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鹿児島県三島村を踏破 その4<日本全市町村踏破(制覇)>

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2017年12月30日午後、鹿児島県鹿児島郡三島村、薩摩硫黄島に上陸して、まずはテントを張り、集落へと出掛けた。

まずは集落の少し奥、港からも鳥居の見える、熊野神社に参拝。

一度社叢に入ると、雅やかな雰囲気。

前回の記事にも書いた、「鹿ヶ谷の陰謀」発覚により流刑となった三人のうち、俊寛を除く二人が祀った熊野権現が起源であるという。実は、この話は「平家物語」にもあるストーリーで、俊寛だけは信心が足りなかった為に、都へ帰れなかったという因果になっている。

平家物語の話も、硫黄島の伝承も、どこまで史実なのかは分からないが、硫黄島には、地理的に熊野信仰との対応関係が見られるようである。そして、硫黄島における対応関係は、平家物語の描写にも近いものがあるらしい。

また、上の写真の熊野神社の案内にあるように、硫黄島には安徳天皇と平家が落ち延びて来たという伝説もある。神社に漂う雅な雰囲気は、そうしたところに由来するのかもしれない。熊野というよりは、厳島のような雰囲気がある。

神社本殿の左脇には、安徳天皇が硫黄島で一子を儲け、その名を隆盛親王といったと、案内にある。案内板には墓所とあるのだが、境内の奥に墓所があるのか、この祠の事を指すのかは定かでない。なお、後述のように、墓所とされる五輪塔は別の場所に存在する。

安徳天皇の御所跡が、集落の中にある(熊野神社も晩年の皇居跡と伝えられる)。安徳天皇の子孫は、長濱家と称し、今に続いていて、この御所跡の敷地は、長濱家の所有のようである。

敷地内には、御所で使われた井戸もある。

建物の後ろに、御所跡の記念碑があった。御所の名前は、黒木御所。隠岐で見た、一時流刑となった後醍醐天皇の皇居跡も、同じ名前だった。黒木というのは、樹皮を削っていない、製材されていない木で作った御所という意味で、御所としては建造に時間や予算がない事を強調している。それは行幸時の仮宮か、流刑、逃亡の身を意味している。

集落内には、平家の人々の住居跡を示す、沢山の石碑があった。

熊野神社正面から右にそれて、集落外へと続く道を進むと、安徳天皇の墓所がある。

平家の人々や、先述の隆盛親王の墓もあり、いずれも五輪塔。

一つ特異なのは、天皇の五輪塔が、一番手前にあるということだ。史実かどうかは別として、位の高い存在ほど奥にましますのが、日本どころか世界的な常識であり、非常に変わっている。奥は森林で、手前には木々がなく、苔むしてもいることから、近年入口が変わったという訳ではない。昔からこの配置なのだ。

墓所の右奥の森に隠れて、安徳天皇の皇后、櫛匣局(くしげのつぼね)の墓もある。櫛匣局は平資盛の娘と伝わる。

櫛匣局の墓の傍らには、樹齢180年の大松があって、大事にされている。墓標の形状も場所も、他とは著しく違うので、安徳天皇その他の墓と、櫛匣局の墓とは、元々別の伝承に属したか、あるいは櫛匣局の墓こそが、伝承のルーツなのかもしれない。安徳天皇も、平家の落ち延びもなかったとしても、櫛匣局という聞きなれない女人には、何かリアリティがある。伝承はこの人物から始まったのかもしれない。

次回は、集落を後にし、硫黄島を奥へと進んで行く。当初の予定よりも長くなりそうな感じだが、硫黄島については、ゆっくりじっくりと書いて行く。

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