そんな表紙

そんな世界

 俺にとって『これ』はロッカーから始まる物語だ。
 誰かと初めて出逢うタイミングとして「貧相な担任教師が開いた教室のロッカーから誰かが出てくる」なんていうパターンがあると、生まれてこの方、俺、蓮生(れんじょう)尚行(なおゆき)の頭に浮かんだことは一度もなかったが、そんな馬鹿げた始まりが全てを変えた――のだと思う。
 ついでに言えばこの教室自体も本来俺が在籍している学校のものではなく、隣の学区のものだ。二週間ほど前、自分が通っていた学校でほとんどの生徒や教師が消えてしまう事件が起こり、残った二十人弱の生徒達だけ隣の校区に移動することになったのだ。
 事件については全国で報道されたが、何しろ残っている教師は全部で二人。そのうちの一人は産休に入って出勤していなかったので、たった一人残った一年生の学年主任が今日、全学年の生徒を引率し、いろんな手続きや引き合わせなどをしてくれた。
 正確には俺も他の生徒達も、この時点ではまだ転校生ではなく、別の学校に間借りさせてもらっている形らしいが、大量の人間が消えたなんていう誰もが説明に困る状況でもあり、訳が解らない状態で何となく転入生らしい雰囲気でこの2年3組にいることになったのだ。
 このクラスへの転入は俺一人だったが、そもそも二年生は一クラス一人入れておつりが来る人数しか残っていなかった。

(からかわれたり、詮索されたりするだろうな)

 テストの時期ではなくても、日本中が大騒ぎになった大量失踪事件の『生き残り』が中途半端なタイミングでやってくるのだ。ただでさえ扱いに困る。まして、前の学校でも決して過ごしやすい雰囲気ではなかったから、ろくな扱いを受けないことくらいは覚悟していた。
 しかし、このクラスには予想とはやや違う、奇妙な空気が流れていた。
 朝のHRで紹介を受けた後、ふたつ並んで空いていた席のひとつに座るように指示された瞬間、教室内にくすくすと笑い声が漏れたのだ。
 微笑ましいという雰囲気ではない。

(いきなり来たな)

 表情を変えず、静かに身構える。
 前の学校でも似たようなことはあった。元の学校もそれほど雰囲気のいい場所ではなかったのだ。それに大量の人間が失踪した事件なんて、誰かを迫害したい人間にとっては目立ちやすい蛍光色のマークそのものだ。嘲笑を受ける程度は覚悟していたし、対処も想定してあった。
 なのに、言われた席に着いても、その笑いの気配が俺に突き刺さらない。それから数秒後、新しいクラスメートの『笑い』は俺ではなく、別の場所に向けられているのだと何となく察した。気配が俺に向いていないのだ。

(誰が笑われてるんだ?)

 授業の間ずっと周囲を観察し、考え続けてきたけれど、そいつが誰なのか解らずじまいだった。
 ただ時々、ちらほらと楽しげな嘲笑と共に『ロッカー』という単語が聞こえてくることにおぼろげに気付いてはいたが、それがどんな意味を持つのか、放課後まで理解できずにいたのだ。
 そして隣の誰も座っていない席の主が夕方まで現れることもなかった。

 

 その日、一応クラスメート達は親切にしてくれたと言えなくもなかった。解らないことがあれば教えてくれ、ある程度の説明をしてもくれた。
 でも隣の空席について質問した時には、ある者はにやにや笑いながら、ある者は居心地悪そうに話をそらしてしまうのだ。
 多分、あの『笑い』の対象は空いた席の主だ。
 本来ならそいつがいることで、自分が被害に遭わないことを喜ぶべきだったのかも知れないけれど、俺は到底そんな気分にはなれなかった。あの『笑い』自体が癇に障って、相手を殴り倒したくなってくる。
 放課後になって一度校門の近くまで来たものの、それがどうしても気にかかってしまい、教室へと戻ることにした。

 今なら誰も教室に残ってはいないだろうから、不審なことを確認するなら今のうちだ。
 2年3組の前に到着し、おもむろに扉を開ける。
 だが、無人だろうと思っていた教室の中にまだ名前もろくに憶えていない担任が立っていた。ちょうど後ろに置かれているロッカーを面倒そうに開いているところだった。
 最初は誰かが散らかした掃除道具でも片付けようとしているのだろうかと思ったが、そんなはずがないと考え直す。今日この教室で囁かれていた『ロッカー』という言葉やあの笑い。ほぼ間違いなくその原因が隠されているのだ。
 ロッカーの中から音がする。そのタイミングと重なったせいか、担任は俺がいることに気付いていない。
 俺は動きを止めて、担任とロッカーを見守る。

「問山(といやま)君……またやられたのか」

 担任が溜息をつきながら扉を開ききると、スカートをはいた脚が突き出された。担任の手には、金属製のものさしみたいなものが握られている。どうやら扉から外して手に持っていたものらしい。あれが挟まっていたら中から扉を開けることは不可能だ。
 今まであの中にその脚の主が閉じ込められていたのだ。
 俺が身動きせずにいる間に、その全身があらわになる。
 この学校の制服を着た女子生徒だった。もちろん隣の校区の制服を着ている俺や、同じ学校から来ている面々の方が例外なので、それ自体はおかしくはない。
 でも彼女が出てきたところを見て、ひどく混乱した。
 知らない女の子だったのだ。
 今日、彼女の顔を見た記憶はないし、俺は帰りのHRの後にすぐ教室を出て、その後三分も経たずに戻ってきた。その合間に他のクラスの生徒が閉じ込められたとは考えにくい。
 思わず喉から声が漏れる。
 それに担任が気付き、ひどく狼狽した表情を見せた。

「蓮生君、いつから」
「さっきです。忘れ物を取りに」
「そ、そうか。先生はもう戻るから」

 それだけ言うと、あたふたと俺の方へ――正確には扉の方へと歩いてくる。

「その、誤解しないように……」

 すれ違いざま、くぐもった担任の声で「先生がやった訳じゃないんだ」と聞こえた。そして教室には俺と問山と呼ばれた女子だけが残された。肩の上約5センチくらいまで伸ばされた髪の、かなり小柄で痩せた女の子だ。155センチと、中二男子としては背が低い俺よりもあからさまに小さく、多分140センチ台半ばくらいだろう。

 そんなに小柄で黒目がちのせいか、何となく小鳥のような印象があった。
 彼女は茫然と見下ろしている俺をやや困ったように見上げ、問いかける。

「このクラスの転校生……の人ですよね」

 彼女、問山さんがそう訊いた。

「正確には転校生って訳じゃないっぽい。本当は隣の校区の中学に通ってるんだけど、ちょっと学校に問題があって、二十人くらいしばらくこの学校にいることになった感じ。この後どうなるかはまだ解らない」

 そう説明すると問山さんは小さく首を傾げる。

「ニュースになってたあれ、かな」
「うん、俺はニュースとかはあんまり知らないけど」

 生徒二十人弱を残して、校内のみんなが消えてしまった事件が同じ市内で起こったのだ。さすがに耳にしているのが当然だった。

「それで――問山さんだっけ。何であんなところに入ってた訳? 本当に担任にやられたとかじゃなくて? 誰にやられた?」
「あの、名前を、訊いてもいいですか。ロッカーの中からだとちゃんと聞こえなくて……」
「蓮生尚行。問山さんのフルネームは?」
「ごめんなさい。問山弥叉(みさ)です」

 俺達は互いに小さく頭を下げた。
 そこまで問山さんと言葉を交わした頃に、やっとある疑問に辿り着く。
 俺は今まで彼女の顔を見ていない。しかも今日は他に欠席者はいない。だとしたら彼女の席は俺の隣、朝からずっと空席だった場所のはず。

「何で、席に座ってなくてこんなところにいた訳?」

 半ば理由を予測しながらも、俺は再び問うた。

「……閉じ込められたから」
「誰に」
「クラスのみんな。蓮生君の顔を見てなかったのは、朝一番で閉じ込められたから」
「じゃあ、朝からずっと?」

 問山さんは困ったように笑った。どうやら彼女はクラスの中でいじめを受けている立場らしい。
 そしてやっと、教室の中で吐き気のするような笑いと共にクラスの奴らの口から何度か漏れていた『ロッカー』という言葉の意味に思い至った。
 俺も『あれ』を知っている。よく知っている。この子もクラスで『あれ』を向けられていて、しかももっとひどいことをされているのだ。そう思うと腹が立った。

「何で担任は助けないんだよ」
「夕方になると出してくれる。次の朝まで閉じ込められてた時に、親が連絡してきたから」
「そういうことじゃなくて」

 言い募ると、問山さんは悲しそうにうつむいた。

「わたしもよく解らない……でも」

 ひどく疲れきっているような声で付け足す。

「先生達が知らん顔する気持ち、解る」

 暴力を受けているのだろうか。そう思ったのが顔に出たらしく、問山さんは小さく首を振る。

「下にしてもいい誰かがいる感じを、楽しいなって思っちゃった人って、何ていうか、歯止めが効かないみたいなところがあって、それがみんなに伝染すると、本当にもう……前と違う人みたいなの」
「……ああ」

 そういうことかと腑に落ちた。
 ここも前の学校と同じだ。
 最初は些細なノリで始まる。誰か一人をターゲットにして、ちょっとした冗談でもやるみたいにひどい目に遭わせる。最初はやられている方もただの悪い冗談くらいに思ってるけど、どんどん変な感じになってくる。
 つらそうな態度を見せた時、やめてくれと訴えた時に今までなかったものが混ざり始めるのだ。

(あいつら楽しい……というより、気持ちいいんだ)

 一方的に下に置かれてる奴が苦しんだり、悲しそうな様子を見せた瞬間、変な脳内物質でも出てるんじゃないかという、気持ちよさそうな顔をする。エロい絵で時々見るアヘ顔を思い出す、バランスが崩れた表情。見た目はそこまで強烈じゃないけど、あれを思い出すのだ。
 問山さんが言ってるのも、それと近いニュアンスなんだろうと思った。
 ここでも『あれ』が起こっているのだ。

「学校とか、休めないのか?」
「休んだことあるけど、次の日に迎えに来るの。ちゃんと明日からは来るよねって、みんなに囲まれて」

 悲しそうに笑うと問山さんは「多分、もう駄目だと思うよ」と小声で呟いた。

「転校してきたばかりでこんな嫌な思いをさせてごめんね。でも、これからはわたしのこと、無視した方がいいよ。何されるか解らないから」

 問山さんは初対面の俺を案じてくれていた。そして、拭えない恐怖を押し殺し、励ますように笑ってみせた。
 その時、彼女のサイドの髪のバランスが悪いことに気が付く。多分、誰かに無理に切られたのだ。

(あいつらみんな同じようなことやるなあ)

 俺は溜息をついた。
 問山さんは顔立ちは可愛いけど、割と目立たない子だ。小柄なせいもあり、下手するとかなり目立たないで生活していてもおかしくない。彼女みたいなタイプをこういう目に遭わせて気持ちよくなってる奴らのことを考えると吐き気がした。何もしていない小動物をみんなで惨殺して遊ぼうとしているようにしか見えない。
 一万歩くらい譲って、元々はみ出していたり、悪目立ちする要素を持った奴なら、眼をつける時に何を基準にするかも理解できなくはない。
『転入生』というのも充分その範疇に入る。
 そういう引っかかる要素も存在しない子を、ひどい目に遭わせるのが楽しい奴らを制止するには、そいつらが飽きるまで待つか、物理的に引き離すしかないだろう。
 くそどうでもいい内容でもその相手が気に障る理由を言えるなら、それが消えた時にはやめる可能性がある。でも、理由がないなら、その歯止めはない。楽しいうちはずっとやる。
 俺や問山さんみたいな田舎の中学生にとって、引っ越したりするのは無理だから、できることは本当にわずかしかない。俺達は事が起こってしまう環境『以外』の人間関係で圧倒的に恵まれていない限り、逃げることすら許してもらえない子供なのだ。
 考え込んだ俺を問山さんが見上げている。

「――そういうの、どうでもいいというか、ここもそういう場所かと思っただけ。前の学校もそうだった」

 問山さんは一瞬だけ眉をひそめたけれど、真剣な表情で小さくうなずいてみせる。

「俺や問山さんじゃなくて、あいつらが消えればいいと思う。キモいアヘ顔で人をロッカーに閉じ込める奴らとか助けてくれもしない教師とか」

 問山さんの眼が潤んだ。
 泣き出すのかと思ったけれど泣かなかった。
 その代わりにしばらく黙り込み、ぽつりと呟く。

「本当に、そんな世界だったらよかったね」

 静かで、綺麗な声だった。今まではかない感じに響いていたメゾソプラノが、強く、魔女みたいに聞こえた。
 今まで押し殺していたのだろう問山さんの激しさそのものだと思った。多分、俺はその瞬間、問山弥叉に恋をしたのだ。

 

「問山さんに連絡するの、どうしたらいい? 携帯電話とか持ってる?」

 この問いは残念ながら不純な動機からではなかった。
 むしろ不純な動機から訊きたかったけど、そんなことをしていられるほど彼女の状況は平穏ではない。

「持ってるけど、番号は蓮生君がみんなに何されるか解らないから登録できないよ」

 つまり、彼女の電話は勝手にクラスの奴らが見ている、プライバシーのない代物という訳だ。猛烈な怒りを感じたけれど、今はそんな場合でもない。

「じゃ暗記して。多分三日以内にかける。着信履歴はその後すぐ消していい」
「うん」

 俺が自分の携帯電話の番号をゆっくりと告げると、問山さんはその番号を繰り返す。三回同じことをした。その時の問山さんの声がいい音の風鈴みたいに感じられた。

 もちろん問山さんから聞いた彼女の電話番号は、俺の携帯電話にちゃんと登録する。その時に彼女の名前を何と表記するのかも確認した。

「それじゃ、気をつけてね。わたしのことを訊かれても適当にごまかした方がいいよ」
「そうする」

 即答した。彼女は俺を案じて言っているのは、声に混ざる恐怖感からも想像ができたけれど、それ以上に彼女が受けるひどい扱いの方が問題なのだ。
 問山さんが教室を出て三十分後くらいに、俺も教室から出る。ゆっくりと、この校舎の中や敷地内を一通り確認してから自宅へと向かった。
 それが俺の2年3組初日だった。

 

 俺は自転車に乗り、徒歩なら一時間以上かかる自宅へと戻る。
 既に遅い時間までやっていない部は帰宅済みの時間で、空は暗くなりかけていた。同じ学校から来ている面々が乗ってきている自転車も全部なくなっていた。
 自宅は校区外で遠いので自転車通学することができるのはありがたい。そうでなかったら家に戻れるのは真っ暗になってからだ。

(早く確認しないと)

 俺は問山さんを楽にすることができる手段をひとつ、持っている。もしそれが使えれば、彼女のことを楽にしてやれる物が家にあるのだ。現時点では『サイズの問題で』確実に使えるかどうかが解らない。早くそれを確認したくて必死で自転車をこいだ。
 問山さんはあんなことがなければ、ごく普通の、小柄で目立たない、人によっては十人並みだと称するレベルの、ちょっと可愛いだけの女の子だ。
 個人的には顔は割と好きな方だし、声もいい感じだ。彼女のために何かしてやることに、普通の状況でもさほど抵抗はなかっただろう。
 ただ、彼女があそこに閉じ込められていたのを見た時、俺の中で何かスイッチが入った。理不尽な行為を受けてあんな風に諦めてしまう彼女を見るのがどうしても嫌だった。

 

    蓮生硝子(ガラス)店

 既に現役ではなくなって数年経った、やや色あせて汚れた看板を見上げながら、俺は店のドアを開けて中へと入る。
 俺の家は以前、ガラス屋をやっていた。
 同居していた伯父が祖父の後を継いで経営していたけれど、伯父が二年ほど前に自殺したので店を潰したのだ。父は転勤の多いサラリーマンで、訓練も何も受けていないのでどうにもならなかったし、会社を辞めてまでガラス屋を継ぐつもりもなかったので、店は使われないまま放置されている。
 俺は父母が不在の時期が多くて、伯父に可愛がってもらっていたから、両親が戻ってきてここに住んでいる今でも、伯父の仕事場によく入り込んで暇を潰していた。
 店の方にいると自分の部屋にいるより落ち着くので、基本的にはいつも入り浸っていたけれど、今回ここに来たのは別の理由だ。
 伯父が一種類だけ別の棚に保存していたすりガラス。
 用があるのはこれだった。

『このガラスは、じいさんが故郷(くに)から出てきた時に持ってきたものだ。どうしても必要な時だけ使え……そんなことがない方がいいんだが』

 少し憂鬱そうに響く伯父の言葉を思い出した。
 一応、ガラスの扱いは初歩的なものなら何とかなる程度には教えてもらっている。あの学校は大きいから前に使った時より条件が悪いけれど、何とかならなくはない。
 2年3組だけどうにかなればいいのだ。
 ロッカーから出てきた時の問山さんのすんなりした脚と、悲しそうなのに淡々とした声が脳裏から離れない。
 彼女がクラスの奴らのおかしくなったことを、あんな風に諦めて生活しているのが、とても嫌だった。

「我慢したっていいことなんて何もないんだよ……」

 俺は知っている。誰かをみんなで傷つけるのが『気持ちよくなった』奴らは、絶対それを忘れない。ある意味自慰を覚えたばかりの時よりひどい。
 パンツをずり下ろすことなく、誰か一人を蹂躙して楽しくて気持ちいい思いを味わうなんてことを『してもいい』と思った奴らは、気晴らしレベルで必ずまたやる。
 そんな汚い欲求を問山さんに向けられているのが嫌だった。まだ一度しか話してもいない彼女が、そんな目に遭うのが不愉快でならなかった。
 俺は伯父さんの残したガラスと、教室でメモを取ってきたサイズを確認する。

(問題は、ないな)

 前に使った時に、中途半端な形に切ってしまったので必要なサイズを切り出せるかどうか心配だったが、多少余る程度に残っていた。
 もうこれきりだろうが、今回だけ使えればいいのだ。
 俺は丁寧にガラスを切り出していく。
 今回使うのは三枚。教室のドア二枚分と、もう一枚だ。最後のはほんのわずかしか使わないけれど、俺の気分的にはこれが一番重要だった。
 一通りの作業を終えてから自室に戻る。
 実行は明日の夜のつもりだったので、なるべく体調を整えておきたかった。

 

 翌日。切り出したガラスを入れた鞄や道具を別に持ち、早めに学校に行った。そしてガラスを入れた方の鞄を隠して、時間を潰してから教室にやってくる。

「おはよう、蓮生君」

 既に問山さんはロッカーに閉じ込められているのだろう。くすくす笑いながら女子生徒の一人が俺に挨拶する。

「……おはよう」

 こうして教室に入ると、昨日の『笑い』の時点で既にこいつらが問山さんを虐げることを楽しんでいたのだと痛感する。それと同時に、俺がロッカーを不審に思うかどうかもスリルのうちに入っていたのだろう。
 こいつらは、ロッカーに気を配りすぎている。
 そして楽しみ、はしゃぎすぎている。
 自分がそんな形で奴らの楽しみを供給していたのだと思うと、今からでも名も知らぬクラスメートの顔を机に叩きつけて号泣させてやりたい衝動に駆られたが、今そんなことをしても問山さんを助けることはできない。
 俺は胃のあたりにむかつきを感じたが、それを押し殺して教科書を開く。
 本当は今すぐロッカーを開けてやり、問山さんを助けてやりたいが、その後で彼女がひどい目に遭わされることは確実なので、知らん顔をして座っている。

(今日だけだから待ってて)

 あと一日で楽にしてやれるから、もう少しだけ。

 

 放課後。俺は早めに教室を出ることにした。
 俺が居残っていることで、奴らが警戒するのを危惧したのだ。たった一日しか経っていないし、奴らは俺に問山さんの存在をカミングアウトせずにいる。同じクラスに転入してきたとはいっても所詮、俺は他所者だ。
 絶対に信用しているはずがない。
 だとしたら担任がロッカーを開けに来やすいように、早く立ち去るべきだろう。
 俺は多少なりとも時間を潰せる図書室へ向かった。
 元の学校では図書室に入り浸ることはなかったが、時間を自然に潰せる場所にいられればよかったのだ。今なら教科書の進行が違っているからと言えば、勉強のために居残っていてもおかしくない。
 生徒が帰宅させられる時間近くまで、地道に勉強する振りをしていたが、図書室を施錠するより前に席を立つ。
 そして、隠しておいた鞄を回収して、俺は2年3組に戻ってきた。
 さすがにこの時間には誰もいなくなっていた。念の為にロッカーの中も覗いてみたが、問山さんの姿はない。
 昨日担任がロッカーから出していた時間よりずっと遅いので、さすがにもう帰ったのだろう。
 遮光カーテンは閉められているが、目貼りをしないと光が漏れる。ドアの方は確実に無人になってから作業する必要があるが、もうひとつは今でも可能だ。
 ロッカーの扉を再び開けると、切り出してきたガラスを小窓の裏に貼った。万が一これを外す前に問山さんが閉じ込められても、あんなに小柄なのでこの位置なら中を覗けないが、念の為に裏にアルミホイルを重ね貼りする。どうせ数時間も使いはしないのだ。丁寧に作業する必要もない。
 その後携帯電話を取り出し、問山さんに電話した。

『――蓮生君?』

 五秒もしないうちに問山さんの声が聞こえる。多分、電話すると言ったから待っていてくれたのだろう。

「あのさ、明日は学校休んで。無理ならさぼって。それも無理なら遅刻して」

 挨拶もそこそこに用件を告げると、しばらく問山さんは沈黙した。

『もしかして、何かする?』
「うん」

 答えを聞いても彼女は平静さを保っていた。
 その様子が好きだと思った。

『わたしのできることは「休む」と「さぼる」と「遅刻する」だけなのかな』

 電話越しでも彼女の声はりんとした、綺麗な響きだ。

「うん」
『じゃ、終わった後に話を聞かせてほしいな。多分それ、わたしのためにしてくれるんだよね?』
「……うん」

 本当はもう少し恰好つけたことを言えばよかったのかも知れないけれど、ただ「うん」と言うだけでも恥ずかしかった。

『なら、蓮生君がこの後することは、わたしの責任でもあるよね。それを覚悟して、明日遅刻する』
「そっか」

 問山さんの言葉は昨日の放課後「そんな世界だったらよかったね」と言った時と同じように強い響きを持った、魔女みたいな声だった。
 二人で「おやすみ」「また明日」と言い合って電話を切った。多分この時間を持てたことだけで、明日まで頑張り続けることができる気がした。 

 その夜。見回りが終わり完全な静寂の中に沈んだ校内で、俺はひたすら作業した。
 教室のドアのすりガラスを外し、持ってきたガラスと取り替える。灯りは最低限しか使えないけれど、伯父に教わり何度も繰り返した作業なので何とかなった。それに多少の粗があっても、どうせ使うのは今日だけだ。
 一通りの作業を終えてから、俺は入ってくる人間の死角になる、廊下側の壁にもたれかかって仮眠した。

 

 翌朝。遮光カーテンの隙間から入ってくる陽光で目を覚ます。そして俺は遮光カーテンだけを窓の隅に寄せた後、壁にもたれて登校してくるクラスメート達を待ち構えていた。
 そして朝一番に扉が開く。
 入ってきたのは女子生徒の一人だ。教室の中にいたなという程度にしか記憶はないが、そいつが机に鞄を置いてから、まっすぐロッカーに向かって取手に手をかけた瞬間、口を開く。

 

    Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu
    R'lyeh wgah'nagl fhtagn 

 伯父から教わった呪文が耳に入り、そいつはぎょっとしたように俺の方を見やる。

「ええっ、蓮生君?」

 多分、本来は掃除道具入れとして使われているロッカーの中身を移動させ、問山さんを閉じ込められるようにするために早く登校したのだろう。彼女は慌ててロッカーから離れようとする。
 でも、もう遅い。
 彼女の顔からやや上にある覗き窓から、汚い色を含んだ何かがしたたり落ちてくる。
 ただ粘液が落ちてくるように見えた『それ』は、重力にそのまま従わず、ぐにゃりと軌道を変えた。
 それはまるで、出来損ないの腕のように持ち上がり、彼女の顔に先端が近づき――吸い付く。その時にはもう、覗き穴からは一時に出せないはずの粘液の腕らしきものが、いくつもいくつも彼女に襲いかかっていた。
 声も出せないまま、彼女の体が歪み、その小さな覗き窓の中に、入るはずもない体が引きずり込まれていく。それを黙って確認した後、俺はロッカーの扉を大きく開き、貼り付けたガラスを外すとポケットに入れた。

「のど飴とか水、持ってくればよかったな」

 この後に事を終えるまでどのくらい声を出さなければならないのか考えると、失敗したなと思ったが、今から買いに行くこともできない。多少のことは我慢して声を出し続けるしかなかった。

 

    Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu
    R'lyeh wgah'nagl fhtagn 

 どれだけこの呪文を繰り返しただろう。
 教室のドアが開き、閉じるたびに唱え続けた呪文。そのたびにすりガラスは透明に変じ、向こう側に見える何かがあいつらを引きずり込む。そしてクラスの机の数から1を引いた――俺と問山さんを除き、担任を足した人数がこの世界から消え去っていた。
 それにしても、思ってたより汚くなってしまった。
 ロッカーの時には覗き窓が小さかったから気にならなかったが、ドアのガラスは大きいせいか、引き込まれる時に粘液が床にぶちまけられて、廊下に近いあたりの机なんかは強烈なことになっていた。
 肝心のすりガラスは何故か綺麗なままなのが不思議だ。
 しかも窓が閉じているので刺激臭が籠もっている。前の時には下駄箱の側に貼ったので考慮していなかったのだ。
 換気したかったが、このままだと外に臭いが漏れてしまう。どうしたものかとしばらく悩んでいると、ドアが静かに開かれた。漏れた臭気のせいで2年3組の異変に気付いた誰かが確認しに来たのかも知れない。呪文を唱えられるように身構える。
 扉が開いた。

「おはよう……すごい臭いだね」

 現れたのは問山さんだった。これが俺のしたことの結果なのだとすぐに判断できたのだろう。問山さんは困った顔をしながらも、静かにドアを閉める。
 何か問いかけようとしたが、そのまま口を噤む。授業が始まっているはずの今、教室にいるのは俺だけ。それだけで充分伝わっただろう。しかし、ややあって彼女は質問を投げ直す。

「みんなは、どこに消えたの」
「説明しにくいけど、俺の知ってる場所。行ったことはなくて、知ってるだけだけど。この異臭と粘液で悲惨なことになるような何かがいるようなところで……ついでに俺の祖父がいた場所らしい」

 それを聞いても問山さんは脅えも嫌悪も見せなかった。
 ただ少し、とても綺麗な表情で微笑んでみせた。

「蓮生君は……『あいつらが消えた世界』を、わたしにくれたんだね。誰もくれなかったものをくれたんだね」
「偶然できる立場だっただけだけど」
「わたしも、見たかったな。あんなに楽しそうにしてた子達が、楽しくなっちゃった顔のまま死んでいくところ」
「自分達が襲われる身になったら、世界で一番不幸な顔して逃げ回って死ぬんじゃないか?」
「だったら、その時に訊きたい。『何で笑わないの? 誰かが苦しい思いをすると楽しいんでしょう?』って、死んでいく子達みんなに訊いてやりたい」

 平坦に感じられるほど静かな声でそう漏らす。
 問山さんが俺の彼女なら、多分抱き寄せたりして慰めるところだろう。でも俺達はそれほどの時間を共有してはいないので、俺はこう言うくらいしかできなかった。

「見に行こう。あいつらが死ぬところを確認しに」

 問山さんは眼を見開いた。そのせいで小作りなパーツの並んだ彼女の顔が、りりしく強いものに見える。
 しばらくの間、彼女は黙っていた。
 そして小さくうなずき「行きたい」と呟く。
 彼女が「そんな世界だったらよかったね」と言った時と同じように、心が揺さぶられる。俺は緊張と昂揚を隠して彼女の手を摑むと、彼女が入ってきたドアのガラスを自由な手で示し、呪文を唱え始める。
 クラスメートを引きずり込んだあの触手のような何かの存在する場所。俺の祖父の故郷。もちろんまともに暮らしていける場所ではないし、長く生きていられるかも怪しいけれど、問山さんとなら『そんな世界』こそが素晴らしいはずなのだ。
 俺達は笑顔で『そんな世界』に引きずり込まれ、この世から消えた。

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