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信濃の杜

信州にいる。街と山とが迫っている場所だ。

上阿蘇とか、上阿智とか呼ばれる場所に向かっている。
車で道を登って行くと、森に囲まれた駐車場で行き止まりとなった。
ここからは歩きだ。薄暗い森の中へ踏み込む。

しかし、少し踏み込んだところで、熊に遭遇してはまずいと思い、引き返す。
無理をしないで、今回の旅は、このあたりで引き上げとしよう。
再び車に乗り込み、街へと下る。

森から一旦南に下ると、主要道路へと出る。
その道を少しばかり進んで左折する。こちらも主要道路だ。
地図は頭に入っている。

道を少し北上した、先程の森の北東あたりの道沿いに、中華料理屋があった。
ここで腹ごしらえをして帰ろうと思い、店に入る。

店内は奥に細長く、意外と広い。長いテーブルに一人で座る。
エプロンを付けた若い男女の店員が立っている。

ここであんかけそばを注文した。
食べている途中で、店員と話をする。上阿蘇、上阿智へ行く、別な道はないのか尋ねてみた。
聞けば、ここからすぐ近くのようだ。
私は居ても立ってもいられず、あんかけそばを食べ切ることもないまま、後で残りを食べるからと、急ぎ店を出た。

台地の上。複雑な造りの、何層もの屋根が重なった、いや屋根が重なっているのか装飾の為の深い切れ込みが刻まれているか分からないような、東南アジアの仏教寺院を思わせる建物がいくつも、北の山を背にして建っている。素材が石かコンクリートらしく、色は灰色だ。

また、こちらは恐らく木造と思われる、三層の屋根の、漆黒の建物もある。屋根に黄金の縁取りがある。どこかの国宝建築のようだ。
豪奢な宝殿の数々。しかし、私が探しているのは神社だ。これらは神社ではない。神社が見当たらない。

奥まで歩いて進んで行くと、アスファルトの舗装もなくなり、石段の参道となった。
参道の向こう、下方に街が見える。これを少し下ってみたところ、みるみる急角度になる。最早参道というより登山道だ。いや、石が挟み込まれているだけの、垂直に近い断崖だ。

石段の途中で宝殿を見上げ、また振り返って街を見下ろす。この道は危険だ。とても降りては行けない。
石段を上がり、元の道へ戻る。

宝殿の前の、アスファルトの道を戻って行くと、こちらも割と急角度に下って行く。
道の傍らが採石場のように崩れている。だが、通行に支障はない。

道を下って行くと、大きくカーブして、コンクリートで出来た施設の、立体駐車場のようなところに出た。中華料理屋の前の道路に面した、車のディーラーの建物の一部のようである。
立体駐車場に出たところには、四角い車止めが複数置いてあって、関係車両以外は通行禁止になっているようである。

立体駐車場から出て来たところに、中華料理屋の店員達が来ていた。
女の子二人と、男の子が一人。高校生から大学生くらいか。皆、人が良さそうだ。

立体駐車場の裏へ回り込むと、田んぼや畑がある。
少し南へ歩いて進んで、すれ違ったおばさんに道を尋ねると、すぐそこの穴から行くのが早いと言われた。

振り返れば、屋根の付いた、地下道の入口のようなものがある。
その入口の手前まで、中華料理屋の店員達が付いて来てくれた。
すぐに戻るからと言って、そこからは一人で穴に入った。

穴の中には、照明が点いている。結構沢山の人もいる。
穴の入口付近は店になっていて、アウトドアグッズを売っている。
そして、穴の中は非常に複雑な構造で、階段や梯子が入り組んでいる。

穴を少し北に進んだところで、入ったものとは別の出入り口から、一旦外に出た。
そこに中華料理屋の店員の女の子二人がいた。その一人から、日頃愛用している一眼レフのカメラを受け取る。カメラを忘れていたらしい。

そしてもう一度穴に戻る。梯子を登ったりして、また少し南へと戻った。

梯子の右側は壁になっているが、上方が途切れている。梯子をいくらか登ったところで、壁の向こうが見えた。
壁の向こうは、深い穴になっている。この梯子が接している地面よりも、かなり深い位置に地面がある。

梯子を登り切ったところは、階段の踊り場のようになっていて、別の梯子とつながっている。梯子の交差点だ。
くるっと身を翻して、この踊り場へ出たところ、老婆と出くわした。
老婆は驚いて、手に持っていた焼きそばを踊り場にこぼしてしまった。
片手でペットボトルのような形状の、アルミかスチールの飲み物の缶をつかみながら、踊り場の床を掃除している。

私はさらに梯子を登った。踊り場までは、南に体を向けて登ったが、踊り場で180度向きを変え、北に体を向けて登る。
この梯子を登り切ると、今度は壁の向こうの、深い穴に向かって降りて行く作りになっているようだ。

穴の下にも、照明がある。照明の当たっている場所は、象牙色のような地面がよく見えるが、そこから離れていくに従って、茶色が濃さを増して行き、ついには漆黒となる。
構造の複雑さといい、金属製の梯子といい、まるで鍾乳洞の中のようだ。ただし、鍾乳石のようなものは特にない。

梯子から下を見下ろすと、中華料理屋の店員の女の子二人が、付いて来たのが見えた。

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ここで、目が覚めた。
そして、ここまで見た夢の内容を詳細にメモした。
だが、まだ眠い。そして、続きがとても気になる。
続きが見たい。朦朧とした意識の中、その思いだけが強くなる。

あの中華料理屋の店員達のことを思い描くと、すーっと、夢の中へ引き込まれて行った。

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長い長い石段が、上へと続いている。先程の宝殿へと続く、心もとないものではなくて、伊勢の神宮の正殿へと続くような、一段一段が広く大きく、非常によく整備された、とても立派な石段だ。

振り返ると、店員の女の子の一人が立っている。一人だけだ。恐らく、カメラを手渡してくれた女の子だと思う。
女の子は、白衣に緋袴の、巫女の姿をして、微笑んでいる。

石段の周囲は、森なのか闇なのか、とにかく暗い。だが、石段だけは薄明かりの中、見えている。
石段の続いている上方から、わずかに光が差し込んでいる。

その光をよく見つめると、ぐにゃり、と空間がゆがんで、渦を巻く。
渦が赤くなる。そして、空間が元に戻るとともに、赤い鳥居が姿を現した。

私は鳥居に向かって登って行こうと、片方の足を上の段に乗せた。
そこで、再び振り返った。

巫女姿の女の子が、微笑んでいる。
だが、彼女は、私に付いて来ようとはしない。ただその場に立ち止まって、私の方を見て微笑んでいるだけだ。

森の中に、石の祠がいくつか並んでいる。
祠の傍らに、左右が紅白に染め分けられた、長い布が、棒か何かから、垂れ下がっている。

その紅白の布には、何か文字が書いてある。それは漢字でも梵字でもなく、見た事のない文字で、全く読めないのだが、漢字には割と近く見える。女真文字とか西夏文字とか、中世、漢字を模して中国周辺の諸民族が作った文字を思い起こす。

ここはどこだったろうか、近年来た事があるような気がする場所だった。諏訪だったか、茅野だったか。どこかはっきりとは分からない。

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ここで再び目が覚めた。先に目が覚めたときにも、後で目が覚めたときにも、スマートフォンによって、オンラインでメモを取り保存したので、保存時間が残っている。

先のメモは、9:40と9:48の二回に分けて保存している。後のメモは、12:30に保存している。3時間弱の開きがある。

この夢では冒頭から「上阿智」という地名が出て来る。信州で阿智と言えば、長野県南西部の阿智村である。ここは、私の祖母の出身地である。祖母の旧姓は園原といい、代々阿智村に住んでいる。

さる大学の民俗調査によれば、阿智村の園原氏の先祖は、「炭焼き藤太」といい、黄金伝説がある。「炭焼き藤太」の伝説は全国各地に伝わるが、ここでは、その子「金売吉次」が、義経を平泉へと案内したといい、阿智村には「義経駒つなぎの桜」がある。

「炭焼き藤太」にはじまる園原氏は、はじめ県境の高原である園原に住んでいたが、代を重ねるごとに山の麓へと下って行き、やがて今の阿智村の中心部へと移り住んだと伝わる。

そうすると、その高原である園原こそ、「上阿智」と呼ぶにふさわしいのだが、園原はそのようには呼ばれないし、私の知る限りそのような地名自体阿智村にはない。「上阿蘇」などという地名も聞いた事がない。

なお、調べて見ると、岡山市には「上阿知」という地名があるようだ。これは夢から覚めて調べてから知ったことである。

隣の総社市には阿曽(あぞ)という地名があり、阿宗神社が建つ。
ここは桃太郎伝説の鬼のルーツとされる、温羅(うら)の妻・阿曽媛(あそひめ)の故郷である。

近隣の吉備津神社の御釜殿には、温羅の首を埋めた上に釜を載せて、その釜を炊く事で吉凶を占うのだが、その占いに従事する特殊な巫女のような存在の阿曽女(あぞめ)は、阿曽の女性から選ばれている。

夢から覚めてから、「上阿蘇」という言葉を反芻して、真っ先に思い出したのは、九州の阿蘇山ではなく、この岡山の阿曽郷であった。
だからといって、岡山市の「上阿知」などまるで知らず、夢の舞台もはっきりと信州であり、しかも諏訪が関係していそうで、特に吉備のイメージはないのだが。

この夢を見る前、最後に行ったのは、半年ほど前であり、その時は参拝した、茅野市の達屋酢蔵(たつやすくら)神社には石の祠が並んでいるが、森の中ではない。この時には他にもいくつかの神社に参拝しており、岡谷市の魔王社は林の中の石の祠だが祠は一つだけ、同じく岡谷市の鎮神社は森の中に祠が建ち並ぶが全て木造である。紅白の布などは全く見かけていない。

夢の中で見た場所を、このように同定したところで、詮なき事ではあるが、最後にもう一つ述べておくと、先の園原の地は、信濃・美濃国境であり、古代東山道が通る交通の要衝で、なおかつ東山道最大の難所だった。

その峠は神坂峠(みさかとうげ)という名があり、日本武尊が邪神に悩まされたという神話もある。その神坂峠には、神坂神社が建つ。その祭神は、諏訪系ではないのだが、境内には御柱が立っており、ここが諏訪文化圏・信仰圏にあることをよく物語っている。

カバー写真は、その阿智村の神坂神社である。


※この夢は10月21日午前に見た夢

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