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沖縄県渡嘉敷村を踏破 その2<日本全市町村踏破(制覇)>

2018年5月1日。ゴールデンウィーク沖縄未踏市町村集中踏破四日目、第三村、渡嘉敷村。
那覇泊港から、フェリーに乗って、渡嘉敷島へやって来た。

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フェリー乗り場近くの、レンタカー屋へ。レンタサイクルとかグラスボート等、様々な観光事業を手掛ける。沖縄本島からフェリーで1時間程度の渡嘉敷島は、大人気のリゾートらしく、フェリーが着くと、レンタカー屋もごった返していた。

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レンタカー屋の近くの店で、まずは腹ごしらえ。

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魚介好きの筆者大満足の料理。

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展望台へ行こうと、島の北端の丘陵地へ車を進めて行くと、体育館等のレクリエーション施設の敷地となった(「国立沖縄青少年交流の家」という施設らしい)。

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その近くに「集団自決跡地」の看板。レクリエーション施設へハブが侵入しないよう、ゲートが設けられてるが、自由に開けて入る事が出来る。

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奥に進むと慰霊碑があった。慶良間諸島は、沖縄戦において、米軍が最初に上陸した地であり、日本兵から「米軍に捕まったら、女は暴行、拷問し、男は殺してしまう」と聞かされていた住民達は、米軍の上陸時、ここに集まって自決した。

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それはもう、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。手榴弾を渡されたが、不発だった為、布きれで首を絞めたり、石で殴り合ったりということを、親子兄弟の間でやり合った。次の日、米軍がこれを発見し、まだ生きている人達を救護した。

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慰霊碑の奥の窪地が、集団自決の中心地である。悲惨なことで知られる沖縄戦だが、こうして現地に立つと、何とも言えないリアリティがある。この事件は、後々まで語り継がれるべきであろう。

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集団自決跡地近く、海を臨む高台の草地に、「赤間山立火所跡」と刻まれた記念碑が建っていた。碑文によれば、慶良間は渡唐船の航路にあたっており、首里王府にいち早く船の帰りを知らせる為、ここで篝火を焚いて、本島の小録(那覇空港の近く、ゆいレールの駅もある)へ伝えたことが、記録に残っているそうだ。ここは琉球王朝情報ネットワークのハブ(蛇ではなくてネットワーク機器の方)だったのである。

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こちらが、島の北端の東展望台。西方、沖縄本島の方角を望む事が出来る。

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右側の大きな島が、フェリーで近くをかすめた、渡嘉敷島と沖縄本島の間にある前島。ここも渡嘉敷村に属する。琉球王府に篝火で通信を行っていたくらいだから、天候次第では沖縄本島も望めるのだろう。左側の小さな島は前島。

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こちらの写真では、その黒島は右沖に浮かぶ。渡嘉敷島と前島との間にある島である。左側には、ここからだと渡嘉敷島と陸続きに見える、儀志布島(ぎしぶじま)がある。

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西展望台、こちらは、慶良間海峡を望む位置にあり、座間味島や阿嘉島など、慶良間諸島の主要な島々を見る事が出来る。

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座間味島。渡嘉敷島と並ぶ慶良間諸島の中心的な島。座間味村に属する。

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座間味島の左、手前に浮かぶのが安室島、こちらは無人島。その奥が阿嘉島(あかしま)、座間味島ともに座間味村を構成する主要な島である。慶良間諸島で定期船が就航するのは、渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島だけだ。

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阿嘉島と橋で繋がる、左の慶留間島(げるまじま)と、その慶留間島と橋で繋がる外地島(ふかじしま)。慶留間島は有人島であり、渡嘉敷村の渡嘉敷島・前島と、座間味村の座間味島・阿嘉島・慶留間島の五島が、慶良間諸島の有人島である。外地島には慶良間空港があるが、現在、定期便は就航していない。

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西展望台のあるあたりが、赤間山、通称北山(「にしやま」と読む、琉球語では北を「にし」と呼ぶ)の山頂に位置する。標高は227.3m、渡嘉敷島の最高地点である。

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島の西岸の道を車で降りて行くと、途中、サンゴ礁を観察するグラスボートが見えた。

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渡嘉敷港のある、渡嘉敷の集落へ戻って来た。

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村指定文化財の、根元家の石垣。渡嘉敷の男性は、唐や薩摩へ赴く琉球王朝船の水主として活躍し、特に根元家は代々渡唐船の船頭を勤め、「唐儲け」と言われる財を築いた。この石垣は、その財力によって築かれたものである。

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琉球建築に付きものの、「ひんぷん」と呼ばれる、屋敷の入口から家が見えないようにする目隠しの壁では、特に精緻な石材加工、建造技術を見る事が出来る。

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屋敷の一角では、壁が内側に凹んで、そこに祠が建てられている。これも根元家にゆかりのものなのだろう。

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根元家の前の道を進んで行くと、突き当りに神社が鎮座していた。

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神社と言っても、琉球時代からある御嶽か拝所なのだと思うが、そうした場所は、明治以降、神社として扱われた事も多い。

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地元でも、ここを「神社」と呼んでいるようである。あるいは、琉球王朝時代にも、日本の影響で神社が建てられたこともあるし、明治以降御嶽などとは別に神社が建てられたこともあるので、こちらも最初から神社として建てられた可能性もある。

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「神社」というだけあって、ちゃんと、拝殿の奥に、本殿を備えた形式になっている。ただし、本殿の周りは鬱蒼としていて、御嶽感があるので、やはり元々御嶽だったようにも見える。

調べてみると、ここは代々の祝女(ノロ)と、火の神二柱を祀る拝所ということだ。祝女とは琉球王朝によって置かれた神官だが、王朝なき後も島の宗教的権威として継承された。そして、昭和18年、島の女性が、神職講習を修了して、祝女となり、この拝所で祭りを行うようになって以後、渡嘉敷神社と呼ばれるようになり、県庁からもそう呼ばれたと、村の公式サイトにある。

県庁からそう呼ばれた点を考えても、当時国家の管理下にあった神道の神職講習を受けたということだろう。戦前、女性神職というものはなかったと思うが(巫女はいたが神職とは異なる)、祝女制度のあった沖縄にあっては、伝統的な見地、あるいは「皇民化」の見地から、認めたのだろうか。

神職として神社に勤めたことのある筆者としては、興味深いことである。また、こうして琉球固有の信仰と、神社神道が融合するような展開があったことも、非常に興味深い。

しかし、昭和18年と言えば、二年後には米軍が上陸し、集団自決の惨劇が起きた訳で、神職講習を受けて祝女となったという、古波蔵春という女性は、その時どうなったのであろうか。

渡嘉敷神社(渡嘉敷村公式サイト)
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/archives/826

市町村踏破数は前回投稿から変わらず。
沖縄県全41市町村のうち、32市町村踏破、残り9市町村、達成率78%。
九州・沖縄全274市町村のうち、264市町村踏破、残り10市町村、達成率96.4%。
日本全国1741市町村のうち、1724市町村踏破、残り17市町村、達成率99%。

サポート頂けると、全市町村踏破の旅行資金になります!また、旅先のどこかの神社で、サポート頂いた方に幸多からんことをお祈り致します!