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400年前に生きた人の存在が力になる

御朱走(ごしゅらん)の鈴木です。オリンピックが始まって連日の熱戦を目の当たりにしては全身全霊でプレイしている選手の皆さんの美しい姿に感化され夜、寝つけずにいます。

美しい選手たちにパワーをもらう毎日ですが、私が美しいと思う人の一人に400年前に生きた先祖の長南和泉守(いずみのかみ)さんがいます。

400年前に生きた人からパワーをもらっているなどと言ってしまうと変わった人と思われそうですが、このお方の存在を知ることで自分のあり方が変わりました。

和泉守さんのことは、これまでHPに沢山書いてきたのですが、HPの引っ越しの際、バックアップをしておらず、記事をすべて消してしまいました。なので再びコツコツと書きたいと思います。

松島や塩竃の浦戸をガイドする際に郷土資料として使っているものが長南氏の研究と松島町誌です。この記事はこの資料を参照し書いています。

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私の遠い先祖である長南和泉守さんは千葉県の長南町出身で大坂夏の陣で敗戦し、千葉から(正確に言うと茨城の青宿から)潮にのって浦戸にやってきました。

長南一族は平安末期から500年続いた武士一族でしたが、さまざまな事情で浦戸で刀を置き、農民になりました。その後、和泉守さんと和泉守さんの部下たちは寒風沢港を築港し、伊達藩の貢米を江戸に運ぶ廻船問屋「寒風澤長南屋」を立ち上げ、一族は栄えました。

その頃の松島は製塩が盛んで、製塩の燃料に使う松が伐採され景色が貧しかったそうです。そこで瑞巌寺の99世の雲居禅師が植林を提唱しました。

それに協力したのが和泉守さんでした。もともと水軍だった和泉守さん。船の操縦は長けており、遠州(静岡)から黒松と赤松を取り寄せ、松島の島々に松を植えたのです。

雲居禅師は和泉守さんの協力に対し賞状を与えてくださったものがこちらです。(長南氏の研究より)

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現代語に訳した文☟

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松には赤松と黒松があるがもともとこの地方には赤松しかなかった。

そこへ寒風沢島の長南栽松和泉守が黒松の種子を持ってきて育てて海岸に植え、今でも島々に黒松が茂っている。

こうして寒風沢島は黒松の始まりとなった。私はこれを喜び、和泉守が法名を希望したので、栽松道本とつけ次の詩を送った。

種や苗を持ち来たり赤松や黒松を海岸に植えた。

昔、中国で臨済禅師が松を植えたことに似て

後の世の人は松島の風景を褒め称えるだろう

1640年2月1日

瑞巌寺住職雲居希膺

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400年前、和泉守さんが植えたであろう松を走りながら眺める自分。雲居禅師が書かれたように松島は風光明媚な景勝地として松はシンボリックな存在になっています。その松を見るたびに和泉守さんを思うのです。

自決することだってよぎったであろうに、続けたかったであろう侍業を辞め、次世代にバトン(刀)を渡せなかった自責の念はどれくらいのものだったのだろうか。一緒に千葉からやってきた部下たちは和泉守さんの決断をどう思ったのだろうか。。。

ここで生きようと決め地域の復興に力を尽くした一族。落ち武者ですのでけっしてきれいごとでは済まなかったと思います。画像は一族の千石船「神明丸」です。寒風沢神明社から名前をとったんでしょうかね。これはあくまでも想像です。

500年間、生きて生きて生き延びたからこそ今、自分がいると思った時、先祖に対する感謝と命の重みを感じました。そんな思いを胸に松島の松を眺めながら松島のガイドをしています。

いつか松島に歩きに来てくださいね。お待ちしてます!

ゴシュランこと鈴木由美子

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追伸・オリンピック4連休、プライベートツアーで松島を訪れた北海道のお客様はお二人とも20代。宮城で仕事をしていたご縁で松島をゆっくり見たかったそうです。御朱走を見つけてくださってありがとうございました。オーダーツアーはこちらです。

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