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鹿児島県和泊町を踏破 その3<日本全市町村踏破(制覇)>

2018年2月12日。沖永良部島中央部、和泊町の世之主の墓や越山公園を見学後、北岸沿いの道を北西へ進んだ。

断崖の下に、リーフ(珊瑚礁)が広がる、ウミガメビューポイント。2月~6月の満潮時に、アオウミガメが海藻を食べに訪れるらしいが、生憎干潮らしき雰囲気。しかし、断崖とリーフが実に美しい。

道を進んで行くと、偶然にも、かの鎮西八郎源為朝が上陸したという伝説の伝承地があった。
源為朝は、源平時代の武将で、2mを超す巨体、五人張りの弓を一人で引く剛力の持ち主で、親族も手を焼き、九州へ追放される。しかしそこでも暴れ回って、九州を平定した。やがて保元の乱に参加して、大きな功績を挙げるが、敗れて逃亡し、その途上で捕まる。その後伊豆大島へ流刑となるが、ここでも暴れ回り、ついには討伐軍が差し向けられ、自害する。

しかし、南西諸島には為朝が生き延びて辿り着いたという伝説が多く残る。喜界島や奄美大島にもやって来たといい、その後にやって来たのが沖永良部島ということになる。あくまでも伝説の範疇ではあるのだが、琉球王朝では、正史として編纂した史書に、王朝のルーツとして為朝を挙げている。その為、かつて琉球王朝の配下となった領域(その最北端が喜界島)では、為朝伝説は王朝との結び付きを主張する意味も持つ。

なお、この案内板にある「畔布」という地名は、「あぜふ」と読むようだ。「日穴」など、琉球王朝が崇めた太陽神との関係が窺われる。

この案内板のすぐ脇に、つながれた山羊がいた。山羊を飼う習慣は、沖縄と共通する。

さらに北西へと進んで行く。こちらの浜辺は「ワンジョビーチ」。

それから少し内陸へ入り、和泊町立国頭小学校へ。

なぜこんなところへ来たかというと、この学校の校庭に、「日本一のガジュマル」と呼ばれる木があるからだ。別に悪さをしに来た訳ではない(苦笑)。そもそもこの日は祝日で学校は休みだ。

確かに、かなり巨大なガジュマルである。枝を支えている人口の柱と、天然の気根が同じくらいの大きさに見える。

このガジュマルは、明治31年(1898年)、第一回の卒業生が植えたもので、今年2018年には、植樹からちょうど120周年になる。巨木にもなるはずだ。本当に日本一なのか、本当だとしても何が日本一なのか(大きさなのか樹齢なのか)定かではないが、何にせよ尋常な木でないのは確かだ。

体育館らしき建物には、創立119周年と書いてある。恐らく、創立記念日がまだなのだろう。

さらに島の北西へ。島の北西端に近い「フーチャ」へやって来た。

ここは波の浸食によって出来た洞窟に、さらに海水が入り込んで、押し寄せる波が高く潮を吹き上げる場所。

かつては4ヵ所のフーチャがあって、最高で70mもの潮を吹き上げたようだが、飛び散る海水が農作物に被害を与えるということで、昭和38年に3ヶ所を破砕、1ヶ所だけが現存しているそうである。

しかし散策してみると、実際にはいくつか穴がある。これが破砕されて大きくなったものなのか、1ヶ所が複数の洞窟群から成るのかは分からない。

いずれにしても、絶壁には常時激しく波がぶつかって、高く潮を吹き上げており、自然のパワーを感ぜずにはいられない場所だ。

フーチャから空港は近い。時間が少々あるので、売店で買い物をしたり、食事をしたり。

食事といっても、空港に併設されているのは、一応レストランとは銘打たれているものの、実態はカフェであって、そんなに本格的な食事はなく、焼きうどんとコーヒーのセットを頼んだ。海藻入りのお吸い物があるあたりは、島らしい。

そして、沖永良部空港より、次の島を目指して、離陸した。沖永良部島編は、これにて完。

市町村踏破数は前回投稿から変わらず。
鹿児島県全43市町村のうち、41市町村踏破、残り2市町村、達成率95.3%。
九州・沖縄全274市町村のうち、257市町村踏破、残り17市町村、達成率93.8%。
日本全国1741市町村のうち、1717踏破、未踏破24、達成率98.6%。

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