ホラー小説の第一話 3000字

 眼の前で父が母を解体している。東南アジアや中東の肉屋。それと似た景色が目の前にある。

「学生の頃、柔道やっていて良かったよ。直子も柔道やればよかったのに」
 L字型のキッチンのシンクとコンロに挟まれたスペースに母の内臓や身体の一部が積み上げられている。父の口調はいつもと同じだ。たまの料理を楽しむかのように母親を解体している。
「柔道はね、とっさの時に命を守るんだよ。お父さんな、大学の頃にトラックにはねられたんだ。その時に頭を守って受け身ができてね、かすり傷で済んだんだよな」
「お父さん」
「子どもには好きなことをやらせたいと思っていたけど、やっぱり柔道やってほしかったな。お父さん、もう少しで全日本だったんだよ」
「何をしてるの?」
 余りにも現実離れしているとこの世界は映画か演劇なのではないかと錯覚する。冷蔵庫の上、電子レンジを置いている棚の影、その全てが舞台装置のようにも感じられる。そして違和感しか感じないこの世界は偽物にも感じられる。
「お父さんな、大外刈りが得意技なんだ」
 夕食を食べながら野球を見ている時に出す声のように穏やかだ。そして言葉自体には思いが乗っていない。話しながらも器用に包丁やキッチン鋏を使い母親を切り分けていく。

 帰宅して最初に視界に入ったものは、料理好きな母親が多くの品数を並べるテーブルの上に母親の首が置かれている状態だ。テーブルを汚さない配慮なのか、刺身盛りを飾る大皿のに乗せられていた。焦点の合わない母親の目を見つめていると、その奥のキッチンで音がする。音に呼び寄せられるように目線を上げると父親の背中が見えた。広くはないキッチンで多少窮屈そうに動いている。水で何かを洗っている。何かは足だ。つま先が見えている。切断面を水で洗い流しているのか。父親の腕の動きに合わせて指がピクピクと小さく動いている。
 この場所で、昨日、家族でしゃぶしゃぶを食べた。ダイニングキッチン。普段起きようがないことが起こっている。自分自身が知っている現実から余りにも乖離している現実。この部屋を飛び出して警察を呼ぶべきかもしれないが、脳のイメージを身体が形にしてくれない。
「腹減ってるか?もうちょっと待っててくれ」
「ご飯とかじゃなくて……」
「柔道やってた時な、凄いいっぱい食べたよ。丼飯3杯は食べてたよ。トンカツ食べたいか?トンカツ食べたいよな。やっぱりトンカツが一番だ。豚肉食べてると風邪ひかないらしいしな。トンカツで良いよな?」
 もしかしたらドッキリかもしれない。そう思い込もうとしている。思い込もうとしているのに、鼻の中には血の匂いだけではなく、嗅いだことがない悪臭がする。これが人間の匂いなのか。これが暖かく、安心する匂いを感じていた母なのだろうか。机の首、キッチンに乱雑に並べられる赤。これらをつなぎ合わせると母になるかもしれないが、何一つ明確にイメージができない。

 殺される。

 本能が周回遅れで私に告げる。このままでは父は私を殺すのではないか。やっと溢れ出してきた思いが正常に心の中を塗り替える。父親は洗い終わった足をまな板の上に置き、料理をするのと同じ動きをしている。まずはこの部屋から出る。その後、何をしたら良いのかはわからない。何も頭に浮かんでこない。それでもまずはこの部屋を出なければならない。まずは後ろに一歩下がる。足の動かし方はこれで合っているのか?ゆっくり。かかとを後ろに滑らせれば良い。どっちの足?どっちでも良い。右足を後ろに滑らせ、左足のつま先に力を入れて重心を移動する。身体を反転させれば目の前にはドアがある。ドアノブを右手で掴んで手前に引く。そうするとこの異常な空間に穴が空き、そこからどこにでもいけるようになる。

 私たち一家は普通の家族だ。少なくとも異常性はなかった。父は建設会社に務めるサラリーマンで母は専業主婦。私は大学生。私は引きこもって親に暴力を振るう訳でもなく、真面目に単位を積み重ね、週4回の居酒屋バイトに精を出していた。父と母も長年連れ添ってきているにしては仲が良く、夜中にコンビニにでも行こうとすると仲が良すぎる声が寝室から漏れ聞こえることもある。
 今住んでいる戸建てには私が16歳の時に引っ越した。よくある話だが、念願のマイホームを手にした父は喜び、好きな料理をやるためにキッチンは広くしたと言っていた。2階建てで6LDKの家は3人家族には広く感じたが、将来は祖父母との同居も考えているらしい。
 父は52歳、母は49歳、私は20歳。何一つ不自由なく、ただただ平和に暮らしてきただけだった。気になることと言えば、完成した家に初めて入った時だ。母親が怪訝な顔をしてあちこちの棚を開ける。
「どうしたのお母さん?」
「なんだか……ちょっと気になってね……」
 棚に入れる物を想定して確認をしているのではない。キョロキョロしながら動くその様は何かを探しているように感じた。
「良い家だろ?台所はお父さんがワガママ言っちゃったけど、他の部分はちゃんと母さんや直子の意見を取り入れたからな」
 仕事柄、家の作りなどには詳しい父親が考えた作りだ。光りが差し込みやすく「この場所にこれがあれば良いのに」と感じることがないスムーズな作り。自宅で母親の手伝いをニコニコしながらする父親とは違う、仕事に自信がある顔つきからは久しぶりに父親らしさを感じていた。
「お父さん、ちょっと……」
 台所から声がすると父親は嬉しそうに向かっていった。私は2階に上がり、自分の部屋になる何も置かれていない空間を見に行く。大学を卒業したら家を出ようと考えていたが、その気持ちが薄くなるほどの良い部屋。小高い場所に建てられた家なので、窓を開けると街が一望でき、気持ちの良い風が頬を撫でた。
 引っ越してからも特に何も問題なく、1ヶ月が過ぎるころには何年も住んでいるような感覚になり、快適な家での暮らしが日常に変わった。ただ、たまに母親があちこちの棚を開け、不安げにしているのが気になった。

 そんな毎日が、いきなり無くなった。今は逃げなければならない。父と母に何があったかはわからないが、逃げないと私も殺される。ドアノブに手をかけた。あと少しでこれでこの部屋から出ることができる。しかし、もしかしたら全ては見間違えじゃないのか、もう一度確認したらテーブルの上には何もなく、台所では父が豚肉でも切っているだけではないのか。そんな思いが湧き上がる。
 少し強く息を吸う。変な匂いはしない。もしかしたら自分の鼻が慣れただけなのかもしれない。もう一度、もう一度。もう一度だけ振り返ってみよう。そうしたらいつもの景色が広がっている。今日は土曜だから父親が食事を作る。椅子に座りそれを楽しそうに見ている母が居て、テレビでは相撲を垂れ流している。そんないつもの毎日が存在して、今感じている違和感なんてすぐに洗い流してくれる。水が流れる音がする。父親はまだシンクの前にいるのだろうか。

 勇気を出して振り返ると、血にまみれた母の腕を振りかぶる父親がいた。その顔は、いつも通りの笑顔だった。

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