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物書きの匂い ⑤

先生は自分好みの紫の上を育てたかったの?
竹取物語と源氏物語どっち?
雀は逃がして…
お弟子さんの言葉が幾度となく悲しみを予感させて
私は、伝言を言えずに居た

そんな折、大先生がご夫妻で再度いらっしゃった
梅雨は明けて新緑が木漏れ日をつくり
暑さが増してきた初夏の日でした
真っ赤な西瓜をぶら下げて門を潜られた

離れの客間で熟れた西瓜を食べながら
久々の賑やかな空気
私は少しはしゃいで居たかもしれない
西瓜を頬張りながら
梅雨明け宣言が先日出たこと
庭に猫が迷い込んだこと
文ちゃんがお鍋をひっくり返したこと
梅子が最近ダイエットなるものに夢中なこと
他愛ない会話
でも、夫妻の来訪の用件について避けるみたいに
どこか必死さがあったのです
明るいのに、こんなにも明るいのに

痛いくらいに切ないのです

その言葉はなんの前触れもなく大先生の口から発せられました
「滝田君、もう先方も限界でしょう。」
場は一瞬にしてしんと静まり柱時計の音が嫌に耳についた
気付けば蝉も鳴いていた
先生のお顔は悲しみに満ちて歪んだ
私は机を叩いて叫んだ
「私は飛べない雀です。泳げない鯉です。そして月への牛車にも乗れはしない。先生のお側を離れたら死んでしまいます。」
「お清…」
私が机を叩いた拍子に塩の瓶が倒れ白い、白い塩の粒が一面に広がっていた

幼い日の事を思い出していた
「お清、何故果物なのに西瓜に塩を掛けるか知っているかい?」
先生はご自分の一切れにお塩を振りながら仰った
幼い時分、私のには掛けないでと慌ててお皿から手元へと移した
「果物にお塩なんて可笑しいわ」
「そうだね。しかし西瓜には塩を掛けると甘くなるんだよ」
「嘘よ。私をからかっていらっしゃるのね」
「本当さ。食べてごらん」
先生はご自分の一切れを私の口元にお近づけなされた
「甘い…甘いわ先生。お塩の魔法ね」

あれは幾つの時だっただろうか
そうやって一つ一つ先生に育てられたのだ

養子でもなく、恋人でもなく
大切に大切に大切に
このお池の中で

私の婚礼の日取りが決まった

抗えない約束
私を守るために交わされた約束

宮家の血続きの家で一人の赤子が産まれた
本妻には子が出来ず、妾の腹に出来た子供
それが私
本妻は半狂乱になり私を殺そうとした
柏木家は宮家と縁組みを重ねて来た
子を成すのが勤め
私は予備として先生に託された

『もし、本妻に子が出来なかった時はお清は宮家へ上がる事になる』

その後、妾は自害して
本妻は昨年、肺を患い死去した

先生は書斎に私を呼び

「すまない。お清を匿う代わりに多額の支援を受けたんだ」

それだけ言って頭を下げて
文机に向き直り執筆を再開なされた

それだけ?
こんなにも
涙さえ零れなかった

「それが先生のお望みなのですね?」

書斎は静けさに覆われて
無言
それが答え

ペンが紙を滑る音が一定の速度で続いていた

季節は移ろい残暑厳しい中
一度、柏木家に戻り
礼儀作法を身に付けて嫁ぐという段取りは
私を置き去りにしながら
進んで行ったのでした

九、十月の二ヶ月は柏木家で過ごしました
心はそこになく虚しさとは感じることも出来ないことなのだと初めて解ったのでありました
婚礼の日は十一月の初め
柏木家の庭の木々も色づきはじめて秋が迫っておりました
憐れに散り行く木葉を庭先で眺めて居ました
先生の邸宅と同じくお池があり其処へ散った葉は
飾りのように鮮やかで、何気無くお池へ寄りました水面に先生のあの時の泣き顔が移った気がして
抱き締められた腕の強さを思い出し

「先生!」
何も考えず庭下駄さえ脱ぎ捨てて走り出して居りました
裏木戸を抜け闇雲に走り
必死に来た道を思い出そうとしました
冷たくなってきた十月下旬の風は素足に凍みました
どれくらい迷ったか周りはすっかり暮れて居りました
そして、あの懐かしい先生の邸宅の門を見付けたのです
門を叩くと文ちゃんが驚いた顔で現れて
私の袖口を掴むと隠れるように離れへ連れて行きました
「柏木家から人が来てます」
文ちゃんの声は震えていた

もう、遅かったのね
何もかも遅すぎた
私は馬鹿だ
先生の嘘も見破れないなんて
先生は文机に向かって執筆してたのではなく
泣いて居られたというのに

「先生に一目お会いしたいの」
「解っております」

何かを覚悟した形相で頷き
離れの戸口へと誘いました

相変わらず薄暗く電球の光は黄色掛かって居りました

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