見出し画像

豊後国風土記メモ

古代五風土記の一書、現在の大分県に当たる豊後国の風土記を読み、印象に残った箇所のメモ。
……のはずが、久し振りに読んで、このメモシリーズ自体久し振りに書いたら、ほぼ全編を簡略化した口語訳になってしまった。
豊後国風土記は割と短いので、まあいいか。

●総記
 ・景行天皇、豊国直等の祖、菟名手(うなで)に治めさせる
 ・菟名手が豊前国中臣村に宿泊した翌朝、北から白い鳥が飛び集った
 ・その鳥は餅になり、さらに里芋数千株になり、花も葉も茂り栄えた
 ・菟名手が瑞兆として天皇に奏上すると、「天の瑞兆、地に豊かな実りをもたらす草だ、だからお前の治める土地を豊国と呼びなさい」との命
 ・ゆえに、この土地を豊国という

●日田の郡
 ・景行天皇熊襲征伐からの凱旋時、土地の神・久津媛が人の姿になり出迎え、地域の状況を報告した。
 ・だから久津媛の郡といい、それが訛って日田の郡になった。

 〇石井の郷
  ・土蜘蛛が石のない土の堡(をき=砦)を作ったので石無しの堡といい、それが誤って伝わって郷の名になった
  ・郷の中に阿蘇川がある、久住山より流れて玖珠川と合流する大山川の古名、合流して日田川(筑後川の古名)となる

 〇鏡坂
  ・景行天皇が坂の上に登り、地勢を見て、この国の形は鏡の面に似ている、と言ったので、鏡坂という

 〇靫編(ゆぎあみ)の郷
  ・欽明天皇の治世、日下部氏の祖・邑阿自(おほあじ)が(大伴氏配下の)靫部として仕え、この村に家を作って住んだ
  ・だから靫負の村といい、後に靫編の郷と言った(奈良時代の豊後国正税帳に日下部氏の記述あり)
  ・郷の中に玖珠川がある

 〇五馬山(いつまやま)
  ・昔、土蜘蛛の五馬媛がいたので五馬山という
  ・天武帝の治世に大地震があり、この山の谷間が崩れて温泉が湧いた(天ヶ瀬温泉か)
  ・湯は熱く、飯を炊くのに使えば早く炊ける
  ・紺色の湯の間欠泉が一丈余り(約3m)泥を吹き上げる

●玖珠(くす)の郡
 ・巨大な樟の木があったので玖珠の郡という(山の形が切株に似る伐株山のことか)

●直入(なほり)の郡
 ・巨大な桑の木があり、枝も幹も真っ直ぐで美しいので、直桑の村と言い、後に直入の郡となった

 〇祢疑野(ねぎの)
  ・景行天皇行幸時、当地の三人の土蜘蛛、打サル・八田・国摩侶を自ら討伐しようと、兵を労った
  ・だから祢疑野という(日本書紀にも類似の記述、打サルという名の土蜘蛛は肥前国風土記にも登場)

 〇蹶石野(ふみいしのorほむしの)
  ・景行天皇が土蜘蛛討伐時に大きな石を使って占い、「討伐が神意に叶うなら、この石を踏んだら柏の葉のように舞い上がれ」と言った
  ・実際その通りになったので蹶石野という

 〇球覃(くたみ)の郷
  ・景行天皇行幸時、料理担当が従者に水を汲ませると、そこに蛇龗(おかみ=水神)がいた
  ・天皇は「臭いがするはず、使ってはならない」と命じた
  ・だから臭泉(くさいずみ)と言い、それが村の名になって、訛って球覃となった

 〇宮処野(みやこの)
  ・景行天皇土蜘蛛討伐時に仮宮を建てたので宮処野という、球覃の郷にあり

 〇救覃(くたみ)の峰
  ・久住連山の古名、活火山の火が常に燃えている、麓から流れ出した湯の河二つが合流(長湯温泉か)

●大野の郡
 ・この郡の管内は全て原野なので大野という

 〇海石榴市(つばいち)・血田
  ・景行天皇が球覃の仮宮にあって、鼠の石窟の土蜘蛛を討伐するため群臣に命じ、椿の木から槌を作った
  ・それを勇猛な兵に授けて、山に穴を開け草を倒して、土蜘蛛を討伐し、流れる血でくるぶしが没した
  ・だから槌を作ったところを海石榴市、血が流れたところを血田という

 〇網磯野(あみしの)
  ・景行天皇行幸時、ここに小竹鹿奥(しのかおき)、小竹鹿臣(しのかおみ)という土蜘蛛がいた
  ・天皇に食事を奉る為、二人が狩をしたところ、その声がやかましく、天皇は「アナミス(うるさい)」と言った
  ・それでアナミス野といい、訛って網磯野となった

●海部(あま)の郡
 ・この郡の民は皆海辺の漁民なので海部の郡という

 〇丹生の郷
  ・この山の砂を取って辰砂と誤った(または代わりに使った)ので丹生の郷という

 〇穂門(ほと)の郷
  ・景行天皇が船をこの湾の入口に船を停泊させた際、海底に美しい海藻が多かった
  ・天皇が「最勝海藻(ほつめ=最高級の海藻)を取れ」と命じたのでホツメの門(ト)といったのが、訛って穂門になった(現・保戸島)

●大分(おほきだ)の郡
 ・景行天皇が地域の状況を見て「広く大きな土地だから、碩田(おおきだ)と名付けよ」と命じたのが地名の由来
 ・碩田とは、「分割された土地が沢山集まった大きな土地」、または「大きな田」
 ・大分川、その支流の水源の炭酸泉が疥癬に効くとの記述

赤湯の泉(別府 血の池地獄)

●速見の郡
 ・景行天皇熊襲征伐時、本州より豊後海部郡宮浦へ渡り、その村の長・速津媛が出迎えた
 ・速津媛の鼠の石窟の土蜘蛛、青・白、祢疑野の土蜘蛛、打サル・八田・国摩侶が天皇に従わないことを報告
 ・そうして天皇は彼らを討ったので、速津媛の国といい、後に速見の郡といった
 ・肥前国風土記の速来津媛と、役割、属性、地理的環境がよく似ている

 〇赤湯の泉
  ・周囲十五丈(約45m)で、湯の色は赤く泥土があり、家の柱を塗るのに適する
  ・泥が外に流れると色が変わって清水になる(別府の血の池地獄)

 〇玖倍理湯(くべりゆ)の井
  ・河直山(かわなほやま=現在の鉄輪)の東の崖にあり、直径一丈余(約3m)、湯の色は黒く、泥は常時流れてはいない
  ・人がこっそり近づいて大声を出すと二丈余湧き上がる、湯気が熱くて近寄れず、周りの草木は枯れている

 〇柚富(ゆふ)の郷
  ・郷の中に𣑥(たく=梶の木、製紙、神事に用いる)が沢山生えているので、常にその皮から木綿(ゆう)を作る、それで柚富という

 〇柚富の峰
  ・山頂に石室があり、深さ十丈余(約30m)、高さ八丈四尺(約25m)、広さ三丈余(約9m)で、常に凍った水があり夏を過ぎても溶けない(由布岳)

 〇頸(くび)の峰
  ・峰の下に水田があり、その苗をいつも鹿がやって来て食べるので、田の主は柵を造って様子を見ていた
  ・鹿がやって来て、柵の間に首を入れて苗を食べたので、主は鹿の首を斬ろうとした
  ・鹿が命乞いして、「子孫に苗を食べるなと告げるから許して下さい」というので、不思議なことだと思い放免した
  ・以後、その田の苗は鹿に食われす完全な実りを得られたので、頸田といい、また峰の名ともなった

 〇田野
  ・広大で肥沃な土地であり、昔、郡内の民がここに多くの水田を開いた
  ・稲を全ては刈り取らずそのままにするほど収穫が余り、思い上がって、餅を弓の的にして遊んでいた
  ・すると餅が白鳥となって南へ飛び去り、その年の間に農民が死に絶え、田を耕す者がなく荒れ果てた
  ・そして今も水田に適さない、こうした由来から田野という

●国埼(くにさき)の郡
 ・景行天皇が周防国より海を渡って来た時、遥かにこの国を望む
 ・その時天皇が「ひょっとして見えているのは国の埼(岬)ではないか」と言ったので、国埼の郡という

 〇伊美(いみ)の郷
  ・景行天皇がこの村にあって、「この国は都から遠い道のりで、地形も険しく、往来も稀だが、ようやく国を見ることが出来た」と言った
  ・それで国見の村といい、訛って伊美となった

-----------------------

 
全体的な印象
・景行天皇
・土蜘蛛
・温泉
・これだけで豊後国風土記のほとんどを占めている
・大和朝廷黎明期に勢力を拡大する際、豊後の特に内陸部は、激しく抵抗した事がうかがわれる
・沿岸部は朝廷に従順だった模様
・女性の首長も目立つ
・土蜘蛛の中には、朝廷に友好的な存在も見受けられる
・温泉描写が多いのはいかにもこの地域の独自性
・他の風土記の温泉と違い、火山性の激しいものが多い事も特徴
・話の筋が違うが白鳥⇔餅変化の話が二つ
・その白鳥の話や、蛇龗の話、鹿が話すなど、精霊信仰的な話も目立つ
・巨木伝説が二つ
・国見の話が二つ

ヘッダー画像は、日田市五馬市にある農業テーマパーク「木の花ガルテン・五馬媛の里」の看板。このマガジン「風土記メモ」のヘッダー画像も同じ。

すぐ近くに、五馬媛を祀る玉来神社がある。恐らく全国でただ一つ、「土蜘蛛」を祭神として祀る神社。風土記では「土蜘蛛」と呼ばれても、地元では祖神として慕われている。

五馬市には、他に境内に五馬媛の墳墓がある元宮神社などもある。詳しくは拙サイト邪神大神宮へ。

サポート頂けると、全市町村踏破の旅行資金になります!また、旅先のどこかの神社で、サポート頂いた方に幸多からんことをお祈り致します!