『君の居場所の向こうに何か』試し読みページ

電子書籍『君の居場所の向こうに何か』の試し読みを用意しました。
気になってる方、ぜひぜひこちらでチェックしていただけると嬉しいです。

君の居場所の向こうに何か
著者 館山緑
表紙イラスト 佐竹愼
kindle、koboにて電子書籍発売中
定価400円


製品情報
少年少女の痛みと向こう側を描く物語を集めた初短篇集。独特なカラーを持つアンソロジーに寄稿した館山緑の短編五本と、書き下ろし短編『蓄積された君のユメ』を収録。
館山の初の短編集収録作品のうち『エリカワフユのテープ』を掲載しています。

エリカワフユのテープ

 俺が『それ』を発見したのは、退屈な授業をさぼるために音楽準備室に入り込み、隠れて休んでいた時のことだった。
 トランプの箱よりはやや大きくて薄っぺらい、四角い『それ』を音楽再生のために用いたことは一度もない。
 三十年前なら当たり前に存在したものだけれど、実物のカセットテープを手に取って見たのは、その日が初めてだった。
 新品ではない。そもそも新品だったとしてもそこに書かれた年代を見る限りではラベルの紙が色褪せていても全くおかしくなかった。やや黄ばんだラベルに水性ペンか何かで書いたらしい小さくて几帳面そうな文字も、何とか読めなくない程度に退色して薄らいでしまっている。
 

   1987/07/12
   伴奏用 F.Erikawa

 
 三十年以上前の日付だ。多分、合唱か何かの練習用に伴奏を録音したものなのだろう。どうせお定まりの、つまらない合唱曲の伴奏でも入っているに違いない。そんなことを思っていた。しかも音楽準備室には再生機器がなかったので、聞きたければどこかから探してこなければならない。それなのに何が録音されているのか知りたくなったのは、あまりに退屈していたせいなのだろう。
 結局、そのテープの中身が気になる気持ちに勝てず、三時間目が終わるのを待って教室に駆け戻ったあげく早退してしまった。
 もし俺――白村拓が、もう少しだけ冷静でいられるか、ちょっとした親切心を起こして、音楽教諭あたりにこのテープを届けていたら。
 自宅の押し入れの中に昔のカセットデッキがしまわれていたことを思い出さずにいたら。
 1987年のF.Erikawaという人物に心当たりのありそうな人間を探していたら、多分何かが少しだけ変わっていたのだろう。
 この時点の俺には、そんな大昔のカセットテープ一本のために走らねばならない理由なんてどこにもなかったのに、すごく大事な宝物を持っているみたいな気分をどうしても消せなかったのだ。
 今にして思えば『伴奏用 F.Erikawa』と記された真面目そうな筆跡を見た時から、テープの中身を知りたい衝動を感じていたのかもしれない。
 
 普段は自転車で二十分かかる自宅まで、十分弱の速さで辿り着き、帰宅早々、押し入れからカセットデッキを引っ張り出してきた。
 家に誰もいないのを確認して、何故かほっとする。『伴奏』なんて書かれた古いカセットテープを見ても、誰が見咎める訳でもないのに、何だかやましいことをしているような気がして、慌てて自室に運んだあげくイヤホンを着けてからスタートボタンを押した。
(何で俺、こんなに緊張してるんだ)
 これが誰かの『歌』だというのなら、本来なら耳にすることのない声を聴くことに何となく背徳感を抱くのも変ではない。自分が関わるはずのない他人が生活していた時間を覗き見ること自体が、何となく居心地の悪いものだからだ。声が入っていなくても聞かれることを前提としていない何かを聞いてしまう背徳感めいたものがあるのかもしれない。
 知らない人間がどう行動していたのかが切り取られ、音として残されている。相手が誰であれ、勝手に覗けば変な気分になる。俺が『今』感じているのもそんな気分なのだろう。
 実際のところ、カセットテープの外観から想像できるのは、さして上手でもない伴奏付きの合唱の練習光景くらいだ。
 早くつまらないピアノ伴奏が流れ始めればいい。そうすれば、自分が感じている奇妙な焦燥感を笑い飛ばしてやることができるのに。ぐずぐすとそんなことを考えていた俺の耳にピアノの音が届く。
「う……っ!」
 その瞬間、強烈な眩暈と共に吐き気がした。
 演奏の腕が悪いのではなく、全く逆の意味で。
 多分、ものすごく強いアルコールを一気に口に流し込まれたような感じなのかもしれない。せいぜい友達と集まった時に、こっそりビールやチューハイを飲んだことしかなかった俺にとっては想像でしか語れないような、ぶん殴られるような感覚だった。
 これは本当にピアノ曲なのだろうか。
 必死で音色に集中すれば、旋律を奏でているのがピアノだというのは理解できるけど、その曲自体が生き物であるかのような、耳から溶かされ喰われているかのような気分で、音を聴くだけで消化されていくようだった。身動きどころか安定して呼吸することもままならない。まともに瞼すら開けていられないほどの衝撃に少しだけ馴染んできたところで、俺はあることに気が付いた。
 瞼を閉じているのに時々、細切れに何かが視界に灼きついては消えるのだ。
 女の子だ。夏服を着ている、髪の短い女子生徒。
 髪は短いけれど、男っぽくはなかった。そんなに綺麗な子という訳でもない。容姿としては十人並みといったところか。一心不乱にピアノを弾いている彼女の姿と吐き気を催すほどの強い旋律が、脳内でリンクする。
 この子が『これ』を弾いているんだ。
 もっと聴きたい。
 もっと見たい。
 その渇望に突き動かされるように、俺は必死で脳内に浮かぶ少女に向かって手を突き出していた。
「あ……」
 動いた拍子にイヤホンが抜ける。
 その感触と共に音が遠ざかり、死にたくなった。
 慌ててイヤホンを耳に押し込んだけれど、ちょうどそのタイミングで曲が終わるところだった。
 最後まで曲を聴けなかった自分に腹が立ち、反射的に自分の頬を思いきり殴ったあたりで、やっと少しだけ我に返ることができた。
 今の俺は普通じゃない。
 自分の顔を殴ってしまうのに手加減すらできない。
 こんなテープに収められた曲を聴くためだけに、俺は頬骨から痛みが引かないほどの力で自分を殴りつけてもいいと思ったらしい。
 正直、ぞっとした。
 何故、誰が弾いたとも知れないピアノ演奏を聴きたいだけのために、こんなことまでしているのか。そんな風に我に返りはしたものの、飢餓感の方が先に立った。
 それでも俺は、時折一瞬だけよぎるあの女の子の姿と旋律を拒むことはできなかったのだ。
 もう一度彼女の奏でる旋律が聴きたい。
 姿を見たい。
 俺はもう一度横たわり、イヤホンを耳腔に刺す。
 抜けないように頭の位置を丁寧に調整し、今度はオートリバース再生にした。
(まずいだろ、これ)
 体がためらいもなく動き、その曲を、彼女の姿を求めている合間にすら、脳内の片隅では自分自身に対する違和感がわだかまっていた。
 何故俺はこんなにもこの曲を聴きたがっているのだろう?
 そもそも最初から変だったのだ。
 古い機材や音楽に特に興味がある訳でもない人間には自分が生まれる前に録音された、しかも『伴奏用』などと書かれているカセットテープなど、ただのゴミだ。
 なのに、退色して消えかけた文字を見た時から、まるで今こうなるのを予測して、望んでいたかのようにテープを持ってきたのだ。
 今のうちにこのテープを捨てるなり壊すなりした方がいい気がしていた。
 でも、そんなことはとてもできなかった。
 できるはずがなかった。
 
 その後、俺はイヤホンを引っこ抜き、体を起こす。
 もちろん、テープを聴くのをやめるためではない。
 彼女のピアノを聴くために、彼女の姿を見るために、キッチンまで移動して親に置き手紙をしたのだ。
 
   体調が悪かったので早退しました。具合が悪いので
   寝ています。絶対起こさないでください。
 
 そしてトイレも済ませ、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取って戻ってくる。
 彼女の曲を聴き続けるのを邪魔されないために、思いつく限りのことを済ませておいた。ピアノを弾く彼女のことだけ考えていたかったのだ。
 万全の準備を整えて再び横たわり、彼女に逢うために瞼を閉じた。
 
 最初は一瞬だけしか見えなかった姿は、聴き続けているうちに少しずつ長く見えるようになってきた。
 彼女がピアノを弾いている。
 その時の表情がピアノの音色と連動しているのだ。
 陶然と奏でている時には、曲もまたとろけるような感覚を伴った。苦しげに首を振り、泣きそうにすら見える時には俺も同じように苦しかった。
 それが脳裏に現れる彼女に伝わらないことが、とてももどかしい。自分が同じ気持ちを感じているのだと、どうしても伝えたくてたまらない。
 そんな時には、カセットデッキの小窓から『F.Erikawa』の文字を覗き込む。退色した筆跡と短い髪の少女の姿とピアノの旋律が俺の中で強く結びついていた。
 もっと聴きたい。
 触れることができるほど近くで。
 数秒で失ってしまうのではなく、彼女の側で終わることのない演奏を聴き続け、あの曲を聴いた瞬間からずっと、俺が彼女のことだけ考えているのを知ってほしい。
 吐きそうなほど気持ちを訴えたかった。
 
 
 それから俺は、ただひたすら彼女のピアノを聴き続けることに専念した。
 曲が流れる間、ちらつく彼女の姿を見続けていたせいだろうか。時折浮かぶ映像や曲と一体化していて、ひたすらそれに溺れていたせいだろうか。その曲に関する重要な『あること』に何故か気付かないままでいた。
 それに気付かされたのは二日後。
 部屋から出てこないで曲を聴き続けていることに気付いた親が学校に相談し、部屋のブレイカーを落とされて強制的に旋律から遮断された時だった。
 
 扉が開かれ、室内にズカズカ入り込んだ母が突然カーテンを開け放った。
「拓、眼を醒ましなさい!」
 逆上した母がコンセントを引き抜き、カセットを取り出してテープ部分を乱暴に引っ張り出したかと思うと、おもむろに鋏で切り刻む。もちろん音を出さなくなったイヤホンのコードも中途半端に抜けた。母が武器のように持っているキッチン鋏を見て、笑い出しそうになるのを堪えるのが大変だった。
「な……にを」
 起きている間はほとんど身動きもせず曲を聴き続け、意識が尽きれば眠ることを繰り返していたらしい俺の体は即座に反応できる状態ではなかった。
 それは結果的にはいいことだったのだ。もし体調が万全だったら、俺は間違いなくその場で母を殺していたからだ。
 しかし、やや遅れて起き上がろうとした俺を押さえつけた人物が、馴染んだ担任でも生活指導でもカウンセラーでもなく音楽の教科担任なのに気付き、動きを止めた。
 俺は一年生の時しか音楽を選択していない。その四十過ぎくらいの男性教諭に受け持ってもらったのは去年のことなのだ。何故彼がここにいるのか想像もできなかった。
 そして開口一番に出た言葉にも驚かされる。
「白村君、このテープはどこで手に入れた?」
「え?」
 彼はこんな状態で曲を聴き続けていた俺を叱責する言葉や、数日でまともに動けなくなった俺への気遣いを口にするより先に、それを問い質したのだ。
 俺は多分、とても間抜けな顔をしていたのだろう。
 音楽教諭は母と視線を交わし合い、とても言いにくそうに話を切り出した。
「そのテープの持ち主……襟川芙由さんのことをどのくらい知っているんだ?」
 エリカワフユという、どこか可愛らしい響きが、数秒経ってやっと『F.Erikawa』の文字と結びつく。
 俺はただ、ゆるゆると首を振った。実際に彼女の情報は何も知らないに等しかったし、曲を聴いている間に見えていた彼女と、テープの持ち主が同一人物とも限らなかったのだ。
 音楽教諭の言葉から、ピアノを弾いている彼女が襟川芙由本人であるらしいと類推できた程度だ。
 ぼんやりと見上げる俺が何も知らないらしいと判断した教諭は、ひどく疲れたような様子でテープの来歴について話してくれた。
 そのテープは1987年に音楽室で自殺しているのを発見された少女、襟川芙由のもので、発見当時には音楽室にあったのに警察がやってきた時には消えていた代物らしい。
 しかし芙由の死後も、そのテープを見つけただの曲を聴いただのという噂が流れていて、何とかして回収したいと思っていたのだそうだ。
 それを授業をさぼっていた俺が見つけた、ということらしかった。
「これをどこで見つけたんだね?」
「音楽準備室の棚に入ってました」
「そんなところにあったのか……」
 教諭は沈痛な声を漏らし、深々と溜息をついた。
「とりあえず、このテープのことは忘れなさい。欠席については病欠ということにしてもらうから、体調が回復するまでは無理をしないように」
「はい」
 曲を聴き続けていた二日間ほどで、俺の体力は異常なほど削られていた。明日から登校しろと言われてもまず無理だろう。
 母や教諭は、想像したよりはおとなしくしている俺を見て安心したらしい。テープを取り上げて切り刻んだ時と較べ、表情も穏やかになっていた。
「あのテープ……まさかそんな気持ちの悪いものが家にあったなんて」
「テープは念のために学校に持ち帰ります」
「ええ、そうしてください」
 そんなことを語り合っているのを聴きながら、彼らの言葉から興味を失った俺は再び横たわり、瞼を閉じた。
 実際、力も尽きていたのだ。
 そしてまる一日、夢も見ずに眠った。
 そのせいで母はとても安心していたようだった。
 
 でも、テープを刻んで持ち帰るだけでは、何の役にも立ちはしないのだと、母も教諭も気付いていなかった。
 俺をあの曲から隔離しておきたいなら、それこそあのテープをバラバラにしたように俺自身を殺しておくべきだったのだ。
(芙由の曲はもう、俺の頭の中に完全に入ってる)
 外部デバイスに頼らなくても、あの旋律は俺の記憶の中に、完全に再生できるところまで刻み込まれていた。
 起きていても寝ていても、芙由のピアノは止まない。いつまでもいつまでも彼女が演奏する姿を脳裏で追い求め、側にいて実際に聴いているかのように間近に感じることができていた。
 誰にも中断させられることなく、三十年以上前に死んでしまった芙由のピアノを聴き続けながら俺は自宅でゆったりと療養していた。
 万全の体力が戻るのを待ち、彼女のピアノを聴き続けられる幸せを堪能しながら、その旋律に合わせて歌い続けていたのだ。
 
 登校することができる程度に回復した頃、音楽教諭に踏み込まれ、母にテープを壊された時に気付いた些細な事実を思い出した。
 あれはピアノの音だけど、ピアノの曲じゃない。
 人間が演奏できるとは思えない響きは、とても鍵盤を叩いて出しているとは思えなかった。そもそもあれは人間に弾ける曲ですらない。わずかに残った『以前』の感覚がそう訴える。
 それを無心に弾き続けている芙由の幻影を実際の音楽室のピアノに重ねて確認したかった。
 俺はそのために母に怪しまれないように生活し、回復を待ったのだ。
 
 
 そして数日後。
「                」
 体力が万全になった俺は、笑顔で『母』に挨拶して家を出た。返事はなかった。
 あるはずがない。
 彼女の旋律に合わせて歌い始めてから、俺の喉からは止まることのない歌が溢れ続けていた。その歌を聴いた母も父も、数分もしないうちに芙由の曲に似つかわしくない奇声を上げて、自分の体を刻んで死んでしまった。
 だから俺はお構いなしに学校へと向かう。
 その途中にも、多くの人間が死んでいるのを見た。
 生きている奴らもすぐに命尽きていく。
 その無様な断末魔を聴くだけで、世界が少しずつ俺と芙由だけのものになるのだと感じられて本当に嬉しかった。
「    芙由。      」
 俺は歌っていた。
 芙由のピアノに合わせて歌っていた。
 彼女の奏でる旋律がピアノを使ってこそいたものの、ピアノの音とは言いがたい何かだったのと同じように、俺の声帯も人間に再生不可能な旋律を響かせる。
 俺の口から漏れ出るあの曲は止まらない。
 いつまでも止まらない。
 
 三十年以上前に死んだ芙由に俺の思いを、この歌を届けるために、意気揚々と音楽室へと向かう。
 それがこの町の最後だった。

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