bayfm9の音粋’22,12,12号音粋ヒストリアvol.4「長門芳郎インタビューEp.1,2」

月曜9の音粋「音粋ヒストリアvol.4」‘22,12,12号:長門芳郎インタビュー
秘蔵音源があれば、ハイエースで馳せ参じるDJ落語披露のあの人に良くできるなぁと感心しきりのDJ2人の音楽トーク番組。bayfm9の音粋(#キュウオン)月曜日。2022,12,12「音粋ヒストリアvol.4長門芳郎インタビュー」タイムフリーが終わる前に是非お聞き下さい!DJはスージー鈴木(スー)ミラッキ大村(ミ)

スー)12が並んでおります、12月12日141回でございます。今晩は音楽評論家のスージー鈴木でございます。そして。
ミ)放送作家のミラッキ大村です。
スー)前回アジア特集の感想メールとらちゃんさん《もう一度聞きたくて終了後直ぐに!タイムフリーして聞いています。ラストのテレサ・テンさんやっぱり凄いですね》ありがとうございます。そして今日の特集について、あんこさんから《なんと長門芳郎さんとお聞きして、ぶっ飛びました。杉真理さんに続き(※前々週11/28ゲスト)レジェンドが登場されるとは。間髪入れずの素敵なゲストにこりゃあ惚れちまうがな。スージーさんミラッキさんの切口で、長門さんならではのお話を引き出して頂ければ嬉しいです》と。音粋ヒストリアという、4回目ですね。定番シリーズをやりたいと思います。日本の音楽界のレジェンドにインタビューして様々な記憶を受け継いで行こうという、大変意義深い番組でございます。品格が落ちがちな月曜9の音粋の品格を保っておりますね。これね。
ミ)ハハハハハッ。
スー)小指1本、一応ラジオ番組としての品格を保っておるコーナーでございます。
ミ)はい。
スー)音粋ヒストリアvol.4はスージー鈴木とミラッキ大村が長門芳郎さんにインタビューをして来ました。シュガーベイブやティン・パン・アレイ等のマネージメントを担当し、その後、伝説のレコード屋私は行ってないんですけど「パイドパイパーハウス」の店主として、国内外の日本の音楽シーンを見つめて来た方でございます。私とミラッキさんでインタービューしましたが、盛り上がりましたね。
ミ)盛り上がり過ぎて、予定の倍、喋っておりますね。
スー)2時間越えたらどうしようかな、と。ハッハッハッ。
ミ)ハハハハッ。そうですね、スタジオ確保してる時間もあるし。
スー)なので今日はあまり曲かかりません。先に言っときます。シュガーベイブやティンパンアレイ、はっぴいえんど、動いてるの生で見た事ないっていうね。ティンパンアレイは映像ありますけど、はっぴいえんどもフォークジャンボリーぐらいでちょっとだけですよね。シュガーベイブは見た事ないなあ。知らんけど、の世界ですけど、そういう’60代’70代の音楽業界、とりわけロック、ニューミュージック界隈の事をたっぷりとお話聞きました。これまでのヒストリアよりもかなりボリュームが多くなって居りますけれども、
テーマとしては私やリスナーの皆さん大好きなはっぴいえんど、ナイアガラ、シュガーベイブ、ティンパンアレイ関連の話って言うのは、耳学問で(知っている)。私も喋りながらホントに「知らんけど」を連発するぐらい、見た事もないしね、喋った事も無いし。
ミ)ほとんど文字情報でしか知らない。
スー)そう、文字が文字を生んで若い世代が語り継ぐのはいいんですけど、やはり生で、当時の彼らと接した人の話ってのはいよいよ貴重なんじゃないかと。興味半分でミーハーな質問もしております。あの時にあの人がこう言った、あの人があそこで、なんと!落語をした、とかですね。
ミ)おー、誰だ誰だー。
スー)ハハハハハッ。非常に衝撃的な、今夜!日本のロック史が塗り替えられるのではないかと。(☆ささやきナレーター声で)アナザーストーリーズ!
ミ)フフフフフッ。
スー)じゃあ行きますかね。まずは長門さんがどのような音楽環境で育ったか、時代背景と共にお話を頂きました。

【Eps.1 音楽との出会い】スージー鈴木(スー)ミラッキ大村(ミ)長門芳郎(長)
スー)9の音粋月曜日「音粋ヒストリア」とネーミングしております。私は音楽評論家のスージー鈴木と申します、昭和41年生まれでございます。横にいるのが放送作家の。
ミ)ミラッキ大村です、昭和55年生まれでございます。
長)はい。
スー)今、目の前にいらっしゃいますのが、レジェンド中のレジェンドでございまして、日本の音楽業界の生き証人の1人でもあります、長門芳郎さんでございます。よく来ていただきました、ありがとうございます。
ミ)よろしくお願いいたします。
長)長門芳郎です、よろしくお願いいたします。
スー)私事ですけれども、田中康夫さんと赤レンガ倉庫(※横浜港の文化・商業施設)でやられたイベント「’70代バイブレーション」を見せて頂きました。まさかご本人にインタビューできる日が来るとは思っておりませんでした。
長)7年前の夏でしたね。はい。
スー)はい、田中康夫さんが途中からノリにノってレコードかけまくって、何時に終わるんだろう、って。ハハハ。
長)ハハハそうそう。ホントにねえレコード好きなんでね、田中さん。
スー)後ほど田中康夫さんの話も聞きたいんですけれども。「音粋ヒストリア」は朝妻一郎さん村井邦彦さん若松宗雄さんに続いての第四回になります。番組としては割と邦楽のそれも歴史の話というのが多い番組なので、マニアックなリスナーが多いと思いますんで細々とした事聞かせてもらいます。
長)はいどうぞ。
スー)覚えてない事は覚えてないと言って頂いて結構でございます。まずは今目の前にありますのが、「パイドパイパー・デイズ」リットーミュージックから出された「私的音楽回想録」という本でございます。この本が非常に面白くてですね、当時熟読しましたけれども、それに沿っていろいろ聞きたいです。まずは音楽との出会い、お生まれは長崎。
長)はい、1950年に長崎市内で生まれました。
スー)ポップスとの出会いはどんな感じだったでしょうか。
長)ま、ラジオですよね。当時のローカルなNBCラジオとかNHKとか。あと、一番最初洋楽に触れたのはね、幼稚園。カソリック系の幼稚園だったんですけど、そこの園長先生が外国人でね。同じクラスにも在留子女というか、女の子男の子がいたりして、園長先生の家でXmasパーティがあって、そこでレコードが回ってるのを初めて見たりとかね。それがハリー・べラフォンテだったんですけど。
スー)おーハリー・べラフォンテですか。
長)‘50代ですから、もう世界的に有名な人だったですね。地元のラジオでは、最初はあれですよね、洋楽を日本人の歌手がカーバーしていた、弘田三枝子さんとか。
スー)ああカバーポップス。
長)そうそう、ああいう和製カバーのものを良く聞いてましたね。
スー)お好きだった歌手とか音楽家はどういう?
長)やっぱり弘田三枝子さんとか、あと伊東ゆかりさんとか好きでしたねぇ。
スー)弘田三枝子という人は、今聞いても声量とか凄いですよね。
長)凄いですよ、なんかパンチ力っていうかね。
スー)佐野元春さんもよくラジオで弘田三枝子の音楽をかけたりしてますね。
長)うん。
スー)そして、ビートルズと出逢う。
長)そうですね、ビートルズは’60代のホントに頭の頃、僕はまだ小学生低学年だった頃に、5つ上の兄がいましてね。それこそポール・アンカとかニール・セダカとかジーン・ピットニーとかその辺の7インチのシングル(レコード盤)がいっぱいあったんですよね。それをその、兄がいない時にこっそり…。
スー)フフッよくある。
長)聞いたりして、その内に長崎ですから、当時佐世保からのFEN(※’45~在日米軍向けの極東放送網Far East Nertwork’97からはAFN:American Forces Netoworkに統合された)の存在を教えて貰って、それこそラジオにかじりつきで夜中まで、ずっと聞いてましたね。とにかく、地元のラジオ局じゃかからない、特にアメリカのヒット曲がリアルタイムでかかる訳ですよ。
スー)はい。
長)ナレーションはまだ英語わかんなかったんで意味はわかんないんですけども、とにかくそれを聞くのが日課でしたね。
スー)当時FENで聞いた曲、ミュージシャンで印象に残ってる曲はありますか?
長)ま、ビートルズはしょっちゅうかかってましたよね。あとストーンズとか。
スー)ローリング・ストーンズ。
長)こん時にラヴィン・スプーンフル(The Lovin’Spoonful)のデビュー曲ですよね『Do you Believe in Magic』って言う曲を聞いて、ま、衝撃を受けたというか、カッコ良くてね。うーん。とにかく当時の僕の周辺、例えばクラスの中ではビートルズより歌謡曲全盛でね。
スー)ああ、ま、そうでしょうね。
長)洋楽聞く人はクラスに、クラシック好きな人か、ベンチャーズですね。だからビートルズ好きな人って最初は少数派でしたよね。
スー)モノの本を読むと当時日本の若者全員がビートルズ大好きだったみたいな論調にあうんだけども、そんなにメジャーじゃなかったっていう話ですよね。
長)そうですね、都市部と僕みたいな長崎のローカルな所とは違うかもしれませんけど。メディアが全然違うので、ローカル局1局しかなかったわけで。ラジオでかかるモノが全てみたいな感じですよね。うん。でもビートルズ好きなヤツ、友達と仲良くなったりしてその内ホントにブレイクする訳ですよ。ビートルズが。
スー)はい。
長)で、そうした時にビートルズ一色というかね、そんな感じになっちゃったんですよね。
スー)ビートルズは当時どの辺が魅力でした?
長)魅力ねえ。それまで聞いていたいろんなポップスその辺のカバーとかもありますよね。
スー)ありますよね、初期。
長)そうそうそう。ポップスのヒット曲というとオーケストラが入ったりとかね、女声コーラスがかぶったりとか、そういうのが多かったんですけど。4人だけで勢いでやってるという、そういうのが強かったですね、インパクトって言うかね。
ミ)1分とか2分の曲も多いですよね。
長)そうですね、2分台の曲ね、あれは凄いなあと思いました。で、映画館なんか観に行くとニュースがあるんですね、海外の。
スー)ああーっ。
長)それでビートルズが世界的にブレイクしてるみたいなのが流れるんですよね。うん。
ミ)そこでやっとビートルズが日本のみならず世界的にヒットしてるんだと(実感した)。
長)そうですね。ただあのう、あまりにもみんなビートルズビートルズと急に言い始めた、騒ぎ出した。その中でラヴィン・スプーンフルを初めて聞いて、いわゆるリバプールサウンド、ブリティッシュビートと共通してる部分もちろんあるんだけど、ちょっと違う。なんなんだろうなあ、こののんびりした感じとかね。だって当時のヒット曲って例えば『HELP!』とか『Love Me Do』とか簡単なタイトルじゃないですか。
スー・ミ)はい。
長)ラヴィン・スプーンフルの曲は英語の授業で出て来るような『Do you Believe in Magic』とか『You Didn’t Have to Be So Nice』とか『Did You Ever Have to Make Up Your Mind?』とかが。
スー)フツーの会話だ。フフッ。
長)それが全部タイトルなんですよね。へぇーと思って。まだ日本の音楽誌に紹介される前。アメリカとかイギリスの「ティーンスクリーン」とか「シックスティーンマガジン」。
スー)あ、それは向こうの雑誌なんだ。
長)そうそう、イギリスだと「レイヴ」とかね。長崎の街の本屋に。
スー)ハハッ売ってる?売ってる?
長)売ってる。
スー)へぇー!
長)ただ、田舎ですから、東京のイエナ(※イエナ書店:銀座にあった洋書店’02閉店)みたいな所じゃないので、2部とか(しか置いてない)。だから最初に見つけて買わないとね。
スー)2部は激戦ですよね。
長)ほとんど毎月、僕、買ってたんで。それにラヴィン・スプーンフルが表紙に載ったり、グラビアで紹介されたりするんですよ。凄いなあと思って。うん。その内に日本の音楽雑誌「MUSIC LIFE」とか「ティーンビート」(※’65-‘68)とかその辺にも紹介されるようになるんですよ。
スー)ああ「ティーンビート」っていう雑誌があった、っていう話をよく聞きますね。
長)木崎義二さんが編集長でね。
スー)朝妻一郎さんも言ってたんですけど、当時英語のチャート、向こうのチャート雑誌を読んでたって話。それは英語でかなり読みにくいですよね。
長)ま、チャートはアーティスト名だけなんで、大した事ないんですけど。ま~あ、朝妻さんとか木崎さん亀淵(昭信)さん、あの方達はね、大先輩。当時からレコード会社にいて、いろんなレコード会社の担当者から相談を受けてたっていう。
ミ)何をどう売って行ったらいいかと。
長)そう。で高崎一郎さんって、またまた大先輩。
スー)大ボスが。
長)その方が全世界から集まって来るシングルとか音源を聞いて「これ日本で出せば?」とかね。そういうサジェスチョンをしていたらしんですね。だから当時日本だけで、海外じゃB面扱いだったのが、日本で高崎さんの一言でA面になってそれがヒットしたりとかね。
スー)いい時代だなあ。
ミ)これが日本では受けるんだっていうお話を、朝妻一郎さんもしていたんですよね。
スー)一時間半インタビューして、結論「日本で売れるポップスっていうのは胸キュンなんだ!」って一言仰ってました。
長)確かにそうですよねぇ。
スー)ラヴィン・スプーンフルというバンドはビートルズと違って、日本ではあんまり顧みられないって言いましょうか、ちょっと軽く扱われてる気配もあるんですけど。ラヴィン・スプーンフルに入れ込んだ理由っていうのは。
長)さっき言ったように、当時流行ってたブリティッシュ・ビートとも違うし、ティンパンアレイ系(※ニューヨーク・マンハッタンで生まれたポップス)のポップスとも違う。ビートがあって、しかも歌詞もユニークだしコーラスとかね。それは後に調べたりしてわかったんですけど、いわゆるロックン・ロールとモータウン、R&Bとかそれにフォークミュージック、あとジャグ・バンドミュージックとかブルースとか、いろんなモノがブレンドされてああいうサウンドが出来たという事を知る訳ですよ。で、そういったそのルーツになった音楽を聞いてみたりとかね。
ミ)それが’50代、長門さんの生まれた頃の音楽なんですね。
長)そうですね。あとカントリー。子供はカントリーとか聞きませんけど、僕はジョニー・ティロットソンっていうシンガー大好きになって、彼がハンク・ウィリアムスとかあの辺の曲をカバーをしてるんですよ。と、カントリーって何だろうって言う事で、図書館でカントリーの本があったんですよ。中学校に。
ミ)え!中学校の図書館に⁉
長)そうそう。
スー)イイ話だなあ。
長)そのカントリー&ウエスタンっていうのを、えー!っと思って、そこにハンク・ウイリアムスからハンク・スノウから、いろんなカントリーのシンガーの協会があって。そいういうって友達と全然話は合わなかった、レコード屋さんにも無いんですよね。
スー)無いでしょうねえ。
長)FENでカントリーの番組があったりね。なのでFENには大変お世話になったっていう感じがしますね。
スー)いやあ、図書館と雑誌、本屋が長崎にあって良かったって事ですよね。重要な事実ですね。
ミ)戦前から音楽文化がいろいろあって、いろいろなジャンルがくっついたバンドが戦後に出てくる、っていうのが今の長門さんのお話で感じるモノがありましたね。
スー)糸居五郎のラジオ番組のテープが残っていて聞いたら、彼も何度も昔の音楽を聞きましたと言ってたのに、近いですね。この音源は番組でオンエアしましたけどね。
動くラヴィン・スプーンフルはどこで見ました?
長)当時、長崎では放映されてなかったんですけど、東京とかでは「エド・サリヴァン・ショー」。
スー)「エド・サリヴァン・ショー」、ラヴィン・スプーンフル出ましたか。
長)ええ、出てますね。何度も出てますね。いくつかそういうアメリカのバンドがあって、そういった番組にスプーンフルが出たっていうニュース、海外の雑誌に載ってる訳ですよ。
悔しくてねぇ。
スー)悔しいですねえ。
長)見た事ないですから。ただそれだけに、長崎で見られる洋楽関係の映画っていうのは、全部見ましたね。
ミ)あーそうかー。
長)東京ではテレビで見られるけど、長崎では見られない。当時ビートルズの「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」とか「ヘルプ!」とか長崎のキホの映画館で公開される朝、並んで観ましたよ。
スー)ハッハッハッ。 ミ)はあー。
長)当時の映像を、いつだろうなあ、おそらく’60代末?東京出て来てからですねえ。
スー)やっぱり地方との差が。
長)そうなんですよねえ、やっぱり動くスプーンフル見た時は感動しましたねぇ。
ミ)長門さんがラヴィン・スプーンフルお聞きになっていたのは、中学生から高校生にかけてという事ですか?
長)そうですね。デビューシングルが’65年の7月だったと思うんですね『Do You Believe in Magic』それから立て続けに何曲かヒット曲がでる訳なんです。
スー)『サマー・イン・ザ・シティ』とか。
長)ええそうですね『デイ・ドリーム』とかね、出るんですけど、日本では彼らのレーベル、カーマ・スートラって言うんですけど、それの配給の発売権を持ってるレーベルが無かったんです。
スー)あぁ当時っぽい話だなあ。
長)うん、で、初めて出たのが’66年、一年後ですね。一年後に一気に三枚出たんですよ。うーん、それもすぐ買ってねえ。買うってのも大変でしたね。毎月一枚シングル盤買えるかどうか、っていう時代だったんで、僕はね。で一気に三枚出ちゃったんで、あの頃は一枚、300…70円かな。1000円しちゃう訳ですよ。でもこれは買わないと、と。
♪はっぴいえんど『12月の雨の日』

☆スタジオに戻る
スー)まずは長門さんの音楽の出会いを聞きまして、その流れで今おかけしたのははっぴいえんど『12月の雨の日』のライブでございます。かなり状態のいい演奏でございまして、これは‘70第二回全日本フォークジャンボリーの時のはっぴいえんどの演奏で、はっぴいえんどがかなりバンドっぽかった時代の、非常にイイ感じの演奏かなと思っております。9時台後半とは、この長門さんとはっぴいえんどとの出会いという話がありますんで、そのイントロとしてかけました。いやあ、中々のモンですねええ。
ミ)素晴らしいですね。ビートルズが日本でこれだけ拡まる前の雰囲気を教えて頂きましたね。
スー)今日はこんな感じであんまり曲はかからないので、でも、10時台1曲目クイズはやります!何かと言うと、インタビューの裏でかかる曲当てクイズ。だから耳を澄まして何が正解かって確かめて欲しいんですけど。
ミ)ボーっとしてると通り過ぎちゃいますんでフフッ。
スー)それでもこの企画をやるという事で、(ヒントは)1回しか言いませんよ。今回ひねってますんで、10時台1曲目インタビューの裏でかかる曲のヒントは!(※誰やらのマネで^^;)♪真夏の海はフォエバー。はい。今、サブは喜んでいます。
スー・ミ)ハッハッハッハッ。
スー)これをヒントに考えて下さい。更に重大なお知らせがミラッキさんから。


【宣伝タイム】
☆彡bayfmからXmasプレゼントのお知らせ
1等前後賞合わせて10億円が当たる年末ジャンボ宝くじをドドーンとプレゼント!
12/19からの1週間はcatch the dream WEEK!期間中対象ワイド番組にメッセ―ジをくれた全ての方の中から抽選で年末ジャンボ宝くじ100枚をセットにして、平日2名様にプレゼント。スペシャルな企画満載の番組を楽しんでメールを送って下さい。

△12/19第1回「音粋紅白」スジ組ミラ組で今年2022年の歌合戦。勝敗はリスナーのメールとtweetで決定。勝った組は自分の選んだ大トリの曲をオンエアできる。
△12/26リクエスト特集~特別編~
2022年月曜9の音粋でかかった曲でもう一度聞きたい曲リクエスト

【Eps.2 はっぴいえんどのリアル】
スー)メールでアントニオいのがしらさん《シュガーベイブで荒井由実さんのオマージュソングその名も『ユーミン』という歌があります》あるんですよ。シュガーベイブがライブでやった曲、よくご存知ですね。《シュガーベイブとかユーミンの交流の中で長門さんのエピソード等ありましたら》と。後から出て来ますよ。たっぷりと10時台はそういう話もしますけれど、まずははっぴいえんどですね。長門芳郎さんが日本のロック史に足を踏み出すきっかけって言うのははっぴいえんどでございまして、今からお話が出て来ますけれど、ある経緯があって長門さんが、故郷長崎ではっぴいえんどのライブをやろうじゃないかと。この瞬間歴史が動きますよ。(※ナレーション風に)アナザーストーリーズ。違うかフフッ。プロジェクトX!X!X!伝説のバンドとして語られるはっぴいえんどなんですが、当時どういう評価だったのか。
ミ)実際の所はどうだったのかっていうね。
スー)私のような「知らんけど」の世代が書いたり喋ったりしてますけれども、リアルタイムではっぴいえんどを見てらっしゃった長門さん、更にはライブをしてもらう為にはっぴいえんどを長崎に呼んだ長門芳郎さんだからこそ、語ることができるはっぴいえんどのリアルを聞いてみたいと思います。

☆インタビューへ
スー)動くラヴィン・スプーンフルの話をしたのは、次にお伺いしたいバンドの動く映像を私はあまり見た事がないんですね。はっぴいえんど、なんと長崎でのライブっていうのを実現なさいましたよね。
長)あ、そうですね。1972年8月5日かな。その頃僕、’60代の末に東京出て来て大学生活を送ってたんですね。いわゆる学園闘争真っ盛りの頃で、ちょこちょこっと僕もそっちの方に行ってまして。とにかくね、学校の授業がつまんなくて、授業中にちょっと前の方に行ってね、学生達に、ま同じ年です、クラスメイトに「こんな事やってていいのか」そういう事やったりしてたんですよね。
スー)アジ演説みたいな感じですか。
長)うんそうですね。ほいでもうドロップアウトして地元に戻って。両親が高いお金払ってくれて大学行ってた訳なんで、ホントに申し訳なくって、で、自立っていうかね自分でアパート借りて、道路工事の仕事したりとかね。対馬ってあるんですよ、そこに渡って何ヶ月間か道路作ったり、そういう事してる時に同時に長崎時代からの音楽仲間と一緒にミニコミを作ってたんですね。その仲間が僕の中学校からの親友もいたし。高校時代にバンドをやってたんですよ。
ミ)長門さんの担当は。
長)リードボーカル、タンバリン、マネージャー。
スー・ミ)ハハハハッ。
長)ハハハッ。楽器があんまり弾けなかったんで、そういう形でやってたんです。ラヴィン・スプーンフルの曲もやりたかったんですけど、中々あの感じが出ないんですよ。ストーンズとかねゾンビーズとかそういうのは、割と勢いとかで出来ちゃうんです。でもスプーンフルのあの、ほのぼのとした感じ、あれ、出ないんですよねえ。
スー)あーそうかもしんないなぁ。
長)そのバンド仲間達と一緒にミニコミを作ってて、で、はっぴいえんどが大好きだったんです。日本のグループだとはっぴいえんどとか小坂忠さんとか。はっぴいえんどは長崎でライブをした事が無くて。東京にいる頃は僕、いろんな所日比谷野音とかで生のライブを見てて、日本でははっぴいえんどしかないな、という。それを長崎に呼ぼうという事になって、地元の仲間達と一緒に会場を借りて、長崎市公会堂。今無くなっちゃいましたけど。で、資金がまず無いんですね。だから持ち寄りでね。で、ギャラも。あん時いくらだったかなぁ。
スー・ミ)ハハハ、はっぴいえんどのギャラは当時いくらだった?
長)長崎に単発で呼ぶのは大変じゃないですか。経費もかかるから。それでね、熊本とか福岡とか、前後にいくつか、九州ツアーっていうかそんな中に入れてもらった。なのでね、確かね、7万じゃなかったかな。フフッ。
スー・ミ)ハハハハッ!
スー)4人ではっぴいえんど一式で7万円?
長)ですね、後は交通費宿泊費がかかりますけどね。
ミ)50年前ですよ。
スー)リスナーも喜んでますよ、今の7万円っていう情報に喜んでますよ。
長)確かそうだったと思うんですね。で、会場費とかもあるんですけれど、とにかくそのコンサートの告知をしないといけないという事で、チラシを作ったり、ポスターを作ったり。ポスターもね、あん時はゼロックス・コピーだったと思いますね。それを僕らみんなで市内、佐世保の米軍基地の周りとか商店街とかいろんなトコに貼りまくりましたね。
ミ)ポスターやチラシで「はっぴいえんど」がどれだけの人に伝わる世の中だったんですか?
長)はっぴいえんどね、あんまり周辺にも知ってる人はいないし、当時のNBCとかNHKにラジオで宣伝してもらおうと思って、行くんですけど、レコード室に無いんですよね。
スー)おー無いですかぁ。URCは無いのかなぁ。
長)東京とかは別だと思うんですけど、長崎にはたまたまなくって、それで僕ら当時出たばっかりの「風街ろまん」、その前の「ゆでめん」あの辺のLPを持ち込んでかけて貰って、「東京からこういうバンドが来ます」って。はっぴいえんど単独のコンサートだったら難しかったと思うんですけど、長崎の僕らの仲間内のバンドをいっぱい集めたんですよ。
スー)フェスですね。
長)地元のバンドね。ロックバンドだったり、ホーンセクションが入ったジャズバンドだったりその辺をいくつか集めて、それのゲストという訳じゃないんですけどメインで、はっぴいえんど。それから布谷文夫さん、いとうたかおさん・ペケ。僕、それ以前、一番最初に東京で知り合って仲良くなったのが矢野誠さん、ピアニストでアレンジャーの方なんですけど。矢野誠さん布谷文夫さんのバックでピアノを弾いて、ペケいとうたかおさんは「風都市」ってはっぴいえんどの事務所から「ギャラ要らないから食事代だけでいいから、いとうたかおも一緒に連れて行くから」みたいな感じでした。地元のいろんなアマチュアバンド以外に、はっぴいえんど、いとうたかお、布谷文夫、矢野誠。こういう感じだったんですね。
スー)ご本の「ハイドパイパー・デイズ」一番始めを開いたら、「大震祭vol.3」のポスターがあります。
長)そうですね。今だとこういうタイトルは不謹慎だと言われると思うんですけど、ゲス・フーってカナダのバンド、僕は好きで。『Shakin’ All Over』って曲が好きだったんで。その「Shakin’」震えるで、こういうタイトルにしたんです。地元のいろいろなバンドがいると、ほら、関係者がいるじゃないですか。で、人も呼ぶし結構動員(するかな)。結果フタ開けてみて長崎市公会堂1500人くらい入る所だったかな、半分行かなかったんじゃないかなあ。
ミ)えええー!
スー)まあまあ、当時としてはそいういう感じかもしれませんね。
長)で、大赤字ですよね。結構その後はみんなバイトして補填したり。ただコンサート自体は僕は素晴らしかったと思うし、当時PA・音響が無かったんですね。
スー)良く言いますよね、PAが無かったっていう事。
長)そう、ボーカルのスピーカーが両脇に立ってるみたいな感じだけで。で、はっぴいえんどを呼ぶからにはちゃんとした音響でやりたい、聞かせたいというのがあったんで。いろいろ調べたら福岡にね、音響屋さんがいたんですね。呼んで、PAシステムでやったんですよ。
スー)あのぅ、まぁ言葉では表現できないと思いながら、敢えて聞くんですけど、当日の演奏とかライブはどうでした?
長)いや、これはねぇ、これはもうホントに。リハの最初の音が出た瞬間、もうホント、凄い!と。
スー)曲、なんでした?
長)えー『はないちもんめ』かな。
スー)♪ダラダラダラ~
長)そうそう、(鈴木)茂のギターのイントロとか始まった時、ホントに震えが来ましたね。スー)見たいなぁぁ~。叶わない夢。そうですかぁ。
長)ええ、それでライブ自体は1ステージ、多分40分とかそんな、短いんですよフフフッ。でも、ほら全曲知ってる訳じゃないですか、好きな曲ばっかりですよ。うん。それで多分他の会場ではやらなかったのかもしれないけど、鈴木茂の当時レコード化されてない『ちぎれ雲』の演奏を初めて聞く訳ですよ。それから途中で、細野さんがアコースティックギターに持ち替えて椅子に座って『夏なんです』をやるんです。だからはっぴいえんどのステージなんだけど、アコースティックセットが途中であったりとかね。あと『びんぼう』か。
スー)大瀧詠一ソロのヤツですよね。
長)布谷文夫さんが途中で奇声発したり。
スー)アーイッ!ってヤツですね。
長)それを生で見られる訳です。
スー)ハハハハハッ!
長)それも多分、長崎だけの特別な感じ。
スー)(※小声で)呼んで良かったぁ。
長)それから松本(隆)さんが、当時「風のカルテット」っていう本を出されてて、途中、松本さんがドラムの台から降りて来て、センターマイクで本を「僕の本が出ました」っていう告知もやってもらったりとか。
ミ)はっぴいえんどフルコースですね。
スー)いやあ、いいなあぁ。
長)たまたまって言うか、会場にマイクを立てて録ってたんですよ。僕らの仲間が。そのテープずっと忘れてたんだけど、思い出して、何年前でしたかね、BOXが出たんですね。(※「はっぴいえんどBOX」’04発売メンバー自身が監修した8枚組コンプリートボックス)
そん時に何曲か使わせて欲しいという事で、プロデューサーに預けたら「これ、喋りも含めて全部使わせて下さい」。それがそのBOXの中にそっくり(入ってる)。今、廃盤で聞けませんけど。こん時もご本人達にちゃんと確認してもらって、これならいいよという事でCD化されましたけどね。
スー)はっぴいえんど、俺自腹で7万円払うから、やってくれないかな。もう1回、メンバーで。フフフッ。
ミ)当時の7万円。フフ。長門さんと同世代のはっぴいえんどがこういう音楽をやる衝撃は、大きかったですか?
長)それは大きかったですね。後まあ、はっぴいえんど以前にグループサウンズ時代、4.9.1(フォー・ナイン・エース)・ジョー山中さん、ゴールデンカップス、この2つが大好きで。彼らもプロの歌謡曲の作曲家の方の曲を歌ったりはしてますが、ライブはもう完全にR&B。
スー)フフフッ。ゴールデンカップスの残されてるライブの音源とか凄いですよね。
長)凄い。うーんそう。
ミ)幼稚園から洋楽に浸かっていた長門さんがカッコいいと思った日本のバンドの名前は納得が行くし、よくゴールデンカップスをこのスージー鈴木という男は、ライブ盤で流して。
スー)フフッよくラジオで流してるんです。
ミ)「スタジオ盤とは違うんだよ、スタジオ盤はこうやれって言われてヤケを起こして弾いてるんだけれども、ライブ盤で生き生きしてるんだ」って話をしていて、ホントかよと思って聞いてたんですけど、長門さんの。
スー)リアルタイムの証言が、私は見た事ないんで。
ミ)はっぴいえんどについて1個聞きたい事があるんです。売れてたのか。東京では認知度があったが長崎ではそういう状況だった。また、当時売れているいないの指標はどうだったのかと。
長)そうですね。その後現在まで何十回と再発されてますから累計枚数だと相当行ってると思うんですが、発売当時は数千枚単位だったと思いますよ。一万行ったかはちょっとわからないですね。当時は資料が無い…。
ミ)東京では知ってる人がいてレコード屋さんにもあってという状況ですか?
長)そうですね、発売日に行けば並んでる、っていう感じだったと思いますね。
スー)長崎には放送局にも無いっていう。
長)そうですね。だから地元のレコード屋さんには事前にね、何月に出るから入れてくれよ、ってフフッ。特注っていうかね、そういう感じで手に入れた。東京は知りませんけど。僕の地元長崎では、店頭にディスプレイされるような感じではなかったですよね。

☆スタジオに戻る
スー)貴重なお話なんですけど、現れてる事は、はっぴいえんどがいかに売れてなくって、放送局にも無い。その辺は本とかにも良く書かれてるんですけど、生声で聞くと、ああホントにそういう存在だったんだなあ、と感じますよね。僕は「はっぴいえんど中心史観」っていうのが行き過ぎてるんじゃないかというのを、この番組でもよく喋ってるんです。でもそれはそれこれはこれで、長門さんのような凄く音楽エリートというか時代の先進的な音楽をキャッチするアンテナを持ってた人にとって、やはり、はっぴいえんどは凄かったんだなと。いう事がわかります。
ミ)そうですねぇ。加えてゴールデンカップス。
スー)ハハ!ゴールデンカップスも。私は嘘を言ってません。ただしねえ、見てないんですよ、生でね。ハハハッ。
ミ)で映像で残ってない、だからこうやって証言で聞くしかない。
スー)ですですです。この番組の取り組みとしては、とにかく昔の音楽が好きな、私もミラッキさんもリスナーの方々もそうだと思うんですが、できるだけ耳学問じゃなくって、その時代を生きて来た人の話を聞く事によって、「あーこういう感じね」「そうそうそう」「えーそうなんですか」とかって言うのを公共の電波に乗せて、我々は楽しいし、もしかしたら来てる若い世代がはっぴいえんどのリアルな所っていうのを語り継いでくれるんではないかって言う、願いを込めて、意義深い(取り組みだと思ってる)。別にギャラクシー賞とか狙ってないですよ。ハハッ!ちょっとだけ狙ってる?
ミ)今の70代80代の方が若い時、こうだったんだよ。朝妻一郎さんの「胸キュン」というのを長門さんもそうだねと同意されてましたね。それにしても、はっぴいえんどのギャラ。
スー)7万円ハハッ。
ミ)今調べましたよ。大卒公務員の初任給4万7千2百円。
スー)ああ、じゃ、それなりの金額と言ってもいいんだ。
ミ)ですね。
スー)この7万円を引き出したのが、私とミラッキさんのインタビュー能力ですよねハハ。なんでこんな細かい話聞くんだってね。長崎のギャラ7万円というのが今、歴史に刻まれました。という訳ではっぴいえんどの話はもっと続けたいんですけれども、やはりシュガーベイブ結成に関わってる方なんで、10時台前半はシュガーベイブの話を聞きたいと思います。かなり衝撃的な歴史的な事実も判明しますんで、また、歴史に刻まれる!意義深い番組をとやっております。シュガーベイブ聞きたいんです。一番初め、長門さんの前に現れるシュガーベイブのメンバーは、山下達郎でなく大貫妙子さんなんですよ。かつ当時の雰囲気を再現したいので、シュガーベイブの珍しいライブ音源、2015年アルバム「SONGSシュガーベイブ」のボーナストラックで入ってます。1976年仙台電力ホール。ちょっと音質がアレなんですけど、演奏が素晴らしいので大貫妙子さんが歌ってます『愛は幻』という曲がありますんでライブで聞いてみたいと思います。
♪シュガーベイブ『愛は幻』
スー)Twitter一昨日来ましたさん《はっぴいえんど7万円貰った、大貫さん1億円拾った》上手いッ!ハッハッハッ。
ミ)ハハハ、時代違いませんか。
スー)10億点。メール清水のmasakiさん《今でこそはっぴいえんどは神扱いですが、同時期にはメジャーという訳ではなかったんですね》まさにそうですね。メジャー度というのも重要な話で、確かに音楽的には品質は高いんだけれど売れてなかった。影響力という話からすると、後の時代は私も含めてはっぴいえんど聞いて「おー」という訳ですけど、同時代的にはキャロルの方が全然売れてたって事なんですね。
ミ)インフルエンサーだったって事ですね。
スー)そうです。やってる事の新しさ×広がりっていうと、少なくともキャロル、矢沢永吉の英語混じりの歌い方の功績も大きいという話をするんですが、それはそれとして。私、ビシッ!と言っていいですか。どっちもいい!
ミ)ハハハッ。
スー)ハハッ。あとね、動いてるシュガーベイブを見たかった!映像残ってるはずなんですよ。郡山ワンステップとかねぇ。誰が持ってんだっ!ハハッ。持ってる人は早く吐き出して欲しいですよね。キャロルはたくさん残ってて、YouTubeにも山ほどあるんです。シュガーベイブ見た事無いなあ。という訳でそのシュガーベイブというバンドが長門さんの目の前で結成されて行きますね。その背景で10時台1曲目クイズの曲が流れます。

【⇒Eps.3,4に続く】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?