものが押し当てられる。すぐにそれは離れたものの、何が起こったのか理解するまでには少し時間がかかった。理解したうえでさらに混乱している様子の彼女を見て、トルバランは微笑むと言った。

「シトラスは『自分が私の特別だと勝手に思っている』と、言っていましたが……私は本当に貴方のことを特別だと思っています。

だから、これからも自信を持って私の特別な人だと自覚していてくださいね?」

 その言葉を聞いた瞬間、シトラスの顔が耳まで真っ赤に染まった。その様子を見たトルバランは再びクスクスと笑うと、今度は正面からぎゅっと抱き締めてきた。彼の腕の中にすっぽりと収まる形になり、恥ずかしさのあまり逃げ出したくなる衝動に駆られたが、同時に心地良さを感じているのも事実だった。しばらくそのままじっとしていると、不意に耳元で囁かれる。

「さて、そろそろいただきましょうか」

「え?」

 何を、と尋ねる間もなく、シトラスの視点は再び天井を向いていた。トルバランの長く紅い髪が帳のように垂れ下がって、視界が狭くなる。

また押し倒されたのだと気付くまでに、数秒かかった。

「あ、あの……」

「シトラスごといただく、と先ほど言いましたよね? 贈り物はいただきましたが、シトラスはまだです」

 そう言ってにっこり笑う彼に、シトラスの顔が一瞬で真っ赤になる。てっきり自分に本音を言わせるための戯言だと思っていたのだが、どうやら有言実行するつもりらしい。

「ま、待って、せめてお風呂入ってから」

「駄目です、待てません」

 最後まで言い切らないうちにきっぱりと即答されて言葉を失う。ほんの少し、焦燥した声だった。いつも大人の余裕だと言わんばかりに落ち着いている彼にしては、珍しい態度。

 それだけ自分を求めてくれているという事だろうか―そこまで考えると、シトラスはトルバランを押し返そうとしていた手を下ろして重力に従うようにベッドに沈んだ。

「おや、今日は諦めるのが早いですね?」

 揶揄うような口調で言うのは、シトラスの反応を楽しむためだろう。
 だけど、シトラスも今日は負けていなかった。

「誰かさんが、私のこと早く食べたいって顔してるから」

 そうでしょ? と挑発的な視線を向けると彼は一瞬驚いたように目を見開いたあと、ふっと笑みをこぼす。

 自己肯定感がお世辞にも高い方とは言えない恋人が、精一杯自分を誘惑しようと頑張っている姿を見て喜ばない男がどこにいるだろう。何より、少しでも愛されていることを自覚してくれたようで嬉しかった。そうでなければ、こんな台詞はきっと出てこない。

「よくお分かりで―では、遠慮なくいただきます」

 角ばった両手がシトラスの頬を包むようにして触れる。そのままゆっくりと近付いてくる顔に、自然と瞼が下りていく。明日も平日で学校があるだとか、これから床の上に落とされるであろう制服をどうしようだとか、全く考えていないわけではない。だけど、そんなことよりも今トルバランの気持ちに応える方が大事だと思えるぐらいには、シトラスもまた彼のことを求めている。

(あ……、)

 唇が重なる直前、ふわりと甘いチョコレートの香りが漂ってきた。トルバランが自分の渡したチョコレートを食べたからだと気付いた途端、苦しくなるほどの幸福感に包まれる。こんな瞬間が、ずっと続けばいい。そんな事を思いながら、シトラスはそっと瞼を閉じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?