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エイサーのことを熱く語る その1

先週末、沖縄市のミュージックタウンで今年最初のエイサーナイトが開催された。沖縄市では10年前からエイサーで町おこしということで6月中旬から毎週末、どこかしらでエイサーのイベントが行われている。
本来エイサーとは旧盆にやる伝統芸能で特定の時期にしか行われないものである。しかしエイサーのイベントをやるとなると多くの人が集まるので小さな集落(中学校の校区くらい)での夏祭りや秋祭りでも行われるし、店舗の新規開店なんかでも踊られるし、さらには賛否あるが沖縄の結婚式の余興でもカリーづけ(景気づけとか華やかにすること)でも行われる。賛否あると書いたのはエイサーが旧盆の時期にこの世に降りてきたご先祖様をあの世にお送りするというどちらかといえば「死」に纏わるものなので、二人の門出を祝うという結婚式にはそぐわないということだろう。盛り上がるので本来の意味とは違った意味で踊られるのは致し方ないだろう。
観光の面からも8月に来られない観光客もいるので、この時期に見られたらいいだろうということもある。またそこからファンになったら沖縄リピーターになってくれることもあるというメリットもある。実際私もそういうお客様を多く作った(笑)


ところでエイサーとはパソコンメーカーではない。わかるよね。沖縄の観光地でも踊られている頭に鉢巻を巻いたニーニーが太鼓を振り回しながら叩いて踊る勇壮な芸能である。古くは1603年に日本本土からやってきた袋中上人という浄土宗のお坊さんが仏教の念仏を人々が覚えやすいように節を付けて唄って廻ったのがきっかけという。当時はこんなに派手な踊りではなく、ただ念仏歌を唄って回っただけだが、そのうちこの役割をニンブチャーと呼ばれる当時の貧困層の人々がやり、鐘や太鼓や人形を使ったりして葬式の後ろを念仏を唱えながらついてまわるようになった。一方で京太郎(チョンダラー)と呼ばれる芸能集団が琉球の各地を公演するときに念仏歌の演目を演じることで琉球の各地に広まっていった、とも言われている。このようにしてエイサー(当時は念仏歌)は琉球の人々に根付いていった。


エイサーという名前は琉球の古い歌謡集である「おもろそうし」にあった「ゑさおもろ」というのから来たという説もあれば、エイサーで踊る際に「エイサーエイサーひやるがエイサー」という掛け声があり、それから来たという説もある。記載としては明治時代の新聞に越来村(現沖縄市)で行われた品評会でエイサーが踊られたという記事がある。その頃からどうやら本来の旧盆行事としてではなく、イベント出演で演じられていたと考えられる。
また海外移民、特にハワイにも明治以降多くの沖縄県人が移民したが、現地には山口県、広島県や新潟県などから相当数移民していたが、日本盆踊り大会のようなものが行われたときに沖縄県人がエイサーを踊ったところ大人気で存在感を示したという話もある。余談だが現在でもハワイでは6月~9月ごろが盆ダンス期間ということで、週末に仏教系寺院などでやぐらの周りを回るスタイルの盆踊りに加え、沖縄県系人が踊るエイサーが人気だそうだ。


私達の知るエイサーは戦後復興のシンボルとして姿形も変わったものだと言われる。沖縄戦で焼け野原になった沖縄が戦後復興しようかというころの1956年にコザ市(現沖縄市)のコザ小学校で第一回エイサーコンクールがきっかけである。このコンクールは入賞団体に賞金も出たりしたので、出演団体は頑張った。また審査基準もあって出演人数とか、隊列が揃っているかとか、踊りの迫力とか、服装が整っているかとか、唄のテンポとか。この頃の写真を見たりするとワイシャツに革靴で頭に長サージ(ターバンみたいなはちまき)を巻いて踊っている写真が見られたりして面白い。このような審査基準もあってより派手により迫力あるようになっていった。
ところで第一回エイサーコンクールの優勝はどこだろうか?園田青年会?平敷屋青年会?実は浜比嘉島の比嘉青年会である。当時は海中道路も橋もなかった時代である。島民の期待を背負って海を渡り、そして獲得した栄冠に喜んだことと思う。


このように魅せるエイサーに変わっていったことで70代以上の高齢者からは今のエイサーはエイサーではないということも言われたりする。ただ私は50年3世代続けば、伝統といってもいいと思う。
ただし、私自身は15年エイサーに取り憑かれて見てきて、今の太鼓をバンバン打ち鳴らすエイサーにどこか心が離れていきつつあることを感じる。いや、もちろん今目の前でエイサーが踊られたら、最前列で食らいつくように見てしまうけど(笑)


そんな私が今、どこがいいかと言われたら嘉手納町千原エイサー保存会を挙げる。今現在嘉手納町千原(旧北谷村千原)は基地に接収されている。今はそこの出身の方々で構成される郷友会がこのエイサーを残している(なので青年会ではなく保存会)。
琉球王国が終わりごろ首里の侍士族達が地方に移り住んだ。これをヤードゥイと言うが、彼らは首里式の年中行事を引き継いで残し、現在嘉手納基地のある越来村、北谷村一帯では旧盆のころにエイサーをやるのが主流になった。ざっくり言うと、エイサーの種類には締め太鼓式とパーランクー式の二種類があるが、この辺りでは締め太鼓式の勇ましい型が受け継がれた。
沖縄戦で村を米軍基地に接収された人々は自分たちの土地の近く、なるべく基地の周りに移り住んだ。北谷村千原地区の人々は嘉手納村(現嘉手納町)に、越来村焼廻地区(ヤキマージ)地区の人々はコザ市(現沖縄市)に。ヤキマージ地区のエイサーは園田青年会として全国的にも人気のエイサーだが、以前のエイサーコンクールでも何度も優勝する実力で、そのために衣装や動きも迫力ある方向に変わった。一方、千原エイサーは旧来の型を残して見た目の派手さはないが、60〜70代の人々まで参加して保存会という形で運営している。そして、踊りがかなりシブい!
沖縄市民なので沖縄市の青年会を応援しているが、千原エイサーのシブカッコよさは動いている阿弥陀如来像を見ているかのようである(ん?意味が通じないか?)。それでいうと園田青年会は金剛力士像か(ますます意味わからん!) 

続く

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