見出し画像

白練 ②

シクラメンだ
冬の凍てつく空気に密やかに咲く白いシクラメン
純潔で静かな気品ある美。
窓の外は、春が華やいで浮かれて居るのに、お屋敷の中は取り残され死滅した冬が満ちて居るのです。その静寂に相応しい人。

陽が落ちカーテンが引かれた応接間。室内灯は電笠に細かな細工のある品のあるものであったが、どこか鼈甲飴を連想させる色合いをしていた。
調度品一つ一つも高級品であろうことが、田舎者の僕でさえ解る。
下卑た成金では無い、本物のお金持ち様である。高価な家具、毛の長い絨毯、清潔感が行き届いたお屋敷。
橙色がかった控えめな照明は、やや薄暗く応接間を覆っていた。
だからだろう、余計にその青白さが繊細に浮かんで見えたのは。
重々しく扉は開かれた。ゆっくりと廊下の世界と交じり合う。
細く儚げな指先が視界に入る、それは車椅子の肘掛けに力なく添えられて居りました。そのまま、腕から順に露になるお姿を、呼吸すら忘れて見ていたのであります。
車椅子に腰を掛けられ、細く小さなお身体は、瞬きすら躊躇うほどお美しかったのです。
通じ合った瞳は涼やかでいて、大きく少女のような可憐さ、まつ毛は影をつくるほどに長く、鼻筋は整ったお顔の中心を緩やかに飾り、口元は幼げに結ばれ薄く小さく桜の花弁のようで御座いました。
髪はさらさらと額を隠し、陽に透けて英国製人形の深い栗色を思わせ、白い小さなお顔に沿っておいでで御座いました。
天使が居られるのです。白いシクラメンの精やもしれません。
美しい!
その言葉がこんなにも薄く浅く乱暴に思えたことは初めてでした。
それほどの、衝撃。
愛おしさの衝突で御座います。
あぁこの方の御側に居られるのならば、何も要らない。
僕は、さぞ間抜けな顔をしていたことでしょう。
雪仁様とは対照的に、掘りたての泥大根宜しく黒く焼けた肌に日々農作業で鍛えられた筋肉、美しさとは遠い山村の小僧で御座いました。
この方にどう見られているのか、急に羞恥を覚えたのです。外見など産まれてから一度だって気にしたことなど無い自分で在ったものを。可笑しな事です。

車椅子の背を田口が丁寧に押しながら、応接間に入っていらっしゃいました。
その間も僕たちは、一瞬たりとも瞳を逸らすことなく見つめ合って居りました。
「雪仁様で在らせられます。」
「これから御移動の際の介助、身の回りのお手伝い、雪仁様の御要望ある事に、専念してもらう。それが君の仕事だ。」
田口の説明は簡素なものでありました。
僕は、暫しの沈黙の後、慌てて頭を垂れました。
「木崎治夫きざきはるおと申します。歳は満十二で、山奥から来た田舎者で御座います。初等科を出たばかりの世間知らずで御座いますので、行き届かぬ事も多いかもしれませんが、何でも御申しつけ下さい。」
「僕も十二に成ります。敷地の外へは一度も出たことがない。世間を知らぬのは僕の方でしょう。見ての通り歩くことも一人ではままならない病人です。」
寂し気に、言葉を切ると同時に長いまつ毛が頬に触れ、蝶の羽の如き瞬きをなさったのです。
田口が喉の奥に何か詰まっているような憐れみを一瞬だけ見せ、黙って応接間を出て行ったので、僕たちは二人きりになったので御座いました。

「君は突然何処かへ行ったりしないと約束してくれるかい?」

縋るように僕に問いかけたあの言葉の意味を、あの日もっと思案すべきであったものを、頼られているという歓喜の前にその表情すらも感じ取ることなく跪き、お膝の上に在った雪仁様の白い手を、自らの両の手で包み、誓いの言葉を申したのです。

雪仁様が、車輪に御手を掛けられたので、急いで後ろへ回りました。蓄音機を指さされたのでそちらへ御案内しました。
この背を押すのは今から自分の仕事なのだと思うと誇らしく震える程でした。
蓄音機の横にはレコウドの棚があり背表紙は外国の文字が並んで居りました。雪仁様は迷うことなく一枚のレコウドを御手にして蓄音機にセットなさいました。
応接間に聴いたことのない美しいピアノのメロデイが響きました。切なく詩のようなピアノの音はこのお屋敷と雪仁様にとても溶け込んでいるように感じました。
「ショパンのノクターン。ショパンはピアニストの詩人と言われた人だったんだ。まるで感情を、僕らの知らない言葉で紡いでいるようだと思わないかい?」
瞳を伏せて、音楽を聴きいる御姿から目が離せなく、折角の説明すらも上の空でありました。
何曲かお気に入りの曲をお聴かせ下さり、僕はその都度楽し気に説明してくださる、お姿に見入って居りました。蒼白かった頬が僅かに上気し薄っすらと紅を乗せた頃には、僕の視界はそのあどけない微笑みに埋め尽くされ、鼓動は流れるメロデイよりも遥か速くテンポを打つのでした。
可笑しなもので、折角の御説明も全く頭に入らずに、後からこっそり一人復習した次第です。
外国の言葉に難儀したものでありました。

館内を探検しようとお誘い下さったので、二階建ての大きなお城のような中を二人で回ったのです。日が暮れて居りましたので、お庭は明日にと仰り、残念そうにカーテンの外を覗いて居られました。
階段にはスロオプという坂が付いていて自由に行き来できるよう工夫され、各部屋の扉も大きめに作られていたので、車椅子の移動は苦がなく出来るのでありました。
書庫の本の多さに驚きました。壁を埋める多種多様の書物に心躍りました。
「治夫は、僕の友人だから好きな時好きなだけ読んで下さい。でもあまり夢中になって、僕を放って置いたら寂しくて癇癪を起しますからね。」
そんな御冗談をはにかみながら仰るので、背表紙を目で追っていた僕は不意を突かれるようにドキリと致しました。
御産まれの時よりずっとお身体が御丈夫でなかったので学校へは行かず家庭教師と此処の書物が先生だと仰いました。数え切れぬ程の本を読まれていらっしゃるので学校へ行っている人々よりも、頭の良さは秀でていらしたと思います。けれどそれを倨傲きょごうなさる事無く謙虚であらせられ一層尊敬致しました。

廊下は絨毯が敷かれていたので、車輪は静かに回転しました。足音も吸い込まれるように隠したので、他の使用人の気配もあまり感じませんでした。
お屋敷にはお医者様が常駐なさっておられ、家庭教師は住み込みの人と通いの人と色々でした。
何人かと、廊下ですれ違ってはご挨拶をしましたが全員に御会いしたかは測り兼ねました。それ程に多くの人がお屋敷には務めていらして本来ならばとても賑やかなのではないかと、違和感を覚えたものです。
皆どこか静まりの底に息を潜めて居る様で、騒がしさは微塵も無いのでした。なので旦那様が、恐ろしく厳しい方なのかと思って身構えて居りましたのに、夜遅くに御帰りになった旦那様は、穏やかで知的な御人柄でありました。
雪仁様のことを改めて頼まれ、恐縮いたした程です。使用人たちにも労いを怠らず聡明な御人なのだと感じました。

お夕食は本来は使用人は同席しないはずですが、雪仁様の強い希望でご一緒に席に着くことを許されました。
そこで驚いたのは、雪仁様の食が極度に細い事です。スウプを少し口になされ後はほぼ一口二口を召し上がっただけで御座いました。
「僕の分は残すのが嫌だから減らすように言っているのに、聞いてくれなくてね。毎食心苦しい思いをしているのです。」
ぽつりとそんな言葉を仰いました。僕から見たらもう十分に小量な盛りに見えたのですが。
僕は、初めて食する美味しい料理に恥ずかしげもなく完食をしてしまい。後に成って恥ずかしさがこみ上げた次第です。
「治夫が沢山食るのを見ていると、僕まで元気になるようだ」
声を出してお笑いに成ったので更に羞恥したのですが、嬉しくも在りました。

入浴も今までは別の方が介助されていたようですが、その日より僕の仕事となりました。
脱衣所でブラウスのボタンを一つ一つ外させて頂いてる最中、雪仁様の呼吸がお近くで感じられ何とも言えぬ痺れを味わいました。
肌を滑らせ服を御脱ぎになったお姿は、硝子細工のように華奢で艶やかでありました。
静々と抱き上げさせて頂き浴室へ、ふわりと軽いお身体が痛々しくもやはり天使の羽をお持ちなのではないかと思いました。
「少し、恥ずかしいです。」
俯いて、仰られ恥じらうお姿は何故か動揺を誘い、眩暈を起こしそうで御座いました。
「同性なのですから、お気になさらず。それに僕は使用人ですよ。」
直視することが憚られ、桶の手ぬぐいを絞りながら申しました。
「治夫は使用人ではないよ。僕の友人でしょう?」
そう言われて、伏いていた視線を思わず上げてしまい、瞳が交差した瞬間に感じたことのない衝動と愛おしさとが溢れ全身が粟立ちました。
「はい・・・。」
自分でも分るほどに声は震えその短い返答が精いっぱいで御座いました。
肌理の細かなお肌に手拭いを優しく沿わせてお手伝いをさせて頂きました。終始僕たちは、先ほどまでのお喋りが嘘のように寡黙に成り、目を逸らしては不意に交じり合い慌てて逸らし、生娘のそれでありました。
入浴の後は、寝室へ移動して車椅子からベットへと抱きかかえさせて頂きました。暫くして常駐のお医者様がお見えに成り、雪仁様のお身体の様子を丁寧に診察されました。
その時、足を揉む仕事を今後は承る事になり、指導を受けながら雪仁様の御足を丹念に揉みました。
「治夫は上手だね」
天井を見ながら嬉しそうに仰るので、僕はますます真剣になり、少しでもお力に成りたいと願ったのでありました。
お医者様は、指導を終えると挨拶なさり寝室を出て行かれたので、二人の呼吸が静まった部屋に満ちて居りました。
雪仁様は瞼を閉じ、気持ちよさそうになさっておいででした。僕は喜びを胸の中で膨らませて居りました。
両足が終わってしまい、寝具を整え、枕元に跪き
「他に何か御座いますか?」
「治夫も今日は疲れたでしょう。早く休んで下さい。」
「はい」
名残り惜しさがありましたが、就寝の御挨拶をして、足元を照らすランプを持ち寝室の出口へ向かい照明を落としました。
「治夫」
暗闇の中で呼び止められ、取っ手に掛けた手を放し振り返りました。
月光は、カーテン越しに薄っすらと半身を起こした、雪仁様を浮かび上がらせて幻想的でありました。

「雪仁、治夫、冬から春へ繋がっているんだ。僕たちは繋がっている」

月明かりの寝室に、雪仁様の甘い言葉が溶け込んで行きました。

「はい。僕たちは繋がって居ります。」

嬉しいはずのその言葉が、何故か儚く不安にさせました。
これからの僕たちを予感していたのかも知れません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?