ツマベニ表紙

ツマベニの日

 あの子から血の臭いがする。
 そう思ったのは多分、僕の勘違いだった。
 何故ならそもそもあの日、あの場所で吐きそうなほど血の臭いを撒き散らしていたのは、彼女ではなく僕自身だったのだから。
 その時の僕は横たわる死体――しかも刺されて死んだ死体の傷口に手をついて、大泣きしながらもどうしたらいいのか解らず、まともに身動きできなかったのだ。
 血まみれの死体の上に手をついて立ち上がろうとするのは難しかった。掌がぬるぬるで、体のバランスが崩れてしまう。動転しているせいもあって、僕はあたふたと体を動かすばかり。付け加えると死体の状態を刻一刻と悪化させていた。
 後で考えてみれば、濡れた巨大な肉の上で無理にバランスを取ろうとせず、後ろに引いて座り込めばよかったのだろうけれど、そんなことを思いつく余裕などない。死体に突き出している右腕を急に摑まれるまで、僕には死体しか見えていなかったのだ。

 やや浅黒い肌で、くっきりとした目鼻立ちの女の子が僕の腕を握っていたその瞬間まで、すぐ側に人がいたことにも気づいていなかった。

「あんた、大丈夫なの?」

 外見から想像できる歳にしては低く、鋭い声で問いかける。僕と違って彼女の声が震えてはいなかったのは、今見ているものへの衝撃を無理に押し殺していたからなのは想像に難くない。
 初めて彼女に出逢った時、好意的に取っても不審そのもので、それこそ彼女の方が恐怖のあまり逃げ出していてもおかしくない状況だった。

「あ……うっ」

 その時の彼女の顔は一生忘れないだろう。
 生理的嫌悪と怒りと涙が滲んだ瞳を見開き、唇を嚙み締めながら僕の側に近づき、傷口の上についていた腕を力強く引き上げる。

「立って。交番に行くよ」

 この場所は、住宅街を抜ける路地裏で、夕方を迎える前のこの時間帯にはほとんど人が通らなかった。泣き声を大人が聞きつけて通報してくれる場所でもなく、持たされている携帯電話で説明しても、ちゃんと解ってもらえる場所でもなかった。
 そして、ここから最寄りの交番まで徒歩十分。
 入り組んだ住宅街を抜けて、畑の合間を抜けていかなければならない。
 大泣きしている時に、そんなことを説明できる余裕は全くなかったし、説明しづらい場所に死体があることを大人に納得させるだけの能力はもっとない。
 多分彼女の方も「何とかしなければならない」と思いつつ手を引くくらいしかできなかったのだろう。互いに状況や意図を説明し合う余裕がなかったのだ。
 だから僕は、彼女に手を引かれるまま歩き出す。
 みっともないくらい涙と鼻水がぐちゃぐちゃで、苦しそうにしていた僕を見て、彼女はポケットからウェットティッシュのケースを出し、ごしごし拭いてくれた。
 視界がはっきりとした時、やっと彼女が僕より十センチ程度長身の、整った容貌の女の子であることに気づく。
 黒い瞳が涼しげで、りりしくて、僕が知っている女子とは全く違う生き物のようだった。

「行くよ」

 よく響く声でそう宣告し、彼女は歩き出す。
 僕は死体につまずかないように彼女の横へと急いだ。

 


 その日は幸運なことに晴れでも雨でもなかった。
 六月下旬なのに少し肌寒いくらいの日で、どんよりとした曇り空の下、彼女に手を引かれて僕達は歩いた。
 もちろん、血がこびりついて引き攣れたように感じる右手の方ではなく、汚れていない左手を摑まれている。
 右手が半乾きの血で気持ち悪い状態のせいか、左手を包んでいる彼女の皮膚の滑らかさが心地よかった。

「本当は血を洗えた方がいいんだろうけど、警察とかに行くならそのままじゃないと駄目なんだって」

 僕もそんな話をテレビで見たことがあった。

「そうだよね」

 血がこびりついた肌がものすごく痒い。どうにかしたかった。
 でも、我慢しなければならない。こんな状況で、手を引いて交番に連れていってくれる子の前で平静を保てず泣きわめくのは嫌だった。

「あのね、お姉さん」
「ほとんど歳は変わらないはず」

 お姉さん呼ばわりが気に入らなかったらしく、彼女は少し不機嫌そうに抗弁してみせる。
 そうだろうか? 彼女の眼は僕より十センチ上で、あからさまに見下されている。だからこそ、大きめの眼が鋭くすら見えたのだ。

「四年生?」
「……十一歳になったばかり」
「一学年上だね」

 彼女のことを見たのは初めてだったけれど、ここは隣の校区と隣接した地域なので、知らない生徒は珍しくなかった。

「でも、お姉さんと言われるほど違ってない」

 確かにクラスの女子も一部の身長が高い男子を除けば男子より大きくなっている。五年生なら尚更だろう。

「ごめんね。だったら何て呼べばいい?」

 そう問うと、彼女は初めて足を止める。手を繋いでいるので僕も一瞬遅れて止まった。

「エマ」
「エマさん?」
鉄川てつかわ江麻えま。あんたは?」
矢巾やはば由斯ゆうし
「ユージ?」
「ユーシ。濁点つかない」
「そっか――由斯」
「……うん」

 女の子に呼び捨てされたのは生まれて初めてだった。
 江麻さんは少し困ったように瞼を伏せてから、何事もなかったように再び歩き出したけれど、その声のせいで名前を呼ばれるまでは生々しく感じられていた、自由な右手が掬(すく)った血や肉の記憶を忘れつつあった。
 左の掌に触れる江麻さんの感触。温度。僕と同じようにあの現場で緊張していたのだろう。彼女の掌も、僕と同じように汗ばんでいる。
 そのせいか、こうして手を引かれて歩くだけなのに、とても悪いことをしている気分だった。



 僕達は、たまに自動車が走り抜けていくのを横目で見る以外には誰かとすれ違うこともなく、交番を目指してのろのろと歩いていた。

 そもそも人と手を繋いで歩くとあまりスピードが出せないのだ。だから間の悪いような、もっと続いてほしいような二人の時間はごくゆっくりと過ぎていく。血の付いた皮膚さえ痒くなければとても穏やかな時間だったと思う。

「ねえ、あの死体のことだけど」

 江麻さんの問いかけに、僕は身を強張らせた。
 どうしよう。
 あんな状況を目撃されたのだ。僕が殺したのだと思われていてもおかしくはない。一度は引いた涙が再び滲んでくるのを感じ、涙を堪えるために何度も瞬きをした。

「僕……殺してない。僕がやったんじゃない」

 囁くような声しか出せなかったけれど、彼女は歩みを止めないまま小さくうなずく。髪がさらりと揺れる音がとても気持ちよかった。

「解ってる。やってない」
「でも」

 僕が江麻さんの立場なら、こんなにも冷静に「殺してない」という言葉を受け容れられたとは思えない。

「何で、信じてくれるの」

 震える声で問うと、江麻さんはしばらくの間考え込んでいた。そして口を開く前にもう一度僕の顔をウェットティッシュで拭いてくれる。その合間も足は止めない。顔を拭く間歩くスピードを落としただけだ。

「信じるとかじゃなくて、やってない。それだけ」

 江麻さんは不機嫌そうに口を尖らせ、言葉を切った。
 だけど、わずかに強められた掌の力が彼女の言わずに済ませた何かを伝えているように思えて、僕は反射的に自分の指を曲げ、爪を立てていた。

「痛っ」

 すぐ引き抜いたけど、僕の爪が江麻さんの掌にきつく食い込んだ。爪の先に伝わる触感が変わったから皮膚を破ってわずかに血が出たはずだ。

「ごめん!」

 江麻さんは痛みを堪えて睨んだけれど、咎めようとはしなかった。代わりにそっと、僕の指を握った。
 安心させるためなのだろう。江麻さんはその後黙って交番まで連れていった。動転している僕の代わりに、江麻さんは口数こそ多くはないもののとても的確に事情を説明し、現場についても地図を指さして教えると、僕より先に帰っていった。
 僕の方は交番で話を聞かれた後、一度パトカーで警察署の方まで連れていかれ、もう少し詳しい話を求められたけれど、そんなに説明できることは多くなかった。
 僕があの場所でつまずいた時にはもうあの人は死んでいたし、僕の右手に付いていた血も死んだ人のものだと確認もできた。ただ、子供が殺人事件の発見者になってしまったので、親に連絡してもらったものの残念ながら母とは連絡がつかず、パトカーでそのまま家まで送ってもらった。本当は、浮気相手とのデートで一泊してくるのを知っていたけれど、言うと面倒なので黙っていた。
 その後あの事件はそれなりにニュースにもなった。
 ただ僕は発見者であることを黙っていたし、江麻さんは違う校区のせいか逢うこともできず、彼女から噂が流れることもなかったから、ほどなく話題は沈静化した。
 でも。
 あの場所で江麻さんと出逢い、血まみれではない方の手を引かれて歩いた時間は、僕の中から消えなかった。
 彼女の掌のぬくもりも、さらさら揺れる黒い髪も鋭くすら感じられる大きな瞳も。
 掌に立ててしまった爪で彼女の肉を破る感触も。
 指を染める血のぬめりが、死体の上に無様についた右手とは全く別の感覚を伴って何度も思い出された。
 まるであの数十分が灼き付いたかのように脳裏で繰り返される。数えきれないほどあの時間を思い続けて正確無比に再生することすらできるようになった。そんなにもはっきりイメージを呼び起こせるようになっても、未だに推察できないことがひとつある。
 江麻さんはどうして「信じるとかじゃなくて、やってない」と言えたのだろう。
 確かに殺したのは僕じゃない。でもそれを知ることは後から来た江麻さんにはできないし、それこそ信じるくらいしかできない。言い回しの問題かも知れないけれど普通、死体を眼の前にしてそこまで思えるだろうか。
 僕が彼女の立場なら絶対無理だ。
 その問いは消えるどころか、彼女のことを思い出すたびに強く、深く刻まれていった。
 答えに辿り着くことができないまま、彼女のことを思い起こすたびに血の臭いが頭をよぎる。

    ◇ ◆ ◇

 あの子から血の臭いがしていた──というのはかなり控えめな表現だ。わたしが最初に見た時、彼、矢巾由斯は血をぶちまけている死体の傷口に手を突っ込んで、号泣していたのだから。
 彼に近づいた時にはもう嗅覚が麻痺しかかっていたほど強烈な臭いだった。
 わたしが彼の手を引いてそこから立ち上がらせたのは、大泣きしている彼を止めるためだった。泣き声が長く響き渡れば、いくらこの場所が人目につきにくいとはいっても、より早く騒ぎになってしまうかも知れない。

(せめてあと五分黙って)

 あと五分あれば、わたしの目的は達成される。
 この場から遠ざかっている最中の伯父さんが逃げ延びることができるのだ。
 泣き声で周囲の気配は消えていたけれど、この周辺は見通しが悪い。今頃伯父さんは目立たない場所に向かって移動している途中だろう。
 伯父さんが逃げきれるだけの時間を稼がねばならないのだ。
 死体についた泣いている子供の腕を摑む。
 人の死体を見たのは初めてではなかった。でも、立ち上がれなくて往生している彼のせいで、死体の傷口からも口からも血が噴き出てしまい、彼の手が突っ込まれている傷口などは見るのもおぞましい状態になっていて、わたしの方が泣きそうだった。

「あんた、大丈夫なの?」

 無愛想にそう問いかける。
 もちろん多少の同情や思いやりはなくもなかった。
 こんな状況で泣き出さないでいられる方がおかしい。わたしだってその立場なら泣くに決まっている。
 でも、今は泣いている場合ではないのだ。
 彼が動転してひどい状態にしている死体は、伯父さんが殺した相手だ。
 特に怨みがある訳ではない。彼の奥さんが浮気をした夫を殺してくれと依頼してきたのだ。ついでにダブル不倫の人妻も一緒に殺してくれたらその分の額を払うと言われたけれど、鉢合わせた時には男一人だった。そして伯父さんが逃げる途中に、路地の向かいから出てきた鈍臭い子供が死体につまずいて大騒ぎ、というのが今の状況だった。

「立って。交番に行くよ」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で泣いていた由斯の手を引いて、わたしは歩き出す。交番まで歩いて十分弱だ。泣いている子供の足ならもっと時間がかかるはず。伯父さんがちゃんと逃げきれるだけの間、彼と手を繋いで歩くつもりでいたのだ。
 伯父さんが『仕事』の時、見張りの手伝いをするのはこれが初めてではなかった。警察に通報されたことも一応あった。だから、時間稼ぎに発見者の、泣いている子供を交番に連れて行くくらい何でもない。
 ママの恋人であるユージ君と名前が似ている、わたしより一歳年下で泣き虫の由斯。彼と手を繋いだまま歩いているうちに、奇妙なことに気がついた。
 彼はこの近所の子供らしいのに、死んでいた男に対して疑問を抱いている様子がないのだ。近所のおじさんなのか赤の他人なのか、それすら関心もないのだ。まして誰があの男を殺したのか、殺人者がまだそのへんにいるのかについては全く思い至ってもいないようだった。
 自分の知り合いが殺されていれば、そのことに脅えるはずだし、知らない相手の場合、自宅の近所に死体が転がっていたら別の意味で怖いのではないだろうか。

「ねえ、あの死体のことだけど」

 何でもない振りをして、わたしは話を切り出した。
 問うた瞬間、由斯の眼から涙がこぼれ落ちる。
 多分、わたしは彼の口から「どこそこのおじさんが」とか「まだ人殺しがいるかも」という言葉が出るのを少しだけ期待していたのだ。でも、彼の口から出た言葉は、わたしの望んでいたものではなかった。

「僕……殺してない。僕がやったんじゃない」

 その言葉を聞いて、自分の違和感に確信を持った。
 普通なら疑問に思うべき部分が完全に思考から抜け落ちているのだ。この子は異様だ。人殺しの手伝いをしている立場で言うのも何だけど、何となく薄気味悪い。一瞬、彼の手を放してそのまま逃げ去ろうかと思ったほどだ。
 それでも。
 彼は殺してはいない。殺したのは伯父さんであって由斯ではない。

「信じるとかじゃなくて、やってない。それだけ」

 それを少しでも伝えたくて告げた言葉を聞いて由斯の体が震えた。その直後、掌に激痛が走る。爪を立てられたのだ。多分、張り詰めていた気が一気にほどけ、体のコントロールができなくなったのだろう。
 掌に付けられた傷がじくじく痛む。血はそれほど出ていないのに、傷口が妙に熱い。
 ものすごく痛かったのに声は出せなかった。
 声を出すと何かよくないことが起こるような、そんな不安があった。
 異様さを指摘したりあの男について問う代わりに彼の指をそっと握ると、交番まで沈黙したまま歩いた。
 交番まで『発見者』である由斯を連れていき、多少の説明を終えて、わたしは帰っていいことになった。交番から出ていこうとする時、由斯はわたしに物問いたげな視線を向けてくる。
 数秒、眼が合った。
 思ったよりも色素の薄い瞳が綺麗だと思った。
 どんな顔をしたらいいのか解らない。
 何を言ったらいいのかも解らない。
 傷の熱のせいで叫び出しそうなのを必死で堪え、そっと瞼を伏せて歩き出すしかできなかった。


 あの日を境に、わたしの世界は変わった。
 帰宅したわたしの態度を見て、ママは夜中に伯父さんと声を殺して喧嘩していた。ユージ君はいつも通り喧嘩する声を聞かせないように早めに寝るように言った。

「エマは俺の跡を継がせる。盗みも薬もやらせないし、大きくなっても絶対に客を取らせるな。あの子は殺し向きだ」
「やめて! 殺しなんかで身を立てさせるくらいなら、立ちんぼした方がずっとましでしょ!?」

 二人が母国の言葉で言い争いしている内容を、ユージ君は聞き取れなかったはずだ。隣室で悲しそうにうつむいていたけれど、何も言わなかった。あの日、わたしがどんなことをしたかも訊かなかったし、ユージ君とよく似た名前の彼の手を引いて歩いた時間については、伯父さんに事情を説明する時以外は何も言わなかった。その後もあの事件がニュースになったこともあって、ママと伯父さんが何度も言い争っているのを目撃した。
 わたしが伯父さんの後を継いで殺しの仕事をするか、ママと同じように男の人とセックスしてお金を稼ぐか、二人の間でだけ──わたしには内緒で議論したみたいだけれど、結果的には伯父さんの意見に流れた。
 ママが押し負けた訳ではなく、ママがユージ君の子を妊娠した時に結婚をユージ君の両親に反対され、まだ生まれていない弟か妹がお腹にいる間に自殺したからだ。
 ユージ君はママが死ぬ前に実家に連れ戻されてアパートからいなくなってしまい、その後の消息は知らない。調べようと思いつきさえしなかった。それからのわたしは伯父さんの殺しの手伝いをして生活することになった。
 ただ、伯父さんは別に映画や漫画みたいな凄腕の殺し屋ではなく、足がつきそうになるたび本国に帰り、ほとぼりが覚めたら戻ってくるような生活だったこともあり、不在中に仕事をこなせない時期には少しずつわたしが肩代わりするような機会も増えてきた。多分、独り立ちできるように育ててくれてもいたのだろう。
 日本に伯父さんがいる間も、彼には彼のプライベートがある。わたしは一人でいつも通りの時間を送ることになった。
 ママもユージ君もいない日常の中、わたしは由斯と手を繋いで歩いたあの日のことを頻繁に思い出していた。何故かあの日の傷が癒えず、由斯のことを思い出すたび傷が痛むので、ほとんど横顔しか見ていなかった彼のことを忘れられないままでいた。
 数えきれないほどあの時の夢を見た。
 手を繋いで歩いた曇りの日。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの男の子の泣き顔。
 互いに汗ばんだ掌に、由斯の爪が刺さった感触。
 交番から立ち去る時に、合った眼をそらすのが何故か苦しかったこと。
 何もかもが鮮明に繰り返される。
 あの日自宅に帰った後もママが自殺した日も、初めて一人で仕事を終えた日も。
 完全に同じ光景が再生され、掌の痛みで目覚める。
 夢を見るのは特別な日だけでなく、何でもない日常にも時折あった。そして掌に刻まれた彼の爪痕は、あれから九年が経った今も消えないままだった。
 


『その日』に特別な兆候は何もなかった。
 隣県の案件で、頼まれた相手が移動する道ですれ違うタイミングを狙って仕事すればいい。特に難しくもない案件だ。相手もわたしの気配に全く気づくこともなく、声をあげるさせることも苦しませることもなく、いつものように事を終えた。
 去年伯父さんが日本で生活するのをやめて本国へ帰る時「もう充分独りでやっていける」と太鼓判を押してもくれ、それなりに技術や感覚もついている自負はあった。
 なのに、そのまま気配を殺して立ち去ろうとした時。

「江麻さん、それ……すくってもいい?」

 真後ろで誰かの声がするまで、その人物がいることに気づかなかったのだ。

(いつ後ろに来たの?)

 それまで誰かが近づく気配は全くなかった。七十センチ程度後ろに、いきなり人の気配が現れたというのが近い体感だろうか。声は若い男のもの。声がした高さから判断する限りでは身長百七十センチ強くらいか。
 でも、それ以上に重要なことがひとつあった。

「江麻さん?」

 呼びかけるこの声に聞き憶えはない。
 でもわたしを『江麻さん』と呼ぶ人間に出逢ったのは生まれてこの方一度しかなかったのだ。
 わたしはゆっくり振り返る。
 そこに立っていた彼には、かつて一緒に歩いたあの少年の面影がはっきり残っていた。当時はわたしよりも十センチほど低かったけれど、今はわたしの方が彼よりも十センチほど低い。

「──由斯」
「ちゃんと名前、憶えててくれたんだ」

 やや色素の薄い、綺麗な眼。
 彼、矢巾由斯は面映そうに笑ってみせる。
 あの日の面影は確かにあった。顔立ちは基本変わっていないのだ。でも泣き虫の気弱げな印象は薄れ、育ちのよさそうな好青年風だ。あの場所はそれなりに高級住宅街だったので、あの町で普通に過ごしていれば、こんな感じに育つだろう。そのこと自体に違和感はなかった。でも何故、彼がここにいるのだろうか。隣県でいきなり出現したのがただの偶然とは思いにくい。
 その疑問に答える前に由斯は屈み込んで、おもむろにわたしが殺したばかりの死体に手を伸ばした。
 ぐちゃりと湿った音がする。臓物を摑んだのか。そう思った瞬間、音が変化した。
 今まで人の体から聞いたことのないような、もっそりした感じの鈍い音に変わっていく。その間由斯は無表情で傷口に手を突っ込んでいたのだ。
 初めて彼と逢った時と同じように、ではなかった。
 傷口がどんどん色褪せ、干からびていく。それを静かに確認しながら掌を当てている。
 あの時には涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった顔には、動転する様子すら見られなかったけれど、当時感じていた薄気味悪さは、打ち消すことができないほど濃密に漂っていた。
 逃げようかとも思ったけれど、それなりに訓練もしたわたしが、仕事の直後に真後ろに立たれても気づきもしない相手だ。逃げおおせるとは思えない。即刻諦めた。
 由斯はわたしに『この現場』を見せている。
 しかもわたしが殺した直後に現れて、だ。
 彼はこの異様な力を行使してでもわたしに勝つことができるし、普通の社会人として「人殺し!」とでも叫べばわたしを破滅させることができるのだ。それを理解した上で、このタイミングに現れたのだろう。結局、わたしは由斯が再び立ち上がるまで黙って待つことにした。
 それほど時間はかからず彼は腰を上げる。その時にはもう死体はすっかり干からび、数分前の面影を辿ることすら困難になっていた。

「早く移動したかったはずなのにごめんね。行こう?」

 かすかに笑って、死体に触れなかった方の手でわたしの手を取った。あの日はわたしが彼の手を取って歩いたけれど、これも前と逆だ。
 かつて彼が刻んだ掌の傷が今、熱い。
 それでもこうして二人で手を繋いで歩く時間は、九年前の続きのようで、何となく奇妙な気分だった。

 訊きたいことは山ほどあった。
 彼はどうして『ここ』に来ることができたのか。ここは隣県の仕事のために来た場所で、わたしが住んでいる地域ではない。仕事の下見に来るまでは馴染みもなかった。
 あの日以降、由斯とは逢わずじまいだった。
 九年前の現場も住んでいた場所からそれほど離れてはいなかったけれど、あの近所に住んでいた訳でもない。足がつくことを危惧して、現場には立ち寄ることすらなかったし、そもそも当時のわたしは学校に行っておらずユージ君に勉強を教えてもらっていたから、学校関係の繋がりも存在しない。
 誰かからわたしの情報を知ったとも思いにくい。

「どうして『ここ』にいるって解ったの」
「偶然が少し」
「残りは?」

 全部が偶然で、こんな目立たない場所に絶妙のタイミングで出現することなどできるはずもない。わたしの視線を受けて、由斯は摑んだ掌を軽く持ち上げてみせた。

「この傷」

 ざわりと寒気が走った。
 わたしがあの日の夢を頻繁に見て、傷の痛みで起きるのを知られているような気分でいたたまれなかった。

「……江麻さんの血で爪を染めたから、あれからずっと繋がっているようなもので」

 うまい形容を考えつかなかったらしく、由斯は少し沈黙していたけれど、ややあって続ける。

「あの日、爪を立てちゃったから、江麻さんは僕のツマベニなんだ。ツマベニが近くにいると解るから、電車に乗ってた時に気配を感じて降りた」

 要するにわたしが電車でこの場所に向かう途中に気配を察知して後をつけたということか。
 ツマベニという言葉に憶えはない。でも、爪を紅に染めるマニキュアのようなものだろうと想像はできた。
 さっき由斯が死体に手を突っ込んで血で汚れたのと同じ意味だろうか。

「さっきのあれ?」

 問いかけると、由斯は首を振った。

「あれはツマベニとは関係ない。かてを掬っただけ。ただの栄養摂取みたいなもの」

 由斯は少し不機嫌そうにそう付け加える。
 それなりに感じのいい外見の青年に育った由斯が、子供だった頃とあまり変わらないように見えて、何となくほっとした。
 彼は決して説明の上手な方ではなかった。でも、話を聞いているうちに何を言いたいのか、おぼろげに摑めてくる。
 どうやら「糧を掬う」というのは、映画や漫画の吸血鬼というより、吸血コウモリが血を吸うようなのを示すらしい。そしてツマベニというのは、それとはまた別のものを指すようだった。

「じゃあ、最初に逢った時にも……栄養摂取中だったんだ。あんなに泣いてたの、嘘だったんだ」
「違う。血を掬ったのもあの時が初めてだったから本当に何が何だか解らなくて、本気で泣いてた」

 確かに演技であそこまで泣くのは難しい。あの日の彼の表情には、あからさまに生理的嫌悪が含まれていた。

「ツマベニって何」

 問いかけると、由斯は困ったように沈黙して少しだけ掌に力を入れた。その気配は泣き止んだ彼と黙って歩いていた時に似ていた。

「爪を染めた相手。父の故郷では、僕達みたいなの自体をそう呼んでいたけど。僕達は爪を染めた相手のことをそう呼んでる」

 どうやらこの「爪を染める」というのも、別の意味があるらしい。そして『僕達』というのは平均的な、掌で「糧を掬う」ことのできない人間のことではないのだ。

「爪を染めるって、具体的にはどんな意味があるの?」

 問いを重ねると、由斯はわたしから視線をそらす。
 少しむっとした表情のまま、静かに言葉を選んで探していたけれど、やがて口を開く。

「ツマベニは一人だけで、相手が死んでも新しく誰かをツマベニにすることはできなくて……父さんも母さんのことをツマベニにはしなかった」

 怒ってはいないらしいのは、声から推測できた。
 彼の言葉は婉曲なものだったけれど、居心地悪そうに告げられた響きから、それなりに意図は伝わってくる。
 彼は、たった一人のツマベニに逢いに来たのだ。
 ツマベニがどんなものなのか具体的に解らなくても、由斯は一度しか逢わなかったわたしの名を憶えていて、傷を追いかけてわたしを見つけた。

「この傷があると、由斯はわたしを見つけられるんだ?」
「近くにいれば」
「由斯の夢を見るたびに爪の傷が痛くて目が覚めるよ。これ、ずっと治らないままなのかな。ツマベニってそういうものなの?」

 激痛というほどではないけれど、痛みで目が覚めるのはあまり嬉しいことではない。

「血を交わせば塞がるけど」

 申し訳なさそうに由斯が瞼を伏せたけれど、それ以上告げようとはしなかった。
 塞ぐとどうなるかを問い詰める気にはならなかった。どのみち九年も治らないままの傷や「糧を掬う」行為を考えれば、傷を塞ぐ行為が平均的な人間らしい未来を呼び寄せるとは思う方が間違いだ。きっとわたしはツマベニも「糧を掬う」ことも「血を交わす」ことも、ろくに理解していないけれど、不幸な目に遭うかどうかはともかく、塞いでもらったら最後、取り返しがつかないことくらいは予想できる。
 でも、それでもよかった。
 今の状況でさえ、ツマベニというのは九年前に一度しか逢っていない相手を辿れるほど強く結びついている。
 これ以上強く、近くなったとしても、手遅れなのは変わりはしない。
 このまま由斯と別れ、いつも通りの生活に戻っても、近くにいれば必ず由斯はわたしを見つけるし、それが仕事中ならついでに「糧を掬う」だろう。今日と同じことが繰り返されるだけだ。
 何となくママとユージ君、生まれなかった弟か妹のことが頭に浮かんで、薄らいだ。大事なはずのずっと一緒にいられたはずの家族だったのに、ママと赤ちゃんは死に、ユージ君は田舎に帰った。家族はばらばら。
 ツマベニがどれほど異様な何かであっても、そんな未来だけは訪れない。わたしと由斯が手を繋いで歩いた時間を消し去ることはできないし、彼が爪を立てた時点でとっくに繋がっている。

「いいよ」

 そう言うと、由斯は繋いでいた左手を離し、右手の指で自分の人差し指の先をすっと引っかいた。まるでカッターナイフを走らせたように指先が切れている。

「舐めて。一滴でいいから」

 由斯はかすかに震える声でそう言った。
 そう言い出すことへの脅えが伝わってきて、むしろわたしは少しだけ落ち着いた。
 差し出された指先を数秒見つめる。
 やがて血の雫が大きくなり、地面に落ちそうになっているのに気付き、そっと咥える。由斯は食い入るような視線でそれを確認し、それまで繋いでいたわたしの右手を取り、広げた。ややあっていつも痛んでいた傷のある箇所が、赤くほころびる。痛みは全くなかった。まるで赤い花が咲くようだと思った。由斯は大きくなっていく花を見ていたけれど、やがてその花を食べるように口を寄せた。
 触れた唇から彼の温度が伝わってくる。
 痛みは消えた。
 傷も消えた。
 そして、わたし達が互いの血から解放される未来も消えた。
 初めて二人で歩いた時間の続きがここにある。それ以外に何も要りはしない。
 由斯の血の味を感じながら、これでいいのだと何となく思えた。

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