肉表紙

飼育小屋のゴミで肉 後編

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『着いた』

 午後三時。六辻小学校の前まで来たわたしは、千倉にメッセージを送った。
 彼の自宅を知らないので、ある程度待たされることを覚悟していたけれど、すぐに一軒家のひとつから千倉が現れ、こちらに小走りで近寄ってくる。背が伸びても、走っている姿は昔と同じ印象だった。

「こっち。誰もいないから」

 さっき走り出てきた一軒家に招かれ、約束の前半分を果たすことになった。「誰もいないから」という言葉が思い起こさせる状況とは無縁の、陰鬱といってもいい情報交換が目的だ。
 千倉は最初に自分の知っている情報を教えてくれた。

「あれが何なのかは俺もよく知らないけど、感じとしては犬と人の中間みたいに見えた」
「全然想像できないけど。昔あった人面犬ってやつ?」
「逆。人間の体に犬の顔っぽい感じ。ただ、それも印象でしかないから、現物見ないと納得してもらえない」

 どう考えてもペットとして飼いたくない生き物だ。

「どこで見たの? 飼育小屋の中を覗いたの?」
「あいつらが異様な気配だったのに気がついて、授業が終わってから後をつけた」
「異様な気配って……」
「数藤も気がついてたみたいだったけど」

 その言葉が何を意味しているのか理解し、思わず息を止めていた。

「あいつら、すごく楽しそうだった。その頃にはまだ、あれのことを『ゴミ』と呼んでたな。早く『ゴミ』と遊びたいってはしゃいでた。あいつらがいなくなってから小屋の中を覗いて確認した。中にいたそいつを見たけど後で吐いたよ」

 その「後で吐いた」が中にいた『ゴミ』の姿にかかるのか、五人が「遊んだ」結果に対してなのか気になったけれど、口を挟む気力は出なかった。
 千倉の声は淡々と響く。

「俺が気づいて二週間くらい経ったあたりかな。あいつらの気配がおかしくなって、あれを『肉』と呼ぶようになってた。その頃にはあいつらからも、あの気配がするようになったんだ」
「何で呼び名が変わったのかな」

 千倉はげっそりしたように視線をそらす。

「食べてた。あいつらが『遊ぶ』時にいつもそうだったかは解らないけど――最後の日には食べてた。一回しか見てないけど、多分あの日の前にも食べてたんだ」

 その言葉を理解するまで、やや時間がかかった。
 多分、理解したくなくて頭が受け付けなかったのだと思う。
 三十秒ほど呆然としていたけれど、やがてじわじわと染みてくる。彼らの中で『ゴミ』が『肉』になったのは、その人間の体に犬の顔を併せ持つ生き物が食欲の対象になったからなのだ。
 そうだ。その生き物は喰いちぎられていたのだ。想像しかけてわたしも一瞬吐きそうになった。

「でもその後については何してたのか解らない。我慢できなくなって逃げたから、あいつらがどんな風にいなくなったのかは見てない」

 それに文句を言える人間はいないだろう。むしろ当時の年齢を考えたら「よく逃げてこられたね」と褒めてもいい状況なのだ。
 それを聞いて顔が強張っていたのだろう。千倉はかすかに苦笑してわたしの頬に手を伸ばし、ぐにぐにと筋肉を伸ばした。

「ほら、今度は数藤の番。聞かせて」

 この異様な内容を知らされた後では、叔母の休職後から失踪するまでの話が、どこにでもある陳腐な内容に感じられてしまうけれど、約束なので説明した。
 暴行を受けた形跡のある現場。戻ってこなかった五人の教え子。時折警察から知らされる情報は叔母の絶望を増すばかり。しかも当時の叔母は二十六歳。今のわたしと十歳しか違わないのだ。学校でも家でもしっかりした対応をしていたけれど、心細かったに決まっている。何とか教え子の卒業まで休職を踏みとどまっていたのだろう。
 休職後の経緯や、最後に残したメッセージのことを聞くと千倉は少しだけ悲しそうな、困ったような表情を浮かべた。

「もういなくなってから二年も経ってるし、生きて戻ってくることを期待してるんじゃないんだけど、憲子叔母さんが何を考えて助けに行こうと決断したのか知りたかったんだ」

 千倉はしばらく黙っていた。何かを考えているらしいけれど、それを伝えようとはしなかった。
 ややあって、千倉は顔を上げる。

「そろそろ行こうか、学校の中」
「あ、うん」

 わたし達は立ち上がり、部屋から出ていく。
 外に出たら、空はやや青みを失って、わずかに濁っていた。千倉は校門の前へと向かわずに逆方向へと歩いていく。一瞬いぶかしく思ったものの、すぐに裏手にある通用門の方へ回るのだと気がついた。
 風が吹く。
 あの腐臭が含まれている空気を吸い込み、咄嗟に息を止める。
 同じタイミングで彼も動きを止めていた。

「千倉」
「うん」

 本当に彼もわたしと同じものを認識しているのだ。
 少し気が楽になったのか、より絶望が増したのか解らないまま、彼のスピードに合わせて再び歩き出した。


 通用門のあたりには民家はあるものの、人通りはほとんどない。わたし達は門をよじ登って越えると学校の敷地へと降り立つ。その頃にはもう、あの腐臭は空気に含まれているどころではなく、はっきりと感じ取れた。

「これって、みんな本当に解らないの? 近所の人がクレームつけたりしないのが不思議なくらいなんだけど。ひどい臭い」
「解らないんだよ、昔から。たまに気配が濃い時にだけ解るみたいだけど」

 千倉の反応からは異臭を不快に思う様子は見られなかった。
 ただ、同じタイミングであの気配に気づいていたので、彼はあの気配を臭いに近い体感では捉えていないだけなのだろう。

「いつからなの? あの事件の後から?」
「子供の頃からずっとこんなだよ、ここは。みんなに解らないから黙ってただけで。でもあの事件の後からひどくなったし、気づいたり見たりする人間も増えた」

 彼の向かっているのは、事件現場だった飼育小屋だと気がついた。

「もう取り壊されてるけど、一応場所だけ見て。多分今なら見えるから」

 徐々に裏手の方へと近づいているうちに、小学生の頃にここを通った懐かしい記憶も甦ったけれど、それ以上に陰惨な事件のダメージの方が大きいので、あっという間に感慨は薄れる。
 彼の言った通り、飼育小屋はもうなかった。当時は飼育小屋に合成樹脂シートがかけられていて、汚くなった青色が目立っていたけれど、取り壊されて更地にされて跡形もなくなっているはずだ――
 なのに、そこにはぼんやりと合成樹脂シートのかけられた小屋が見える。
 新たに建てられたという意味ではない。何もない更地に重なって安っぽい青色が見えるのだ。

「あの中まで移動すれば、何してるのかも見える」

 そう言うと千倉は歩き出し、ぼんやりした青色の中に入っていく。シートをめくったりはせず、ただ突っ込んでいっただけ。青色の向こうに千倉の姿が見える。眩暈がしたけれど、わたしも覚悟を決めて彼のいる方へ歩いていった。
 何の感触もない青色の中に立つと、千倉の言う通りに周囲の景色が変わった。


 一番に眼が釘付けになったのは、犬というよりは、前に動物園で見たハイエナと顔が似ている『人』の体だ。妙に腕が長い感じではあったけれど、充分人間の範疇だ。体格から男性らしいこともすぐに解った。
 剥き出しの肌には数えきれないほどの傷があった。
 真新しいものだけではない。黒ずんで汚くなった嚙み傷も多い。あまり傷に詳しくないので、いつからこの仕打ちを受けていたのかは全く想像もできなかった。
 地面に仰向けに転がされ、何事か叫んでいる。咆吼ではない。言葉だ。日本語ではなかったけれど内容は想像がつく。
 痛みを訴え、やめてくれと叫んでいるのだ。
『彼』には既に抵抗するだけの体力を残っていないようだった。五人の子供に押さえつけられ、腕や足、傷口から引き出された臓物を囓(かじ)られるままでいた。

「お肉おいしい」
「楽しいね」
「あはははっ」
「もっともっと」
「ここもおいしいかな」

 吐き気がしそうなほど無邪気な感想を漏らしながら、わたしの学友だった少年少女達が群がっていた。
 彼こそが『ゴミ』で『肉』と呼ばれていた存在なのだ。そして自分の学友が楽しげに笑いながら彼を喰い殺している。叔母がこんなものを助けに行こうとしていたのだと思うと、絶望に打ちのめされた。
 いくら何でもあんまりだ。
 こんなもの、助けてやりようがない。
 むしろ襲われ、囓られている哀れな異形の『彼』の方を助けてやりたい気分だった。
 何も言えず立ち尽くしていると、千倉がわたしの手を引いて歩き出す。

「無理して見なくていい。『あれ』は四年前に終わってることだし、俺達が何かできる訳でもないし」

 万が一できたとしても、あの惨劇を止めるだけの力はないし、それだけの覚悟も精神的な余裕もない。準備もしていないわたしにできることは何もない。

「何であんなの、見えるの」
「さあ。でも、学校の近所はここほどじゃなくても割とこんなのが見える。前からずっとそうだよ。もっと変な景色が重なって見えてる時もあるけど、それがどこかは解らない。日本の景色には見えなかった」

 千倉は案外平気そうだった。
 もちろん実際にはそうではないだろう。平気に見えるのだとしたら、ただ馴れっこになっただけだ。さすがに初見のわたしはにそんな余裕などない。
 まして、こんな風におぞましいものが見える場所で、千倉がわたしに一番見せたかったのは『あれ』ではないはずなのだから。

「憲子叔母さんを、ここで見かけたことは?」

 訊かれない限り、千倉が基本的に情報をオープンにしない人間だということはもう知っている。叔母の噂はないと言っていたけれど、その言葉が「それ以外の情報はない」ことを意味するとは限らない。

「あるよ」
「やっぱりそうだよね」

 千倉は叔母をここで目撃した。ただ噂を流すことなく沈黙を守ってくれていたのだ。彼の意図とは別の理由で心から感謝した。行方不明になるまで教え子達のことを気に病んでいた叔母が、教鞭を執った校区で怪談話扱いされるのでは哀れすぎるからだ。
 彼は手を引いたまま校舎へと歩き出す。その手をどうすべきか少し迷ったけれど、そのまま歩いた。

「数藤先生をどこで見かけると決まってる訳じゃないんだけど、校舎内で見かける可能性の方が高い」
「そんなに何度も見かけたの?」
「三回くらい」

 つまり二回は校舎内で見たということか。
 もし卒業後も千倉と交流があれば、どうして教えてくれなかったのかと詰め寄ったかも知れないけれど、いくら何でも理不尽なので言わずにおいた。

 校舎内を歩き回っても叔母は見つからず、あの五人の誰かや喰われていた『彼』と似たような体つきの生き物達、それ以外の説明しようのない何かしか見かけないのに閉口して中庭に出てきた時、姿を発見した。

 全く変わっていなかった――という訳ではない。
 むしろ叔母はあんな事件の起こる前のように元気で、表情は精彩を放っていた。とても幸せそうで、あの事件が起こる前と同じように清楚で美しく見えた。わたしの自慢の憲子叔母さんそのものの姿だった。
 姿だけは。
 叔母の手には何らかの生き物から引きずり出してきた腸が握られていて、その一部らしい食べかけの肉片が、豊かな胸に押し上げられたシャツを滑り落ちる。
 それを見た瞬間、わたしは口を必死で閉ざした。声を立てたら気づかれてしまう。その後叔母がどんな反応を返すのか絶対に知りたくはなかった。
 夕陽に照らされた叔母はわたしに気づかなかった。
 幸せそうに微笑みながらすれ違い、消えるまで、わたしは身動きひとつできず、呼吸すらできなかった。

 立ち尽くしたわたしが口を開くことができた時には、もう空は紫色を帯びつつあった。ショックで動き出すこともできなかったわたしに付き合い、黙って立っていた千倉の方を見やる。
 憔悴しきった叔母が五人の生徒を助けるために、ここへ向かった。それは間違っていなかったと信じたい。わたしの知る叔母は心の底から教え子達を気遣い、苦しんでいた。
 今の叔母の心にはもう、そんな思いはないようだった。大好きだったかつての叔母どころか、そもそも同じ人間とすら思えなかった。笑顔で臓物を引っ張って歩く叔母とは全く理解し合える気がしなかった。多分、千倉も同じ認識でいるのだろうと思う。
 何故言ってくれなかったのと責める気はない。
 ただ、ひとつだけ確認しておきたいことがあった。
 それを確かめてしまうと、場合によってはわたしの命もないのではないかと思いつつ、憂鬱な気分で口を開く。

「あのさ、もし間違ってたらものすごく気分を悪くされそうなんだけど、憲子叔母さんに五人のことで連絡したの……千倉だよね?」

 小学校の頃なので、携帯電話を持っている生徒の方が少なかった。彼らが姿を消してから二年後まで叔母の連絡先を持っていた可能性はただでさえ低い。まして、五人が最後の日にあの状態だったのなら、叔母に連絡することなど思いつけるはずもない。彼らにそんな知能が残っていたとは思えないのだ。
 最低でも叔母の連絡先を思い出すことができ、叔母が助けに行かねばならないと思い詰める程度の話を聞かせることができなくてはならない。それは彼らには無理だろう。
 もちろん他の生徒が偶然噂を聞きつけて、叔母に連絡した可能性もなくはない。でも、あの気配を感じ取ることができ、目撃情報を多く得られ、その上で――何度も六辻小の敷地に入り込もうと思える千倉は誰より怪しい。
 彼はしばらくの間黙っていた。でも、待っているのに疲れる寸前、小さくうなずいてみせる。

「数藤先生は五人のことを生徒達よりはもう少し知っていたから、ただの行方不明だと思っていなかった。多分あいつらのしたことをもう少し正確に知ってた。先生だけじゃなくてもちろん警察も」

 叔母がわたし達に状況を説明しなかったのは、プライバシーの問題だけではない。
 佐藤琴音の母親が叔母の失踪について聞いた時に涙ぐんで謝っていたのは、あの五人のしでかした、生理的嫌悪で平静を保つことができない事件のことを、多少なりとも知っていたからだ。
 千倉の言う『もう少し正確に』がどういう意味なのか言うまでもない。あんな風に『彼』に襲いかかり、齧り付いているのだから当然体液も付着し、髪の毛も落ちていただろう。彼らが加害者である証拠が大量に残されていたのだ。

「だから数藤先生はすごく悩んでたよ。何であいつらがあんなことをしたのか。あいつらが何を考えていたのか知りたがってた」

 その気持ちは理解できる。わたし自身も叔母がどんなことを考えて「助けに行きます」と手紙を残したのかを知りたいと願っていたのだから。でも、千倉の行動が善意からなされたと考えてもいなかった。
 悪意とまでは思わないけれど善意であるはずがない。
 あの五人の変化に気づき、しかも『食べた現場』を見ていた千倉が、叔母に与える影響を考慮しなかったとは思えなかった。

「どんな連絡をしたの?」
「学校の近所では今もあいつらを見かけたっていう噂が流れてるって、それだけ。大したことは言ってないし、嘘をついて誘導した訳でもないよ」

 それなら嘘をついてはいない。確かに『噂』はあったのだから。
 叔母は学校を訪れ、千倉やわたしが見たように、五人が起こした惨劇を見たのだろう。警察の情報を伝えられていたことで、不安と心配で心を病んでしまった叔母が『あれ』を見てしまえば、何もかも壊れてしまっても不思議はない。駄目押しのようなものだ。
 叔母の幸せそうな笑顔を思い出す。
 臓物を引きずりながら血まみれで歩いていたのに、苦悩に満ちたかつての叔母よりずっと綺麗だった。
 人ならぬ側、理解し得ぬ側に自分がなってしまえば、不安も恐怖もない。叔母は苦しみから解放されて「幸せになった」のだ。

「憲子叔母さんをああするのが目的だったの?」
「ああなるかも知れないなとは思ってたけど、わざわざ数藤先生のことをああしようと考えたことはないよ。ただ『あれ』が見えたり気配を感じ取ってくれる人間が俺以外にもいることを確認したかったんだ」

 あの五人を見なければ、叔母がああなることは多分なく、事件について苦悶しながら家へ戻ってきただろう。叔母が「ああなった」ことで、千倉はこの状況が自分一人の思い込みでないと保証されたのだ。

「それ、確認できて嬉しかった?」
「数藤先生の時より、小六の時に数藤があの気配を感じ取れてるのを確信できた方がずっと嬉しかったかな。俺一人だけじゃない。幻覚じゃないんだって」

 叔母のことを三回も目撃できるほど、千倉は学校を頻繁に確認しに来ている。多分自分の正気を疑うたびに、ここを訪れているのだ。彼は小学校で「数藤もなんだ?」と訊いた時から、わたしのことを『自分の正気を確認できる相手』と認識していたのだろう。
 互いの、見ているものへの反応を確認すれば、最低でも自分だけが正気を失っているのだと思わずに済むのだ。
 そんな相手を確保したいと本気で願う程度には、この状況は危うくて苦しい。それは千倉だけでなく、これからのわたし自身も抱える煩悶だ。
 本来なら叔母をあんな目に遭わせた千倉を気遣う必要などない。むしろ報復してもおかしくない。でも、叔母のあの笑顔を見た後にそんなことは考えられなかった。
 叔母は二度と苦しまず、幸せでいられる。それを確認した時にほっとしてしまった自分が、まともな心境でないことも理解していた。
 ショックが薄れた今となっては、ただ「よかったね」としか思えなくなっていた。
 そんな破損を多分、千倉も抱えているのだ。
 わたし達はもう、普通に暮らしていくのに必要な部分が壊れている。あの事件がなくても、そもそも最初から壊れていたのかも知れない。同じ立場になったらわたしも、千倉と同じことをするだろう。彼を咎める気にはなれなかった。
 少なくともわたし達にとって狂っているのは自分達ではなく世界の方で、わたし達にできるのは互いが正気だと証言しあうことくらいだ。二人ともが正気でない可能性を同時に抱えるけれど、そんなことは無視してしまおうと思えばできる。
 今まで繋がれるままだった千倉の手をちゃんと握り返す。
 わたし達の正気ではなく、世界の方が間違っているのだと互いに証言し、保証しよう。壊れそうな時には六辻小の敷地を歩き、向こう側を二人で見よう。
 そうできればきっと、わたし達はそれなりに世界に折り合いをつけて生きていけるのだ。

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