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みかんの色の野球チーム・連載第41回

第4部 「熱狂の春」 その13

 
 
 4月9日の、日曜日。
 津久見の桜は、例年より遅れて、ようやく満開になっていた。
 八幡様の神社の境内から市民グラウンドの周囲へと続く並木道にも、ピンクの花びらがたくさん舞い落ちている。
 そのグラウンドに、私たち5人組は朝早くから集まり、キャッチボールに興じていた。
 一昨日、甲子園球場で目の当たりにした、吉良投手のピッチングごっこ。
 キャッチャー役のヨッちゃんのミットを目がけて、残りの4人が、魔球ドロップを投げこむことになった。(※注)
 まず、ブッチン。
「甲子園で、51個の三振を奪った、キラーボールを受けてみよっ!」
 そう言いながら、手首を妙な具合に捻って投げ放ったボールだが、真っ直ぐ進んでストンと落ちるどころか、最初から左の方向へ大きく逸れて、立ち上がったヨッちゃんが追いかけるハメになった。
「悪い、悪い。やっぱあ、吉良のようには行かんのう。明日から野球部に入って、猛練習を積まんとのう」
 彼の言葉の通り、今日は春休み最後の日。
 明日から私たちは、中学生になるのだ。
「野球部に入ったら、とうとう俺も丸刈り頭じゃあのう。タイ坊みたいにのう」
 ブッチンは、上機嫌だった。それもそのはず、甲子園で再会を果たした父親が、来週、津久見に帰って来るのだ。
 父親のことについて、ブッチンはもう口を閉ざしたりはせず、嬉しそうな声で私たちに話をしてくれた。
 一昨日、閉会式の行進が終わり、帰りのバスに乗るまでの3時間。父親が突如の出奔と7年間の不在を詫び、津久見に戻って、また家族3人の暮らしを始めたいとの強い思いを明かしたのだと言う。
 駆け落ちした女とは3年前に別れたが、さりとて津久見には帰るに帰れず、大阪市内の盛り場で、酔客たちにチラシを配ったり、キャバレーの呼び込みをやったりして、日銭を稼いで暮らしていたのだとも。
 津久見に戻ることを許してくれたら、職業訓練所に通って、障害を持つ自分にもできる仕事に就きたい。その意思表明を、母親が受け入れたとき、ブッチンはさぞかし喜んだことだろう。
 そのとき、ヨッちゃんが大声を上げた。
「もう、吉良ごっこは、やめ! おまえどーの投げる球は、ドロップじゃ無えで、ボロップじゃあ! ボール拾いで、疲れるばっかりじゃあ!」
 
 市役所の時計の針は、10時半を指していた。
「今ごろ、津高の選手たちは、臼杵の市内をパレードの最中かのう」
 グラウンドの隅の鉄柵にもたれて、ペッタンが言った。
「今朝の7時に、フェリーで別府港に着いて、そこの桟橋で自衛隊の音楽隊の演奏の中を大勢の人たちが出迎える県民歓迎集会に出席して、挨拶。それから別府駅を7台のオープンカーとバスで出発して、大分に着いて、県知事さんやら新聞社やらテレビ局やらに挨拶。それから、大分の市内をパレードして、それから臼杵に向こうて、市内をパレードして、旗を振られながら峠道を走って、津久見に帰って来るんが、昼ごろ。それから津久見の市内をあっちこっちぐるぐるパレードして回って、このグラウンドに到着。午後1時から、この市役所の前で、市民の大歓迎会じゃあ」
 ペッタンの長い説明の通り、市役所の前では昨日から、凱旋して来る郷土のヒーローを迎えるアーチやステージ作りに汗を流す人たちが大わらわ。トントンコンコンとカナヅチの音が引っきりなしに鳴っている。
 1時からのビッグイベントを待ちきれず、早くも集まり始めた市民たちの間には、飲食をふるまう屋台の車の姿も見て取れる。
「おうおう、おはようさん。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
そこへ現れたのは、正真和尚だ。
「皆さん、朝から、精が出るのう。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
 いつもの口調で近づいて来た僧侶に、
「和尚さんも、おはようさん。甲子園まで往復30時間の長旅で、疲れたじゃろう」
 私が声をかけると、
「うんうん、さすがにこの齢じゃあけん疲れたわい。昨日の昼前に帰って来て、それから夕方まで横になって、それから中田町のチヨ婆さんのお通夜じゃあ」
 甲子園への観戦ツアー参加のために、2日延期してもらったというそのお通夜のことを、私は思い出した。そして言った。
「昨夜がお通夜じゃったら、今日はこれからお葬式じゃあ無えん? こげなところにおる場合じゃあ無えじゃろう」
 だが、和尚は、平然と答えた。
「葬式はのう、明日に延期してもろうた。今日は、津高の凱旋を祝う、おめでたい日。こげな日に葬式なんかしたら、バチが当たるわい」
 哀れなチヨ婆さんの亡骸に、私たち5人は、両手を合わせた。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
 
 そうするうちにも、市役所前へ集まってくる人の数はどんどん増え、広いグラウンドの半分以上が、すでに熱心な市民たちで埋まっていた。
 時刻は、11時40分。
 奇妙な響きが訪れたのは、そのときだった。
「あれ? 何の音じゃろう?」
 薄曇りの空を見上げて、ペッタンが言った。
「ほんとうじゃあ。何か、聞こえて来るのう」
 同じく顔を上に向けて、ヨッちゃんが応じた。
「おう、見てみい。何か、影みたいなもんが、こっちに来よる」
 空の一角を凝視しながら、カネゴンが続けると、
「飛行機じゃあ! ありゃあ、飛行機じゃあ!」
 音の正体に気づいたブッチンが、大声を発した。
 北の方向から接近してくる機影と、それが発するブゥーンというプロペラの音は、だんだん大きく、だんだん鮮明になって、見る見るうちに私たちの頭の真上に至った。
「セスナ機じゃあのう! あっ! 何か! まきよる!」
 ありったけの声を私が振り絞ったときには、飛行機はすでに尾翼をこちらに向け、南の方へ飛び去っていったが、それがまき散らしていった無数の紙片は、空高く舞い上がったまま、風の中をひらひらと泳いで、ゆっくりと北の方向へ流れていく。
「追いかけよう!」
 誰からともなく言い出し、駆け出し、グラウンドの外へ飛び出して、私たちは線路沿いの道を全速力で走った。
 ひらひら、ゆらゆら。ひらひら、ゆらゆら。
無数の紙切れは、少しずつ高度を下げながら流れ、5人の少年は追いかける。
 ひらひら、ゆらゆら。ひらひら、ゆらゆら。
 オレンジ色の紙切れは、舞い降りるように流れ、5人の少年は追いすがる。
 ひらひら、ゆらゆら。ひらひら、ゆらゆら。
 もう手の届きそうなところまで降りてきたそれらの1枚を、ジャンプしたヨッちゃんが捕まえた。
 続いて、ブッチンが捕まえた。
 ペッタンも捕まえた。
 カネゴンも捕まえた。
 そして、私も捕まえた。
 はあはあと荒い息をつきながら、手にした紙切れを見ると、そのオレンジ色のチラシの片面には、黒くてぶっといゴシック体の文字で、祝福の言葉が印刷されていた。
「おめでとう、津久見高校! センバツ初出場初優勝!」
 そのメッセージに何度も視線を走らせていた5人は、自分たちがもう宮山のトンネルの入り口のところまで来ていることに、ふと気づいた。
 チラシを追いかけて夢中で走っているうちに、市民グラウンドから数百メートルの距離を移動していたのだ。
 そこからは、線路を越えて、市内の目抜き通りへと続く道路が伸びている。
 その道路の、ずっと向こうを見やると、そこだけ雪が降っていた。
 しばらく眺めていると、それはただの雪ではなく、道路を挟んだ家々の、2階の窓から激しく降り注ぐ、紙吹雪であることが分かった。
 真っ白い祝福の中を、こちらへ進んでくる、群れのようなもの。
 一瞬とぎれた降雪の隙間から、オープンカーの真っ赤な車体が覗いた。
 7台の車列は、線路の踏み切りの前まで至り、先頭車の後部座席に、紫紺の大優勝旗を捧げ持つ山口キャプテンと、優勝杯を抱える吉良投手の笑顔が見える。
 5人の少年は、声をそろえて叫んだ。
「お帰りなさい! みかんの色の野球チーム!」
 
 
 
 
(※注)この遊びが、当時の津久見の子供たちの間で大流行した。筆者も何度もチャレンジしたのだが、うまく投げることができなかった。恐るべき魔球だと、あらためて実感したものである。


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