研究者と運動家の間

できることなら、戦争はしたくないし、軍事力に頼らずにすめば、それに越したことはない。沖縄に過重に負担を強いている軍事力は少しでも減らしたい。今すぐに、は無理でも、将来的には基地のない島をめざしたい。そんな、人たちの思いは理解できるし、そのためにどうしたらいいのかを考える研究があってもいい。

だけど、軍事力をこの世の中から、完全になくせ、ということは、運動の論理としてはなり得ても、学問の論理にはならない。法を犯したものに対する制裁が必要なように、国際関係は、中央権威の不在という意味でアナーキーであり、何が正義かを決める権威が存在しないから厄介なのだが、だからといって、制裁を完全になくせば、無法地帯になってしまう。だから、できることなら、軍事力を使った紛争解決はできるだけ回避する方策を考える努力をしながらも、完全に軍事力をなくせ、という主張は、学問の論理からすれば、ある意味で無責任ともいえる。

だからといって、人びとの、平穏な生活を破壊していいことにはならないし、民主主義の国でありながら、沖縄県の民意がでていながら、それを47都道府県全体の中に埋没させて、意見をきかないのは、多数者の横暴だと思うのだ。

本土ではほとんど報道がなされていないが、辺野古のゲート前に座り込んでいる人に向かって米兵が銃を向けたり、高江の貴重な生態系を破壊して訓練しながら、やんばるの自然を守っているのは米軍基地があるからだ、基地がなければ、むやみに開発の手が入る、といった、とんでも発言が、ここ数日、続いている。日本政府の、集団的自衛権の閣議決定以来、前のめりした態度が、米軍の行動に現れているのかもしれない。

だが、個別的であろうと集団的であろうと、国際社会がなんらかの措置を講じたならば、自衛権は国際社会の意思に委ねなければならない。仇討ちは認められていないからだ。そのための、最低限の武力しか保有すべきではない。その原点に立ち返ることが必要なのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?