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物書きの匂い ①

薄暗い書斎には
インクの匂い
紙の上を走るペン先の音
長く細く降り続く雨に
湿った空気が部屋をいっぱいにしていた
庇に弱い雫があたって
一定のリズムで音をたてる
カリカリとペンが紙を削るみたいに聞こえる
先生の命を削って白い紙は埋っていく
私の命も削ってくれたらいいのに
ねぇ、同じ長さがいいの
口にしたらきっと怒るわ
窓の硝子を水滴が線を作って流れる
あれは、私の涙
泣けない私の代わりに流れた涙
先生の背中を見つめる
着流しの襟元がよれている
物書きはこの世界との繋がりが
気薄である
だんだん、透けて実態が消滅してしまっても
何ら不思議に思わないほどに
私は恐くなる
この書斎も先生も雨も
私の妄想の中で
気を抜けば忽ち無に帰す
何の確証も
何の定義も
在りはしない
『現実』と呼ばれる多数の人々が
共有してるかもしれない
それすら何の根っこもないのです
この小さな書斎の幸福など
一粒の泡のようです

「先生、抱いてください」

ペンを置く音と共に
先生はゆっくりと此方をお向きになりました

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