目の前に現れる「きらいなひと」について
最近、よく話す友人ができて、昔のことを思い出した。
昔とは言っても、1年前くらいのこと。
自己流でのスピリチュアルが行き詰まって、お金を払い出した頃の話だ。
そのころ、わたしにはまだきらいなひとがいた。
今はもうほとんど周囲に現れなくなった。
それはあることをしたことによる。
きらいなひとが現れる意味。
まず、きらいなひとというのは羨ましいひとのことだ。
「そんなことない」と反論したくなる人もいるに違いない。
そんなひとにこそゆっくり、聞いて?読んで?見ていただきたい。
なぜきらいなのか、それはそのひとが自分の我慢していることをしているからだということになる。
(わたしは、これをどうしても認めたくなかった。)
友人がきらいな友人兼同業者というのは、こんなひとらしい。
※ここから、友人をA、友人兼同業者をBとする。
なるほど、と思う。
それは、誰でもきらいだろう。
けれど、その気持ちを一旦横におく。
立ち止まって冷静に状況をみてみると、確実にいえる事実がひとつある。
Bの周囲全員が、友人Aと同じ見解ではないということだ。
Bの一面が見えていないだけなのか、気づいていないのか、あるいはそういう面をBが見せるのは友人Aにだけなのかもしれないし、見せていても他の人は気にならないのかもしれない。
そうでなければ、Bの周囲にはひとがいなくなっているはずだ。
けれど、そうではない。
つまり、この問題はAにだけ見えている。
他の人には気にならないのかもしれない、と書いた。
例えば、性に奔放である女性をきらいなひともいるだろうけれど、気にならないというひともいるということだ。
そこから掘り下げていく。
なぜ、性に奔放な彼女がきらいなのか。
性に奔放なことは悪なのか。なぜ?
それは、自分が同じことを本当はしたいのに、我慢しているからだ。
我慢している理由は、同じことをすれば彼氏に嫌われるからだ。
Bはあちこちで性を楽しんでいるのにも関わらず、彼に愛されたままだ。(彼はその事実を知らないのだけれど。)
他の項目もすべて同じ。
友人Aも本当は同じように振る舞いたいのに、嫌われるのが怖くて我慢している。
かたやBは我慢せず、けれどそれでも周囲にゆるされている。
つまり、友人AはBをうらやましいからきらいなのだ。
友人Aに話すと、「そういえば、そうだね。」とそれは受け入れられた。
(認めたくない気持ちはわたしもあったので、その経験談を添えた。)
彼が大事で、きらわれるのが、怖いの。
でも、会えなくなってさみしくて、心に空洞がある。
そんな友人を抱きしめたい気持ちに駆られる。
けれど、Line越しでそれはかなわなかったから、だいじょうぶだよと声をかけた。
一年前のわたしと同じだと思った。
ここから脱出する方法はある。
けれど、長くなったので、次回に続きます。
▼続き
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