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常陸国風土記メモ

古代五風土記の一書、現在の茨城県に当たる常陸国風土記を読み、印象に残った箇所のメモ。
今回も結局現代語訳に近くなってしまった。これで五風土記全て完了!


●総記

 ・古は相模の足柄山以東を全て我姫(あづま)の国と呼び、常陸とは呼ばなかった
 ・ただ新治、筑波、茨城、那珂、久慈、多珂の国と呼び、造や別を派遣して統治させた
 ・孝徳天皇の治世、高向(たかむく)の臣、中(臣)の幡織田(はとりだ)の連らを派遣して、足柄山の東の国を統治させた
 ・この時、我姫の道を分けて八つの国とし、常陸国はそのうちの一つとして設置された
 ・国内を往き来する道が川や海の渡し場に隔てられておらず、郡郷の境界が山川の峰谷に続いていて、直通(ヒタミチ、一続きに続く道)ヒタチという

 ・ヤマトタケル天皇が東国の蝦夷の国を巡検し、新治県を過ぎた時、国造・毗那良珠命(ヒナラスノミコト、天穂日命子孫)を派遣して新たに井戸を掘らせたところ、流れる泉が清く澄み、美しかった
 ・その時、ヤマトタケル天皇は、乗り物を止めて、水を褒め手を洗ったが、衣の袖が濡れた
 ・袖を浸す、という意味により、この国の名とした、という説もある
 ・筑波岳(つくばね)に黒雲かかり、衣袖ひたちの国、という土地の諺は、これに由来する
 ・そもそも常陸国は広大で、肥沃で、開墾された場所は山海の幸があり、人々は満足し、家々は豊か
 ・もし耕作の仕事や養蚕・製糸の仕事に励むなら、すぐに富み栄え、自然と貧困から脱却する
 ・まして、塩を求め魚を味わうならば、左は山で右は海だ
 ・桑を植え、麻をまくには、後ろは野で前は原だ
 ・山海の幸の宝庫で、物産の豊かな国
 ・古の人が常世国といったのはこの国かもしれない
 ・ただし水田は、上は少く、中は多いので、長雨に遭うと、苗が実らないという憂いを聞き、日照りに遭うと、穀物の実りが豊かな慶びが見られる

●新治(にひばり)の郡

 ・東は那賀郡との境になる大きな山(浅房山)、南は白壁郡、西は毛野河(鬼怒川)、北は下野・常陸の境である波大(はだ)の岡(仏頂山から西へ続く山々)
 ・崇神天皇の治世、東国の蝦夷の荒ぶる賊を討とうと、新治国造の祖、比奈良珠命(ひならすのみこと)を派遣
 ・比奈良珠命が新しい井戸を掘ると、その水が清く流れた(その井戸は今もあって時々の祭祀をしている)
 ・井を治りしこと(治る=はる、開墾の意)をもって郡名とした
  ※筑西市古郡の泉とされる

 〇笠間の村
  ・郡家の東五十里に笠間の村があり、越えて通る道を葦穂山(あしほやま)という
  ・かつて、山に油置売命(あぶらおきめのみこと)という山賊がいた
  ・今も杜の中に彼女の住んだ岩屋がある
  ・この岩屋にちなんだ「言痛(こちた)けば 小泊瀬山(をはつせやま)の 石城(いわき)にも 率て籠もらなむ な恋ひそ我妹(わぎも)」という歌が土地に伝わっている
  ・歌の大意:世間が口うるさいので小泊瀬山の石城にでも、あなたを連れて籠もろう、それ程の覚悟はあるのだから、恋に苦しまないでくれ、あなた
  ※石岡市の足尾山が葦穂山の遺称地

●筑波(つくは)の郡

 ・筑波県は、古、紀の国といった
 ・崇神天皇の治世、采女臣の同族、筑箪命(つくはのみこと)を国造として派遣
 ・筑箪命、自らの名を国につけて後世に伝えようとし、筑波と改称
 ・昔、神祖尊(みおやのみこと)が諸神達の処を巡行し、駿河国の福慈岳(ふじのやま=富士山)に至り、日が暮れたので宿を乞うた
 ・しかし福慈の神は、新嘗祭の物忌を理由に断った
 ・神祖尊は「お前の親だというのに、なぜ宿を貸そうとしないのか。お前が治める山は、生きている限り、冬も夏も雪が降り霜が降りて、寒さが重なって襲い、人が登らず、飲食物を供えることはないだろう」と恨み泣き罵った
 ・次に筑波岳(つくはのやま=筑波山)に登り、また宿を乞うた
 ・筑波の神は、新嘗祭ではあっても、敢えて尊の意志に沿わないことはしません、と言って、飲食物でもてなし、謹んで礼拝し仕えまつった
 ・神祖尊は喜び、筑波山は民が集い、飲食物が豊かで、いつの世も絶えるこたなく、ますます栄え、遊楽は無限だと、歌を詠み讃えた
 ・こうして、富士山は常に雪が積もり登ることが出来ないが、筑波山は、人々が集い歌い舞い飲食することが、今に至るまで絶えない
 ・筑波山は、高く雲を突き抜けている
 ・西の峰は険しく、雄の神といって登らせない
 ・東の峰は四方に岩があるが、登る人は限りない
 ・その傍らの泉の水は冬も夏も絶えない
 ・足柄の坂より東の諸国の男も女も、春の花咲く時、秋の葉の黄色くなる時に、手を取り合って列なり、飲食物を持ち来て、馬や徒歩で登り、楽しみ憩う
 ・「筑波嶺で逢おうと、言った子は、誰の言葉を聞いたのか、嶺で逢えなかった」
 ・「筑波嶺に庵を結び、妻もなしに寝る夜は、早く明けで欲しいものだ」
 ・こうした歌は数限りなくある
 ・土地の諺に、筑波山の歌垣で贈り物を貰えないと、一人前の男女とみなさない、とある

 〇騰波(とば)の江(あふみ)
  ・郡家の西に、騰波の江があり、東は筑波郡、南は毛野河、西と北は新治郡、北東は白壁郡(現下妻市東部の小貝川流域にあった湖)

●信太(しだ)の郡

 ・東は信太の流れ海(霞ヶ浦)、南は榎の浦の流れ海(小野川下流から新利根川)、西は毛野河、北は河内郡

 〇碓井(うすゐ)
  ・郡家の北十里に碓井がある
  ・景行天皇が霞ヶ浦の浮島の仮宮にいた時、飲み水がなく、卜部に占わせて所々掘らせた
  ・その碓井は、今も雄栗の村に残る
  ※美浦村岡平の泉

 〇高来(たかく)の里
  ・天地の初め、草木が言葉を話した時、天より普都(ふつ)の大神が降臨
  ・葦原の中つ国を巡行し、山河の荒ぶる神を平定
  ・それを終えて、天に帰ろうと思った
  ・その時、身につけていた武器(土地の人々は神聖なる甲、戈、楯、剣という)と、玉を、全て脱ぎ捨てて、この地に留め置いた
  ・そして白雲に乗って蒼天へ還り昇った
※阿見町竹来が遺称地

 〇(稲敷の郷)
  ・土地の諺では、葦原の鹿は、その味が熟し過ぎているかのようで、山の鹿と違って美味
  ・常陸と下総の二国の大猟でも取り尽くすことはない
  ・その里(稲敷の郷)の西に、飯名の社がある
  ・これは筑波山に祀られる飯名の神の末社(龍ヶ崎市八代町稲塚の小祠)
  ・榎の浦の津には、駅家がある(江戸崎あたりか)
  ・東海道の大道で、常陸路の初め
  ・だから伝駅使等が、初めて国に入ろうとする際、まず口と手を洗って、東を向いて香嶋の大神を拝み、その後はじめて入ることが出来た

 〇乗浜(のりはま)の里
  ・ヤマトタケル天皇、海辺を巡行し、乗浜に着く
  ・浜辺に沢山の海苔が干されていた
  ・だから能理波麻(のりはま)の村と名付けた(稲敷市旧桜川村)

 〇浮嶋(うきしま)の里
  ・乗浜の里の東に浮嶋の村がある
  ・長さ二千歩(約3.2km)、広さ四百歩(約640m)で、四方は海であり、山と野が交錯している
  ・家は十五戸、田は七、八町余り
  ・住人は塩を焼いて生業にしている
  ・九つの社があり、言葉と行動を謹んでいる
  ※稲敷市浮島が遺称地

●茨城(うばらき)の郡

 ・東は香嶋郡、南は佐我(さが)の流れ海(霞ヶ浦)、西は筑波山、北は那珂郡
 ・昔、土地の言葉では都知久母(つちくも)、夜都賀波岐(やつかはぎ)ともいう国巣(くず)である山の佐伯(さへき、朝廷の命を「さえぎる」者)・野の佐伯がいた
 ・あちこちに土穴を堀り、常に穴に住んでいて、人が来ると穴に入って隠れ、人が去ったらまた野に出でて遊んだ
 ・狼やフクロウのような性質で、ネズミのように様子を窺い、犬のように盗んだ
 ・招いてもなだめられることはなく、ますます一般の風俗と隔っていった
 ・この時、大(おほ)の臣の一族・黒坂命(くろさかのみこと)が、佐伯達の出て遊ぶ時を窺い、茨棘(うばら=イバラ)を穴の中に敷いて、騎兵で急襲した
 ・佐伯達はいつものように土穴へ走り帰って、ことごとく茨棘に引っかかり、突き刺さって死に散った
 ・だから、茨棘から県の名を取った
 ・いわゆる茨城郡は、今、那珂郡の西部にあるが、昔、郡家を置いていて、かつては茨城郡の内だった
 ・土地の諺で、水うつくしぶ茨城国という
 ・また、別の説では、山の佐伯・野の佐伯は自ら賊の長となり、手下を引き連れ、国の中を好きなように移動して、数多くの略奪や殺戮を行った
 ・その時、黒坂命は、この賊を謀により滅ぼそうと、茨で城を造った
 ・だから地名を茨城とした
 ・茨城国造の始祖・多祁許呂命(たけころのみこと)は 、神功皇后の時代、応神天皇の誕生まで朝廷に仕えた
 ・多祁許呂命には八人の子がおり、次男の筑波使主(つくはのおみ)は茨城郡湯坐連の始祖

 〇信筑(しづく)の川
  ・郡家の近く、西南に信筑川が流れている
  ・水源は筑波山にあり、西より東へ流れ、郡内を経巡って、高浜の海(霞ヶ浦)へ注ぐ
※恋瀬川、かみがうら市上志筑が遺称地

 〇高浜(たかはま)
  ・そもそもこの地では、花が香る良い季節や紅葉が落ちる涼しい頃に、駕籠に乗って出向いたり、舟に乗って遊んだりする
  ・春は浦の花が千々に彩り、秋は岸の紅葉が百に色付く
  ・歌う鶯を野のほとりに聞き、舞う鶴を汀に見る
  ・村の男と海女の女とが、浜で追い合って集まり、商人と農夫とが、小舟に棹差して往来する
  ・言うまでもなく、夏の暑い朝や、陽が黄金色に輝く夕べには、友を呼び使用人を率いて、浜辺に並んで座り、海を見晴るかす
  ・波の冷気を含んだ風がようやく吹けば、暑さを避ける者は、蒸し暑さから去り、岡の影がようやく傾くと、涼しさを追う者は、喜ばしい気分となる
  ・高浜を詠んだ歌がある
  ・「高浜に寄する波、沖つ浪が寄せて来るように人が心を寄せても、私は心を寄せはしない、あなたに心を寄せたのだから」
 ・「高浜の地面を吹く風が騒いでいるが、あなたを恋する私の心も騒いでいる、妻と呼べればいい、私を力強い男として召したのだから」

 〇桑原(くわはら)の岳(をか)
  ・郡家の東十里にある
  ・昔、ヤマトタケル天皇が岳の上にとどまり、お供えを備えようとした時、水部(もひとりべ)に新たな井戸を掘らせたところ、泉が清く香り、飲むのに大変よかった
  ・天皇「よく溜まった水であることだ」

●行方(なめかた)の郡

 ・東と南は流れ海、北は茨城郡
 ・孝徳天皇の治世、茨城国造・壬生連麿(みぶのむらじまろ)が、那珂国造・壬生直夫子や、惣領(すべをさ)・高向(たこむこ)の大夫(まえつぎみ)、中臣幡織田(なかとみのはとりだ)の大夫らに乞い、茨城の八里を割き、七百戸余りを合わせ、別に郡家を置いた

 〇現原(あらはら)の丘
   ・ヤマトタケル天皇、天下を巡行し、海の北を平定
  ・その時、この国を通り、槻野(つきの)の泉へ行き、手を洗ったが、その井戸は玉で作ってあった
  ・今も行方の里にあり、王の清水という
  ・また、御輿を廻らして現原(あらはら)の丘に来て、土地の神にお供えをした
  ・その時、天皇は四方を望み、侍従らを振り返ってこう言った
  ・「輿を止めて歩き回り、目を上げて見渡せば、入り組んだ山並みは交わり曲がりくねっている
  ・峰の山頂に雲を浮かべ、谷の麓に霧を抱く
  ・美しい風景で、素晴らしい地形だ、この地の名は行細(なみくは)し国というがいい」
  ・後世もこの事跡を偲びなお行方という
  ・土地の言葉で、立雨零(ふ)る行方の国、という

 〇無梶河(かぢなしがは)
  ・その丘は高く開けているので、現原と名付けた
  ・この丘から下り、大益河(おおやがは、現在の梶無川)に行き、小舟に乗って川を上る時、棹と舵が折れた
  ・だからその川の名を、無梶河(かぢなしがは)という
  ・この川は茨城郡と行方郡の境
  ・河の鯉や鮒の類は多過ぎて書ききれない
  ・無梶河から郡境に至った時、鴨が飛び渡ったので、天皇自ら射ると、鴨はすぐに弓弦の音に応じて墜落した
  ・その場所を鴨野という、土地が痩せて、草木が生えない
  ・野の北は、イチイ、クヌギ、カエデ、マス(何の樹木か不明)が、ところどころ盛んに生えており、自然と山林を成している
  ・北に香取の神子(みこ)の社(行方市若海の香取神社)があり、社の北側の山野は、土地が肥え、草木が密生している

 〇行方の海
  ・郡家の西の渡し場は、いわゆる行方の海(霞ヶ浦)
  ・海松や塩を焼く藻が生えている
  ・およそ海にいる様々な魚は載せきれない程多い
  ・ただし鯨は昔から見聞きしたことがない

 〇県(あがた)の祇(かみ)
  ・郡家の東に国津神の社があり、県の祇と名付けている
  ・杜の中の清水を大井という
  ・郡家近くに住む男も女も、集って汲み飲む

 〇郡家南門の槻(つきのき)
  ・郡家の南門に大きな槻の木がある
  ・北の枝は自然に垂れて地面に触れ、再び空中に聳えている
  ・その場所に、昔、沢があった
  ・今も長雨が降ると、郡家の庭に水が溜まる
  ・郡家の側の村に、橘の木が生えている(弟橘姫と関係あるか)

 〇提賀(てが)の里
  ・郡家の西北
  ・いにしえ、佐伯(さへき)がおり、名を手鹿(てが)といった
  ・彼が住んでいたので、後に里の名とした
  ・里の北に香島の神子の社(玉造の大宮神社)
  ・社の周囲の山も野も土が肥え、草木、椎、栗、竹、茅の類が沢山生えている
  ・ここより北に、曽尼(そね)の村がある
  ・いにしえ、佐伯がおり、名を疏弥毗古(そねびこ)といった
  ・彼の名を取り村の名とした

 〇夜刀神
  ・継体天皇の治世、箭括(やはず)の氏麻多智(またち)という人物がいた
  ・郡家の西の谷の葦原を開墾し新田を献上した
  ・その時、夜刀(やと)の神が、群れを率いて、全てやって来て、あれこれ妨害し、水田を耕すのを妨害した
  ・土地の言葉で、蛇を夜刀の神という、その姿は蛇の身体で頭に角がある
  ・家族を率いて難を逃れる時に、振り返って見る人がいると、家が滅び子孫が絶える
  ・郡家の傍らの野原に非常に沢山棲んでいる
  ・そこで麻多智は、いたく怒りの感情を起こし、鎧兜を身に付け自ら矛を取り、撃ち殺し追い払った
  ・そして山の登り口で、境界を示す柱を堀に立て、夜刀の神に次のように告げた
  ・「これより上は、神の土地とすることを許す、これより下は、人の田を作るべき
  ・今より後は、私が神主となって、永遠に敬い祭ろう、願はくは祟るな、恨むな」
  ・そう言って社を設けて初めて祭ったという
  ・また、十町余りの田を作り、麻多智の子孫が代々祭を受け継いで、今も絶えずに行われている
  ・その後、孝徳天皇の治世、壬生連麿が、初めてその谷を占有し、池の堤を築かせた時、夜刀の神が、池のほとりの椎の木に昇り集って、時間が経っても去らなかった
  ・そこで麿は、声を上げて「この池を修造し、お前達に約束させ、民を活かそうとしているのだ。どこの天神地祇が、皇化に従わないのか」と叫んだ
  ・そしてすぐに労役の民に「目に見える様々な物、魚や虫の類は、憚り恐れることなく、尽く打ち殺せ」と命じた
  ・そう言い終わるとたちまち妖しい蛇は去り隠れた
  ・その池を、今では椎の井と名付けている
  ・池の西に椎の木がある
  ・泉が湧くので、それにちなんで池に井の名を付けてた

 〇男高(をたか)の里
  ・郡家の南七里に、男高の里がある
  ・昔、佐伯の小高(をたか)という者が住んでいたので名付けた
  ・国守・当麻(たぎま)の大夫の時に築造した池が、今も道の東にある
  ・池より西の山は、猪や猿が沢山住み、草木が沢山繁っている
  ・南に鯨岡(くぢらをか)がある
  ・太古、鯨が腹ばいで来て横たわった
  ・ここに栗家(くりや)の池がある(小高の小池)
  ・その栗が大きいので、池の名とした
  ・北に香取の神子の社がある(側鷹神社)

 〇麻生(あさふ)の里
  ・いにしえ、麻が沢の水際に生えていた
  ・太さは竹のようであり、長さは3m程だった
  ・里の周りを囲んで山があり、椎、栗、槻、イチイが生え、猪や猿が棲む
  ・その野では、力強い馬を産する
  ・天武天皇の治世、同じ郡の大生(おほふ)の里の建部(たけるべ、日本武尊の御名代部)の袁許呂(をころ)の命、この野の馬を得て、朝廷に献上した
  ・いわゆる行方の馬である
  ・茨城の里の馬という人もいるが、間違いである

 〇香澄(かすみ)の里
  ・郡家の南二十里に、香澄の里がある
  ・古伝によると、景行天皇が下総国、印波(いなみ)の鳥見の丘に登り、あちこち遠望して、東を振り返って侍臣達に言った
  ・「海は青い波が豊かで、陸は赤い朝焼け雲が霞んでいる、国はそれらに囲まれているように、私には見える」
  ・時の人は、それで霞の郷といった
  ・東の山に社がある
  ・榎、槻、椿、椎、竹、箭竹、ヤマスゲがあちこち沢山生えている
  ・この里より西、海中の北の洲を、新治の洲という
  ・洲の上に立って北をはるかに望めば、新治の国の小筑波(筑波山、ただし実際には新治郡ではなく筑波郡)が見えるので、そう名付けた

 〇板来(いたく)の村
  ・香澄の里南十里に、板来の村がある
  ・近くの海辺に臨む場所に駅家(うまや)があり、板来の駅(うまや)という
  ・その西に、榎が林を成している
  ・その林は、天武天皇の治世、麻績王(をみのおほぎみ)を流刑に処し、住まわせた場所
  ・その地の海(霞ヶ浦)には、塩を焼く藻、海松、白貝(おふ)、辛螺(にし、巻貝)、蛤(うむぎ、ハマグリ)が沢山いる
  ・崇神天皇の治世、東国の辺境の荒ぶる賊を平定しようと、建借間命(たけかしまのみこと、那賀国造の祖)を派遣した
  ・兵士を率いて、凶賊を討伐した
  ・安婆(あば)の島で宿営し、海の東の浦を遥かに望んだ
  ・その時、煙が見えたので、そこに人がいるのだろうと疑い、天を仰いで誓約をして次のように言った
  ・「もし天人(あめひと、大和朝廷側の人間)の煙なら、来たりて我が上を覆え
  ・もし荒ぶる賊の煙なら、去って海中へたなびけ」
  ・その時煙は、海に向かって流れた
  ・こうして凶賊がいるのを知り、部下に命じて早朝に食事を済ませて海を渡った
  ・ところで、国栖(くず)である夜石斯(やさかし)、夜筑斯(やつくし)という二人がいた
  ・首長となって、穴を掘り砦を築いて、常にその中に住んでいた
  ・官軍を狙って隙を窺い、身を伏せて防衛していた
  ・建借間命は、兵を放って追うと、賊はことこどく逃げ帰り、砦を閉ざして固く攻撃を遮った
  ・にわかに建借間命は大いに謀を思い付き、決死の覚悟の兵を選んで、山の曲がり角に身を伏せて隠し、賊を滅ぼす武器を造って備えた
  ・渚を飾り、舟を連ねて筏を編み、雲のような天蓋を翻し、虹のような旗を張った
  ・天鳥琴(あめのとりごと)、天鳥笛(あめのとりぶえ)の音は、波が寄せ潮が流れるにつれて流れ、杵を鳴らして歌い、七日七夜、遊び楽しみ歌い舞った
  ・その時賊の一党は、盛んな音楽を聞き、家の者は皆男も女も、ことこどく出て来て、浜に広がって喜び笑った(歌舞音曲を建借間命の葬儀だと判断した為)
  ・建借間命は、騎兵に砦を閉じさせ、後ろから襲撃し、ことこどく一族を捕らえ、一時に焼き滅ぼした
  ・この時「痛く(沢山)殺す」と言ったので、伊多久(いたく)の郷といい、「ふつ(剣で斬る時の音)に斬る」と言ったので布都奈(ふつな)の村という(潮来市古高(ふつたか))
  ・「安く(たやすく)殺(き)る」と言ったので
安伐(やすきり)の里といい、「吉(え)く(上手く)殺(さ)く」と言ったので吉前(えさき)の里という(潮来市小泉辺り、旧名江崎)
  ・板来の南の海に洲があり、周囲は三、四里
  ・春には香島、行方二つの郡の男も女もことごとく来る
  ・洲には白貝(おふ)や様々な味の貝を拾う

 〇当麻(たぎま)の郷
  ・ヤマトタケル天皇が巡行してこの郷を通り過ぎた時、佐伯である鳥日子(とりひこ)がいた
  ・天皇の命に逆らったので殺した
  ・そして屋形野(やかたの)の仮宮に行幸する際、乗物の通る道が狭く、地面が凸凹していた
  ・悪い道の意味を取り、当麻という、土地の言葉で「たぎたぎし」という
  ・野の土はやせているが、紫は生えている
  ・香島、香取、二つの神子の社がある
  ・その周りの山野には、イチイ、ハハソ(楢の木)、栗、クヌギが、あちこち林を成しており、猪、猿、狼が沢山住んでいる
※鉾田市当間

 〇藝都(きつ)の里
  ・当麻の郷の南に藝都の里がある
  ・古、国栖の寸津毗古(きつひこ)、寸津毗売(きつひめ)がいた
  ・寸津毗古は、ヤマトタケル天皇の行幸時、命令に背き皇化に従わず、大変無礼だった
  ・そこで天皇は剣を抜き、すぐに斬り殺した
  ・寸津毗売はそれに恐れ憂い、白い旗を掲げて、道に出迎えて拝礼した
  ・天皇は哀れんで恵みを与え、家に帰して放免した
  ・また、天皇が乗り物を巡らして、小抜野(をぬきの)の仮宮に行幸した際、寸津毗売は姉妹を率いて、誠に心を尽くして、雨風も避けず、朝な夕なに仕えた
  ・天皇はその慇懃さを愛でてうるはし(慈し)んだので、この野を宇流波斯(うるはし)の小野という
※藝都=行方市内宿の化蘇沼、小抜野・小野=行方市小貫

 〇田(た)の里
  ・藝都の里の南にある
  ・神功皇后の治世、この土地の人、古津比古(こつひこ)がおり、三度韓国に派遣され、その功労を重んぜられ田を賜ったのでこの名がある
  ・また波耶武(はやむ)の野がある
  ・ヤマトタケル天皇が、この野に宿り、弓弭を繕ったのでそう名付けた ※命名因果不明
  ・野の北の海辺に、香島の神子の社がある(行方市小牧の鉾神社)
  ・土が痩せ、イチイ、ハハソ(楢の木)、楡、マス(不明)が、一、二ヶ所生えている

 〇相鹿(あいか)・大生(おほふ)の里
  ・田の里や波耶武の野より南にある
  ・ヤマトタケル天皇、相鹿の丘前(をかざき)の宮にいた(行方市岡)
  ・この時、供進する料理の炊事を行う建物を浦の浜に構えて、小舟を並べ繋いで橋とし、御在所に通わせた
  ・その大炊(おほひ、偉大な炊事)の意味から、大生と名付けた ※潮来市大生
  ・また、ヤマトタケル天皇の皇后、大橘比売命(おほたちばなひめのみこと)が大和より降って来て、この地で天皇に会った
  ・だから安布賀(あふか)の邑(むら)という ※潮来市大賀

●香島(かしま)の郡

 ・東は大海、南は下総国境の安是(あぜ)の湖(みなと)※利根川河口のあたり、西は流れ海の、北は那賀郡境の阿多可奈(あたかな)の湖※涸沼
 ・孝徳天皇の治世の大化五年に、大乙上・中臣◯(欠字)子、大乙下・中臣部兎子(うのこ)ら、惣領・高向の大夫に請い、下総国の海上(うなかみ)国造の領内である軽野(かるの)より南の一つ里と、那賀国造の領内である寒田より北の五つの里を割いて、別に神郡を置いた
 ・その所にある天の大神の社(鹿島神宮)、坂戸の社、沼尾の社(いずれも鹿島神宮の摂社)の三社を合わせて、香島の天の大神と総称するので、郡の名とした
 ・土地の人々の言葉に「霰ふる香島の国」という

 〇鹿島神宮の由来
  ・澄んだものと濁ったものが混ざった、天地の初めよりも前に、諸神の祖たる天津神達(土地の言葉で、賀味留弥(かみるみ)・賀味留岐(かみるき)という)が、八百万の神々を高天原に集めた時、諸神の祖たる神々が次のように言った
  ・「今、我が孫が統治すべき豊葦原瑞穂国」
  ・高天原より降り来た大神、名を香島天の大神という
  ・天にあっては日の香島の宮と名付け、地にあっては豊香嶋の宮と名付ける
  ・土地の人々が言うには、豊葦原瑞穂国の統治を委任しようと詔勅を下した時、神々は次のように言った
  ・「荒ぶる神達、岩石や草木が言葉を話し、昼は蝿のようにうるさく、夜は妖しい火が光り輝く国であり、それを平定する大御神だ」
  ・だから、天降って皇孫に仕えた

 ◯鹿島神宮への幣帛奉納
   ・その後、崇神天皇の治世に奉納した幣帛は、大刀(たち)十口、鉾二枚、鉄弓(かなゆみ)ニ張、鉄箭(かなや)ニ具、許呂(ころ、何かは不明)四口、枚鉄(ひらがね)一連、練鉄(ねりがね)一連、馬一疋、鞍一具、八咫鏡ニ面、五色の絁?ふときぬ)一連
  ・土地の人は次のように言う
  ・崇神天皇の治世、大坂山(大和河内国境の二上山周辺)の山頂に、立派な着物を着て、白い矛の杖を持って、神が諭して言った
  ・「私の前を祀れば、あなたが統治する国を、大きな国も小さな国も、委ねよう」
  ・そこで天皇は数多くの部民の長達を集め、この神託の意味を尋ねた
  ・その時、大中臣の神聞勝命(かむききかつのみこと)が奏上した
  ・「大八嶋国は、あなたが統治する国だと、国を平定して香島に鎮座する天津大御神の教えです」
  ・天皇はこれを聞き、恐れ驚いて、先の幣帛を神宮に奉納した

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鹿島神宮

 ◯鹿島神宮の神戸
  ・神戸は六十五戸
  ・元は八戸で、孝徳天皇の治世、五十戸を加え、天武天皇の治世、九戸を加えて、合わせて六十七戸になった
  ・庚寅の年(690年)、二戸減らして、六十五戸とした

 ◯御船祭の由来
  ・天智天皇の治世、初めて使いを派遣して、神の宮を作らせた
  ・それ以降、修理が絶えたことはない
  ・例年七月に舟を造って津の宮に納める
  ・古老は次のように言う
  ・ヤマトタケル天皇の治世、天の大神(鹿島の神)が、中臣の臣狭山命(おみさやまのみこと)に、「今、社の御舟」と言った
  ・臣狭山命は「謹んで大きな命を承りました、敢えて断ることなど致しましょうか」と答えた
  ・天の大神は夜が明けてから「お前の舟は海の中に置いた」と言った
  ・そこで舟の持ち主の臣狭山命が見えみると、岡の上にあった
  ・また天の大神は「お前の舟は岡の上に置いた」と言った
  ・臣狭山命がそれを聞いて探すと、海中にあった
  ・このようなことが、既に二度三度ではなく沢山あった
  ・そこで恐れ畏まり、新たに舟三隻、それぞれ長さが二丈(約5.8m)あるものを造らせて、初めて献上した(以降、御船祭が行われている)

 ◯四月十日の祭
  ・例年四月十日に、祭を行って酒を飲む
  ・卜部氏の一族が、男も女も集い、連日連夜酒を飲んで歌舞音曲を楽しむ
  ・その歌に「新しい御神酒を、飲め飲めと、上手く言うせいか、私は酔っ払ってしまった」とある

 ◯卜部氏の居所
  ・鹿島神宮の周囲は、卜部氏の居所
  ・地形は高く開けていて、東と西は海に臨み、峰や谷が犬の牙のように、村里と交わっている
  ・山の木と野の草とは、内庭の垣根となって隠し、谷川の流れと岸の泉とは、朝夕の汲み水を湧出する
  ・嶺の頂きに家を構えれば、松と竹とは垣の外を守り、谷の中腹に井戸を掘れば、ツタとヒカゲノカヅラが崖の上を覆う
  ・春にその村を通れば、百の草に◯(欠字)の花が咲き、秋にその道を過ぎれば、千の樹に錦の葉がある
  ・神仙境であり、霊異が姿を変え生まれる地である
  ・麗しいものが豊かで、全てを記すことができない

◯沼尾の池
  ・鹿島神宮の南に郡家がある
  ・北には沼尾の池がある ※鹿嶋市の沼尾神社の西の池
  ・古老が言うには、神代に天から流れて来た水沼
  ・生えている蓮根は、香りと味わいが大変良く、甘いことは他所に比類なく優れている
  ・病者がこの沼の蓮根を食べれば、早く癒えて効果がある
  ・鮒、鯉が多く住む
  ・以前郡家が置かれた場所で、橘を沢山植えてあり、その実は美味

 ◯高松の浜
  ・郡家の東ニ、三里に、高松の浜がある
  ・大海によって流れ着く砂と貝が、積もって高い丘になり、松林が自然に出来ている
  ・椎とクヌギが混じり、すっかり山野のようだ
  ・あちこちの松の下に泉がある
  ・泉の周囲は約15mで、清らかに水をたたえていて大変良い
  ・慶雲元年(704年)、国司・采女朝臣(うねめのあそみ)が、鍛治職の佐備大麿(さびのおほまろ)らを率いて、若松の浜の鉄を採って、剣を造った
  ・高松の浜から南にある軽野の里の若松の浜に至る距離は、三十余里くらいで、ここは全て松山
  ・伏苓(まつほど)、伏神(ねあるまつほど)を年毎に掘る※漢方薬になるキノコ
  ・その若松の浦は、常陸、下総二つの国の堺
  ・安是(あぜ)の湖(みなと)(利根川河口)にある砂鉄は、剣を造れば大変鋭い剣になる
  ・しかし香島の神山なので、容易く入って松を伐り、鉄を掘る事は出来ない

 ◯浜の里
  ・郡家の南二十里に、浜の里がある
  ・その東の松山の中に、大きな沼があり、寒田という ※神栖市の神(ごう)の池
  ・周囲は約2〜3kmくらいで、鯉や鮒が住んでいる
  ・之万(しま)、軽野(かるの)二つの里にある田を少しく潤している
 ・軽野より東、大海の海辺に、流れ着いた大船があり、長さは約43m、幅は約3m
  ・朽ち砕けて砂に埋もれ、今なお残っている
  ・天智天皇の治世、国を求めて派遣しようとして、陸奥国石城の船大工に大船を作らせたが、この場所に至って岸に着き、すぐに壊れたという

 ◯童子の松原
  ・その南に、童子(わらは)の松原がある
  ・いにしえ、年若い童子がいた
  ・土地の言葉で神のをとこ、神のをとめという
  ・男を那賀寒田郎子(なかのさむたのいらつこ)といい、女を海上安是嬢子(うなかみのあぜのいらつめ)という
  ・共に容姿が美しく、村里に光り輝いていた
  ・名声を聞いて、互いに会いたいという気持ちが抑えられなくなった
  ・そうして月日が過ぎ、歌垣(土地の言葉ではウタガキともカガヒともいう)の集まりで、ばったり遇った
  ・郎子は「阿是(あぜ)の小松に、木綿を垂らして、私に向かって振っているのが見える、阿是の小島よ」と歌った
  ・嬢子はこれに応えて「潮には立とう、と言ったけど、奈西(なせ)の子が、沢山の島々に隠れて、私を見て走って来た」と歌った
  ・そこで語り合いたいと思い、人に知られることを恐れて、歌垣の場から去り、松の下に隠れ、手を取り合って膝を近付け、思いを述べて、溜まっていた思いを吐露した
  ・既に長年積もった恋の病から解放され、また新たなる歓びにしきりに笑みが湧いて来た
  ・時に、玉のような露がつく秋の暮れ、秋風が吹く季節、煌々と月が照らすところは、鳴く鶴の帰る洲だ
  ・吹き渡る松風が鳴るところは、渡る雁の行く山だ
  ・夕は静寂の中、巌の清水が古からの音を響かせ、夜は寂しく霧に煙り霜が新たに降りる
  ・近い山には自然と紅葉が林に散る色が見え、遥かな海にはただ青い波が磯に砕ける音が聞こえる
  ・今宵これ以上楽しいことはないだろう
  ・ひたすら言葉の甘い味わいに耽り、夜の開けるのも忘れた
  ・突如鶏が鳴き犬が吠え、夜が明けて日が昇った
  ・その時童子達は、成す術を知らず、ついに人に見られることを恥じて、松の木となった
  ・郎子を奈美松(なみまつ)といい、嬢子を古津松という
  ・いにしえより名を付けて、今に至るまで改めていない

 ◯白鳥の里
  ・郡家の北三十里に、白鳥の里がある
  ・垂仁天皇の治世、白鳥がいた
  ・天より飛来し、童女となって、夕に天に上り、朝には下って来た
  ・石を摘んで池を造り、その堤を築こうとして、徒らに月日を重ねて、築いたり壊れたり、造ることができなかった
  ・童女らは、「白鳥が、羽の堤を造っても、すぐに水が流れ出てしまう……」と口々に歌って天に昇り、二度と降って来なかった
  ・だからその場所を白鳥の郷と名付けた(※鉾田市の白鳥山大光寺照明院に名が残る)

 ◯角折の浜
  ・その南にある平原を、角折(つのをれ)の浜という
  ・いにしえ、大蛇がおり、東の海へと通ずるよう、浜を掘って穴を作ったら、蛇の角が折れて落ちたので、そう名付けたという
  ・あるいは、ヤマトタケル天皇が、この浜に宿泊し、土地の神にお供えをしようとすると、全く水がなかった
  ・そこで鹿の角で土を掘ったところ、その角が折れた、だから名付けた ※鹿嶋市角折が遺称地

●那珂(なか)の郡

 ・東は大海、南は香島・茨城郡、西は新治郡、下野国との堺にある大きな山、北は久慈郡

 ◯大櫛の岡
  ・平津(ひらつ)の駅家(うまや)の西、一、二里のところに、岡があり、名を大櫛(おほくし)という
  ・いにしえ、人がおり、身長が非常に高く、体が岡の上にあっても、手で海辺の大蛤をくじる(=ほじくる)程であった
  ・その食べた貝の貝殻が、積もって岡となった
  ・「大きくくじる」の意から、今も大櫛の岡という
  ・その人の足跡は、長さ約71m、幅約36m
  ・尿をした穴は、直径約36m
  ※水戸市の大串貝塚

 ◯茨城(うばらき)の里
  ・ここより北に、高い丘があり、名を
晡時臥(くれふし)の山という ※現在の朝房山
  ・いにしえ、努賀毗古(ぬかびこ)、努賀毗咩(ぬかびめ)の兄妹がいた
  ・ある時、妹が壁を塗りこめた寝室にいると、人が現れたが、姓名は分からなかった
  ・常にやって来て求婚し、夜来て昼帰った
  ・ついには夫婦となって、一晩で懐妊した
  ・子を産む月になり、ついに小さな蛇を生んだ
  ・夜が明けると言葉が出ないかのようであったが、日が暮れると母と語った
  ・母と伯父(努賀毗古) は、大変驚き不思議がって、内心で神の子だろうと思った
  ・そこで小さな蛇を清浄な坏(つき)に盛り、祭壇を設けて安置した
  ・一夜の間に、坏を完全に満たす程に成長した
  ・さらに、瓮(ひらか)に移し替えて安置したが、また瓮を満たす程に成長した
  ・このようなことが三度四度繰り返し、最早器を用いることは出来なくなった
  ・母は子の蛇に告げて言った
  ・「あなたの器量を量ったら、自然の神の子と分かりました
  ・私の一族の力では、養う事が出来ません
  ・父のいるところへ行きなさい、ここにいてはいけません」
  ・その時、子は哀しんで泣き、涙を拭って答えた
  ・「謹んで母の命令を承りました
  ・敢えて断ることなどしましょうか
  ・しかし、身一つの私が一人で行けば、助けてくれる者がおりません
  ・願わくば、哀れんで子供を一人付けてはくれませんか」
  ・母は「我が家にいるのは、母と伯父だけだと、あなたもよく知っている、だからあなたに付き従移し替え人はおりません」と言う
  ・そこで、子は恨みを抱いて、ものを言わなかった
  ・別れる時に臨み、怒りを抑える事ができず、伯父を雷で殺して天に昇った
  ・その時、母が驚いて、瓮を取って投げ、それが子に触れて昇れず、この峰に留まった
  ・蛇を盛った瓮と甕は、今も片岡(かたをか)の村にある
  ・その子孫が、社を建てて祭を行い、今も続いている

 ◯曝井(さらしゐ)
  ・郡家から、東北を流れる粟河(あはかは、現在の那珂川)を渡ったところに、駅家が設置されている
  ・元は粟河に近いところあり、河内(かふち)の駅家という、今もその名前を用いている
  ・そこから南に当たる場所に、泉が坂の中に出ている
  ・水量が多く、大変清く、曝井という
  ・泉の近くの村落に住む女性達は、夏に集まり、布を洗って日に曝して乾す

●久慈(くじ)の郡

 ・東は大海、南と西は那珂郡、北は多珂郡(たかのこおり)と陸奥国との境である山
 ・郡家の南、近くに小さな丘があり、形が鯨に似ている ※金砂郷の中野丘陵
 ・ヤマトタケル天皇は、それにより久慈と名付けた

 ◯谷会山(たにあひやま)
  ・天智天皇の治世、藤原鎌足の所領の民戸の検分に派遣された軽直里麿(かるのあたひさとまろ)が、堤を造って池とした(常陸太田市天神林付近の鶴の池)
  ・その池より北を谷会山という
  ・あらゆる絶壁が、巌のような形で、色は黄色く、横穴が穿たれている
  ・猿が集まって来て、常に宿り、土を食べている

 ◯河内の里
  ・郡家の西北六里のところに、河内(かふち)の里がある ※常陸太田市宮河内
  ・元は古々(ここ)の邑と名付けていた
  ・土地の言葉で、猿の声を古々という
  ・東の山に石の鏡がある ※常陸太田市の鏡岩
  ・昔、魑魅(おに)がいた
  ・魑魅が集まって鏡を弄んで、鏡を見たところ、たちまち自然に去った
  ・土地の人は、素早い鬼は鏡に向かうと自然と滅ぶという
  ・その土地の土は、色は青い紺(はなだ)のようで、絵を描くの用いると鮮やか
  ・土地の言葉では、阿乎尓(あをに)あるいは加支川尓(かきつに)という
  ・朝廷の命に応じて、採取し献上する
  ・いわゆる久慈河の水源は、猿声(ここ)の地にある

 ◯静織(しとり)の里
  ・郡家の西に、静織の里がある
  ・いにしえ、綾(しつ、国産の織物)を織る機(はた)を知っている人がいなかった
  ・その時、この村で初めて織ったので、それによって名付けた
  ・北に小川があり、赤い石が混じっている
  ・色は琥珀に似て、火打ちにも大変良い
  ・だから玉川と名付けている
  ※那珂市に静神社が鎮座

 ◯山田(やまだ)の里
  ・郡家の北二里のところに、山田の里がある(旧水府村山田入)
  ・開墾して沢山の田を作った
  ・そこを流れる清河(現在の山田川)は、北の山に水源があり、郡家の近く南側を経て、久慈の河に合流する
  ・鮎が沢山獲れ、大きさは人の腕のようだ
  ・その清河の淵を、石門(いはと)という(旧金砂郷町岩手)
  ・慈しみ深い木は林を成し、頭上を覆うように茂る
  ・清浄な泉は渕を成し、足下にさらさらと流れる
  ・青葉は自然と日の光を隠す衣笠となって翻り、白砂は波を弄ぶむしろとなって川底に敷かれている
  ・夏の暑い日に、遠い里からも近い里からも、暑さを避け涼しさを追い、膝を近づけて手を取り合って、筑波の雅曲(みやびうた)を歌い、久慈の美酒を飲む
  ・これは人の世の遊びに過ぎないとは言え、ひたすら俗塵の中の憂いを忘れる
  ・その里に含まれる大伴の村に、崖がある
  ・土の色は黄で、鳥の群れが飛んで来て、ついばんで食べる

 ◯太田(おほた)の里
  ・郡家の東七里のところにある、太田の郷に、長幡部(ながはたべ)神社がある
  ・天孫降臨時、服を織る為に従って降った神、綺日女命(かむはたひめのみこと)は、元々、筑紫国の日向の二所(ふたがみ)の峰より、三野(みの)国の引津根(ひきつね)の丘に至った
  ・後に、崇神天皇の治世、長幡部の遠祖、多弖命(たてのみこと)は、危険を避けて三野より久慈に移り、機殿を造り立てて、初めて服を織った
  ・その織った服は、自然と服になり、裁ち縫うことがなく、内幡(うつはた)という
  ・ある人が言うには、太絹を織るにあたって、容易く人に見られるので、機殿の扉を閉じて、闇の中で織る、だから烏織(うつはた)と名付けた
  ・鉤の武器でも、強い刃でも、裁ち切ることができない
  ・今、毎年、特別に神の貢物として献納している

 ◯薩都(さつ)の里
  ・太田の郷より北に、薩都の里がある(常陸太田市里野宮町)
  ・いにしえ、国栖(くず)がおり、名を土雲(つちくも)といった
  ・兎上命(うなかみのみこと)が、兵を動員し誅殺した
  ・その時、上手く殺すことが出来て、「福(さち=幸)があることだ」と言ったことにより、佐都(さつ)と名付けた
  ・北の山にある白土(しらに)は、絵に色を塗るのに良い
  ・東の大きな山を賀毗礼(かびれ)の高峰という ※御岩神社のある日立市の御岩山か
  ・天津神が鎮座しており、名を立速男命(たちはやをのみこと)と称す、またの名を速経和気命(はやふわけのみこと)という
  ・元々は、天より降って松沢の松の木の数多く分かれた枝に鎮座していた
  ・神の祟りは、大変厳しい
  ・人がこの神の方に向かって大小便をすると、災いを起こし、病をもたらす
  ・近くの住人は常に大変苦しんでおり、朝廷に陳情した
  ・片岡の大連(中臣氏の同族)を派遣して敬い祀らせ、次のように祈って言った
  ・「今、ここに鎮座しているのは、民が近くに住んでいて、朝な夕な不浄となる
  ・当然ここには鎮座しない方が良く、避け移って、高い山の清浄な場所に鎮座した方が良い」
  ・神はその願いを聞き届け、ついに賀毗礼の高峰に登った
  ・その社は、石を垣根とし、中には神の一族(蛇か)が非常に沢山いる
  ・また、様々な宝、弓、桙(ほこ)、釜、器の類が、皆石になって残っている
  ・およそ、様々な鳥で通り過ぎるものは、全て急いで避けて飛び、峰の上を通らない
  ・いにしえからそうであり、今もそうである
  ・小川があって、薩都河という(里川)
  ・水源は北の山にあり、南に流れて久慈川に合流する

 ◯密筑(みつき)の里
  ・高市というところがあり(日立市南高野付近)、そこから東北二里のところに、密筑(みつき)の里のがある(日立市水木町)
  ・村の中の清浄な泉を、土地の人達は大井という(泉が森)
  ・夏は涼しくて冬は温かく、湧き流れて川となる
  ・夏の暑い時には、遠くや近くの村里から、酒と肴を持ち来て、男も女も集い、憩い遊び酒を飲んで楽しむ
  ・その東と南とは、海に面している
  ・アワビ、ウニ、魚、貝などの類が大変多い
  ・西と北とは山野である
  ・椎、イチイ、カヤ、栗の木が生え、鹿や猪が住んでいる
  ・山と海の珍味は、書ききれないほどにある

 ◯助川(すけかは)の駅家
  ・密筑の里の東北二十里に、助川の駅家がある
  ・昔は遇鹿(あふか)といった
  ・ヤマトタケル天皇が、ここに至った時、皇后と会ったので、それにちなんで名付けた
  ・国守・久米大夫(くめのまえつぎみ)の時に、川で鮭を取ることから、改めて助川と名付けた
  ・土地の言葉では鮭の親を須介(すけ)という

●多珂(たか)の郡

 ・ 東と南は大海、西と北は陸奥と常陸の国の境の高い山
 ・成務天皇の治世、建御狭日命(たけみさひのみこと)を多珂国の国造に任命
 ・この人が初めてここにやって来て、地勢を巡り見て、峰が険しく山が高いと思い、多珂の国と名付けた
 ・建御狭日命は、出雲臣の同族
 ・今、多珂、石城(いはき)と言うのは、ここ
 ・土地の言葉に「薦枕(こもまくら)多珂の国」というものがある

 ◯多珂郡と石城郡の分置
  ・建御狭日命が派遣された時、久慈との境の助河(すけかわ)を以て道の前(みちのくち、大和から見た国の入口)とした
  ・郡家を去ること西北六十里、今なお道前(みちのくち)の里という
  ・陸奥国石城郡の苦麻(くま)の村(福島県大熊町熊)を道の後(みちのしり)とした
  ・その後、孝徳天皇の治世に至り、653年、多珂国造、石城直美夜部(いはきのあたひみやべ)、石城評造部志許赤(いはきのこほりのみやつこべのしこあか)達、惣領高向大夫に請い、所轄地域が遠く隔たっていて、往来が不便なので、多珂、石城のニ郡を分置した
  ・石城郡は、今は陸奥国に所属する

 ◯飽田(あきた)の村
  ・その道の前の里に、飽田の村がある
  ・ヤマトタケル天皇が、東の辺境を巡ろうとし、この野に泊まった時、ある人が言った
  ・「野の上に群れる鹿は、無数にいる
  ・聳える角は、枯れた芦の原のようで、吐く息は朝霧の立つのに似る
  ・また、海にはアワビがおり、大きさは八尺ほど
  ・そして様々な珍味があり(以下欠字)」
  ・そこで天皇は野に出てて、橘の皇后を派遣し、海に臨んで漁をさせ、獲物の量を競おうと、山と海のものを別れて探した
  ・この時、野の狩は、終日馬を駆り矢を射たが、一匹の鹿さえ得られなかった
  ・海の漁は、少しの間に僅かに行っただけなのに、あらゆる魚介を得るほどであった
  ・狩と漁を終え、土地の神に神饌を奉納する際、天皇は従者に「今日の遊びは、私と后と、それぞれ野と海とに行って、ともに幸を争った
  ・野の物は得られなかったが、海の物を悉く飽きる程食べた」と言った
  ・後世、その事跡により、飽田の村と名付けた

 ◯仏の浜
  ・国守・川原宿祢黒麿の時に、大海のほとりの石壁に、観世音菩薩の像を彫って、今も残っている(日立市の度志観音)
  ・だから仏の浜という

 ◯藻嶋(めしま)の駅家
  ・郡家の南三十里に、藻嶋の駅家がある
  ・東南の浜に碁石がある(日立市の碁石浜)
  ・色は珠玉のようだ
  ・いわゆる常陸国にある麗しき碁石は、ただこの浜のみで取れる
  ・昔、ヤマトタケル天皇が、舟に乗って海上に浮かび、嶋の磯を見ると、様々な海藻が沢山生い茂って栄えていた
  ・それによって名付けた、今も同じように生い茂っている

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全体的を通して印象の強かった点

・ヤマトタケノミコトが頻出し、特別に重く扱われ、「天皇」の称号が使われる
・「橘」の名を持つヤマトタケルノミコトの皇后が現われる(記紀の弟橘媛と同一かは不明)
・豊かな土地が多い記述が目立つ
・歌垣のように、人々が集まって楽しむ記述も多い
・しかし、筑波山の歌垣については、相手がいなくて寂しいという歌ばかり
・童子の松原も、歌垣に関わる伝説だが、悲劇的内容
・行方郡は「まつろわぬ」神・民(夜刀神、土蜘蛛、佐伯、国栖)の記述が、他郡に比べ異様に多い
・中には滅ぼされず、撤退(夜刀神)や降伏(寸津毗売)、交戦の記述がなし(疏弥毗古、小高)の場合もある
・「まつろわぬ」女性首領が散見される(油置売命、寸津毗売)
・蛇神神話(夜刀神、角折浜、晡時臥の山、賀毗礼の高峰)が散見される
・香島郡は、特に鹿島神宮の扱いが重く、他郡に比べ内容が際立って異なる
・風土記中の、一つの神社の扱いの重さとしては、出雲大社を凌ぐ印象
・本風土記には高位に就く中臣氏の係累がいくらか登場する
・中臣氏が鹿島神宮の祭祀を司っている記述もあり、本風土記が鹿島神宮を重視する背景が窺われる
・鹿島神宮近くに卜部が住み、また製鉄を行っている、他風土記にはない特殊な記述
・鹿島神宮、香取神宮を勧請した神社が散見される
・地形的に霞ヶ浦の扱いが大きい、当時は海水が流入していた記述
・「鶴女房」と同系の白鳥童女神話(白鳥の里)、織姫神話(静織の里、太田の里)
・巨人伝説と、既に発見されていた貝塚(大櫛の岡)
・鬼と照魔鏡の伝説(河内の里)
・久慈郡では特殊な土や石の産出が散見される
・現在の福島県大熊町まで常陸国の領域だった記述

参考文献:小学館 新編 日本古典文学全集5・風土記
詳細は参考文献参照

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ヘッダー画像は、壬生連麿の夜刀神討伐再現シーン。壬生連麿像は、伝承地である行方市玉造の椎井池に建つもの。夜刀神は自作。

夜刀神については、神社対談オーディオブック「高橋御山人の百社巡礼 75」にて詳しく取り上げた。

サポート頂けると、全市町村踏破の旅行資金になります!また、旅先のどこかの神社で、サポート頂いた方に幸多からんことをお祈り致します!