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物書きの匂い ④

何方の子宮内で細胞分裂したのか
どんな血液が流れているのか
そんなこと、意味の無いように思います
しかし、それが何よりも大事だと
信じて止まない方もいらっしゃるのは事実

抗えないジレンマに狂気するのは
まだ少し先の事

大先生がお饅頭をお持ちになっていらした日から
先生のお顔の色はいつもに増して儚げで物憂げで
お辛そうな瞬間を幾度と拝見致しました
不謹慎ながら、青白く痛々しいお姿が
天女のように魅力的だと見惚れたことは
秘密で御座います

紫陽花が色づき青紫に庭を飾った梅雨の晴れ間
庭のお池に住んでいる鯉に餌をやっておりました
パクパクと口を水面から出して
早くおくれと急かす姿は可愛いものです
女中の文ちゃんがくれたパンの耳を契っては投げ
穏やかな昼下がり
やがて手元から餌が無くなると現金なもので
スーっと鯉たちは散って行きました

「お清」
すぐ後で、急に聞こえた先生の声に
私は驚きませんでした
だって鯉たちの居なくなったお池は
鏡みたいに滑るような水面になっていたので
先生のお顔のが映っていらしたから

私と先生の二つのお顔がお池に

「お池の中にも同じ世界があって、あちらからこちらを見てるみたい」
私は振り向かず水面の先生に向かって言った

先生は白い夏物の着流しをお召しになり
濃い茶の角帯をなさっていた
横へそっとしゃがまれて

「お清は面白い事を考える」
微笑された
薄く整った唇を見留めたとき鼓動は速まった
あの雨の日から厭らしくグロテスクな女に成ってしまった
先生はお気付きなんだわ
だから、以前のようにお布団で一緒に眠って下さらないもの
軽蔑なさってらっしゃる
不安の心は水滴になって頬を伝った
なんであんな言葉を言ってしまったのだろう
書斎での台詞が繰り返し蘇る
水面の私が歪んで震える

「鯉はこの小さな池に居て幸せだと思うかい?」
「幸せよ、だって先生に毎日会えるもの」
「大海へ逃げ出したくは無いのかな?」
「あら?鯉は淡水魚だわ。海水では死んでしまう。先生が教えて下すったのよ」

私は勇気を出して振り返った
先生のお顔が間近に在らせられ
驚いたけれど、それ以上に
先生の瞳から同じ滴が零れているのに
息が詰まるほどの衝撃を受けた
涙も拭わず、ひしと先生の腕は私を抱き締めた
二人して下駄が脱げて膝をついた

「優秀な教え子をもって私は幸福者だ」

それが鯉の話だったことに気付くには時差があった

先生は鯉を放して仕舞われるの?
私は海水では生きられない
先生が居なくては生きられない
このお池がいいの

先生は見るからにお痩せになり
より一層青白く透き通って
今にも消えてしまいそうな恐ろしさが
皆を伏し目がちにさせていた
皆、といっても
梅雨が開けぬ前に
三人の姉様方は嫁がれて行かれ
先生は書斎に籠られお日様を忘れてしまったかのように執筆に励まれていた
私はあの日から書斎へは足が遠退き
先生の書籍を四苦八苦しながら読んでいた

そんな折、お弟子さんの一人が訪ねていらした
先生は筆がのっているからとお会いにならず
その代わり書庫の本は自由に持っていっていいと
仰りましたので、私が案内致しました

「お清ちゃんすっかりお姉さんだなぁ」
「もう十四ですから」
本邸の廊下を歩きながらお弟子さんは汗をハンケチで拭われた
確か二十歳を少し過ぎたくらいだったかしら
それにしては、少年らしさがまだ残ってる
澄ました顔をしてそんなことを考える
書庫へ着くと直ぐに本棚を見分なされた

「綺麗な恋人方をみんな嫁がせてしまったんだって?」
話ながらも目当ての本を探している
「先生、まさか死ぬつもりじゃないでしょうね」
ビクリとした
死ぬ?
先生が死…
痩せた白い頬が脳裏に過り
不安にさせた
身体中の血の気が引き
強い目眩が襲った

「お金に困ってる訳でも無いだろうに」
お弟子さんは独り言を呟きながら
書庫をぐるぐると歩き回った
私には遠くの声のように聞こえた

「お清ちゃん?お清ちゃん!大丈夫?」
肩を揺すられたてぼんやりとした意識が引き戻された
気が遠退いて居たようだ
「顔色が尋常じゃないよ…さぁ座って」
促されるまま書庫のソファに腰掛けた
「体調良くないの?」
「いいえ…大丈夫です」
額に置いた指先は氷のように冷え冷えとしていた
向かいのソファに座ったお弟子さんはまだ疑わしそうに私の事を覗き見た
二人の間のローテーブルには数冊の本が重ねられていた

また雨が降ってきた
お弟子さんは窓の方を向いて
「帰りは濡れちゃうなぁ」
と渋い顔をなさった
私も窓硝子の方に目を向けた
強くなった雨が打ち付けていた
私はまたあの日の書斎での先生との時間を思い出していた

「あっそうそうこれ!」
お弟子さんは机の上の一冊を取り私に差し出した
「先生の書庫なら原文があると思ったんだよ。やっぱりあった」
古い和綴じ本の表題には
『源氏物語 原文』

「これ読んだことある?最近、古文に凝っていて」
そう言いながらパラパラと捲った
「この話はさ、ある男が色んな女と付き合う話なんだ。平安時代に書かれたものなんだ」
「読んだことは無いけれど、聞いたことはあるわ」
「最古の恋愛小説かなぁ」
「話が逸れた。この物語に出てくる紫の上という女性が居るんだ。主人公が最も愛した女性だよ。」
「確かプレイボゥイで幾人もの女性と付き合ったのよね。正室が居たのに」
お弟子さんはソファに深く腰掛け直すと
「そういう時代だったんだよ」
「そういう議論がしたいんじゃなくて、君に似てるって言いたいんだ」
「その女性が?」
お弟子さんはソファから軽やかに立ち上がるとテーブルの本を腕に抱えて
「雨が弱まったみたいだから今のうちに帰るよ。現代文に訳したものがそこの書棚にあるから読んでみたら良い」
そう言いながら颯爽と書庫を出て玄関に向かった
玄関までお見送りすると、靴を履きながら
「先生にお礼言っといてください」
「後、これは伝言です。雀は逃がしてあげた方が宜しいかと」
意味ありげに私の顔を見てキザな笑いを浮かべた
「雀…」
外の雨は言ったとおりだいぶ弱まりお弟子さんの足音が遠ざかっていくのが聞こえた

私はそれから
『源氏物語 現代文』を憑かれたように読み続けた
そして私は気付いた。

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