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小説「升田のごとく」・第1話


プロローグ

「おんどれは、日本をどうするつもりじゃ」
 GHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥に向かい、傲然と言い放った男がいた。
 升田幸三。将棋の鬼と呼ばれた、希代の勝負師である。
 昭和22年の夏、東京日比谷に陣取った連合軍総司令部は、敗戦国の伝統娯楽である将棋にクレームをつけた。
 チェスと違って日本の将棋は、取った相手の駒を自分の兵隊として使用する。これは、捕虜の虐待であり、人道に反するものだ。日本軍の行った捕虜虐殺を肯定する思想ではないか。事情聴取を行わねばならない。それが、戦勝国アメリカ側の言い分だった。
 突然の通達に、将棋界の幹部たちは大いにうろたえた。
 だが一人、29歳の升田八段だけは違った。身の丈、6尺。頬骨の尖った野武士のようないかつい顔に、まるでこの事態を楽しんでいるかのような不敵な笑みを浮かべ、彼は言った。
「ワシが行ってきますわ」
 南太平洋のポナペ島守備隊委員として、雨あられと降り注ぐ爆弾から身をかわし、ヘビやトカゲを食いながら終戦まで任務を全うした升田上等兵。焼け野原と化した故国の土を踏んだのは、1年と半年前だった。
 進駐軍本部の一室。パイプをくわえ、サングラスの奥から升田を見つめるマッカーサー元帥。その隣に座るホイットニー准将と、通訳をはさんでの質疑応答が始まった。
 升田は語気強く、答えた。
「冗談を言われては困る。チェスで、取った駒を使わないことこそ、捕虜の虐殺ではないか。日本の将棋は、相手の駒を殺したりしない。常にすべての駒を生かしている。これは、個人の能力を重んじ、それぞれに働き場所を与えようという、まことに正しい思想である」
 升田の熱弁に、拍車がかかる。
「アメリカ人は何だかんだと民主主義を振りかざすが、チェスなんて、王様が危なくなると、女であるクイーンを盾にしても逃げようとするではないか。あれはいったい、どういうことだ。あんなものが民主主義か」
 そしてついに、冒頭のせりふが飛びだした。速射砲のような広島弁だ。
「おんどれは日本をどうするつもりじゃ! 生かすんか殺すんか、はっきりせえ! 生かすんなら日本将棋になろうて人材を登用せい! 殺すちゅうんなら、ワシは最後の一人になっても抵抗しちゃるけんのう!」
 升田の発言を、そのつど通訳が英語にして伝えた。しかし、さすがにこの広島弁だけは意味が分からず、英訳することができなかった。
 戦争に負けたばかりの、当時の日本人は、意気消沈し、寡黙になっていた。
 そこへ、この男の登場だ。進駐軍のトップたちは、意表を突かれ、呆れ果てた。そして事情聴取は、こんな言葉で締めくくられた。
「貴君は、日本人にしては、実によくしゃべる。本日は、ご苦労様」
 帰り際、升田に数本のウイスキーボトルが差し出されたが、
「いらん」
 彼は言下に断った。
 
 このような豪胆さだけが、升田幸三なのではない。
 不世出の天才棋士。それこそが、この男を表現できる唯一の言葉かもしれない。
 大正7年、広島県の山深い農村に生まれた升田は、13の冬、家出をした。小学4年生で将棋を覚え、あっという間に近在に敵なしの棋力を身につけた奇跡の才能は、当然のように職業棋士に憧れを抱いた。
 ところが、親の猛反対。今日の時代であれば確固たる社会的地位を持ち、億を超える年収のスタープレーヤーを擁する将棋界だが、当時はバクチ打ちの集団くらいにしか思われていなかったのだから、親が許す方がおかしい。  しかし、天才少年には、それがまた許せなかった。結局、深夜に生家を捨て、ワラジを穿いて将棋指しへの道を歩き始めるという暴挙に出てしまったのだ。
 朝。愛息の出奔に気づき悲嘆の涙にくれた母親は、ふと、タンスの上に裏返しに置かれた物差しを見つけた。それは、自分が毎日使っている3尺の竹の物差しだった。そこには、たどたどしい文字で、息子の書き置きが残されていた。
「この幸三、名人に香車を引いて勝ってみせる」
 香車とは、81桝の将棋盤の四隅に配置された駒である。香車を引くというのは、自陣の左隅をがら空きにするハンデを対局相手に与えることを意味する。つまり、話を野球に置き換えれば、ライトを守る選手がいない状態で相手チームと戦わなければならないわけだ。イチローを欠き、外野手が2人だけのシアトルマリナーズが試合に勝つのは、容易なことではないだろう。
 ところが13歳の升田少年は、将棋界の第一人者である名人を相手に、こんな破天荒をやってみせると宣言したのである。
 とんでもない大ぼら吹きか。鼻持ちならない誇大妄想者か。
 いや、そのどちらでもなかった。
 この少年が、有言実行の人間だということが、それから25年後に証明されたのだ。
 昭和31年1月。38歳の升田幸三は、時の名人、大山康晴を相手に香車を引き、ほんとうに勝ってしまったのだ。
 まさに空前にして絶後の男ではないか。
 平成3年4月5日午前6時27分、没。享年、73.
 将棋史に偉大なる足跡を刻んだ天才の伝説は、今もなお語り継がれ、未来永劫、忘れ去られることはないだろう。
 マスダコウゾウ。
 昭和という舞台の上で、燦然と光り輝いた、見事なまでの主役ぶりであった。
 
 昭和の主役がマスダコウゾウなら、この物語の主役もまた、マスダコウゾウである。
 ただし、前者は天才将棋指しの升田幸三。後者は、凡才サラリーマンの増田耕造。同じマスダコウゾウではあるが、それは偶然の一致にすぎず、両者の間には何のつながりもなければ、今のところ接点もない。
 だいいち、この二人は、あまりにも違いすぎるのだ。
 升田幸三は男の中の男であったが、増田耕造は自他ともに認める女々しい性格である。
 升田幸三は名人に香車を引いたツワモノだったが、増田耕造は風邪を引いてばかりいる虚弱体質だ。
 升田幸三は大きな勝負を幾度となく繰り返してきたが、増田耕造は勝負をしなくてはならない場面でいつも逃げてばかりいる。
 升田幸三は良妻賢母の配偶者に恵まれたが、増田耕造は気の強い女房に捨てられた。
 升田幸三は二人の息子たちをこよなく愛したが、増田耕造は一人娘にも見放された。
 升田幸三はタローとジローという名の二匹の牡犬をたいそう可愛がり彼らが息を引き取るまで世話をしたが、増田耕造は自分に無私の愛情を与えてくれる唯一の存在であった牝犬のハナを女房に奪い去られてしまった。
 升田幸三は将棋の世界は言うに及ばず政財界から文壇や芸術そしてスポーツの分野にいたるまで実に多くの人々との間に友情を育んだが、増田耕造は悩み事のひとつも打ち明けられる友を持っていない。
 升田幸三は将棋ファンのみならず広く日本人に知られた存在だったが、増田耕造は無名の49歳だ。
 升田幸三は先輩後輩を問わず他の棋士たちの尊敬の対象だったが、増田耕造は会社の上司にも若手社員にも軽蔑されている。
 升田幸三はこの世に怖いものなど何ひとつない人間だったが、増田耕造は左遷やリストラの恐怖にいつも怯えている。
 升田幸三は晩酌と称して一升瓶をけろりと空にする日々を送る、酒豪だった。そのため胃を壊し、何度か公式戦を欠場したことがある。これは「病気休場」として扱われたが、升田は反発した。ワシは病気ではない。気など病んでおらん。病んでいるのは体だ。だから「病体休場」なのだと。一方、増田耕造には深刻な病気があり、まさに気を病んでいる。それは、ウツ病だ。
 升田幸三は心豊かな人生を全うしたが、増田耕造はウツ病を抱えながら住宅ローンの返済や娘の養育費の送金に追われる人生に喘いでいる。
 升田幸三は、すでに天国の住人になった。
 
 だが、増田耕造は、これからも生きていかねばならないのだ。

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