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「明大前」という病

終電間近の明大前駅を、男女5人組の学生が-おそらく明大前生だろう-改札へ猛ダッシュしている姿を目撃し、涙が流れてきた。

あぁ、時間が経ってしまったんだな。

もう僕にはあんな風に、終電めがけて突っ走っていくという、シチュエーションに出会うことはないだろう。

終電間際に猛ダッシュするというオプションが、いつの間にやら無意識のうちになのか、はっきりとは分からないが僕の中から選択肢として消え去っていたのを知って、何か心の大切で柔らかい部分にポッカリと確かな穴が出来たようだった。

年齢を重ねていくとは、無意識のうちに、行動のオプションが消え去っていく過程のことをいっているのかもしれない。

京王線と京王井の頭線が交差する、この若者の活気で溢れた街で、30代も半ばに差し掛かった男が悟った悲しくも儚い気づきのひとつであった。

そんな日もあろう。

そして別日の今日も静かに終わりが近づいている。

2階の松屋の自動改札機で、いつもながらのビビン丼を注文し、店内奥にあるウォーターサーバーのセルフコーナーで水を汲み、店内に座っている人から1つ離れた席に座りながら、そういえばこの情景これで何回見ただろうと、衝撃的なまでの悲しい既視感にクラクラめまいを受けながら、パソコンの入った思いカバンを机の下の棚に置いて、溜め息を吐きながら重い腰を落とした。

僕の口の中は、すでにインスタントに出来上がる少し辛いビビンバの乗っかった白米と、明らかにインスタントと分かる少しわかめの入った味噌汁の仕様に仕上がっているのか。

判を押したような生活というかもしれないが、判を押せば押すほどに、押したところに溝ができてしまうから遂にはその溝から目が離せなくなるのかもしれない。

それが繰り返しの日々の抽象化された表現だというならば、僕にはその溝がピッタリなのかもしれない。

否、大概の勤め人たちはそのように日々の生活を送りながらギリギリの精神状態に追い込まれる時もあろうし、ささやかな喜びに浸る時もあろう。

それがこの社会で「生きる」ということの縮図であるならば、ニーチェが悲しくも悟ったであろう永劫回帰の具体的な意味合いを、今の僕も悟ったのかもしれない。

生きている中での「主観」が先行する若い時分はなんてラクな日々だったのだろうか。

「主観」の中にとめどもなく、夥しく「客観」が入り混じってくるようなティーンネイジャーを遥かに超えた時分の社会人になった今、その客観的目線が主観に与える苦痛の感情との折り合いがつくかどうかが、明日を生きる一つのポイントであろう。

我々はそうやって自尊心を何とか保ちながら、今ここを可能な限り生きている。

生きている。

内部に蠢く鬱憤とは、それがその人間の個性により芸術性を帯びて表に現れたのだとしたら、それが表現者としての作品になるのであろう。

つまり、価値としては無価値どころかマイナスになり得る感情は、どう表現されるかというのが肝なのだ。

それが人を具体的に傷つけ、時には命をも脅かす。

はたまた、表現された対象を見て、多くの感動を生む場合も当然ある。

我々の内部の鬱憤を美的昇華し得るものに生まれ変わらせることができれば、そして全てのその感情をそのように生まれ変わらせることが出来るのであれば、内部に生まれた鬱憤も本望であろう。

京王線と井の頭線の交錯する主観的な街で、客観的に考えついて抽象化された思考の中に、注文の品であるビビン丼が出来上がったという店内アナウンスが交錯した夜であった。

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