埋め尽くす表紙

埋め尽くす君の黒

 昔から、山犬が出るという話があった。
 夜の道を歩いてくる時に、もし犬のついてくる気配がしたら食われてしまうよと言われていた。
 その途中、暗がりを埋め尽くすほどの雀の声が聞こえてくることがあったら、それは夜雀(よすずめ)。
 山犬の先触れとして現れる夜雀の声は、道を歩くことすらできないほど騒がしく、どこまでもついてくる。山犬から守ってくれる代わりに、どこまでもついてくるのだという。
 私はあの時、夜雀の声を聴いたのかも知れない。
 だからこそ今、命長らえている。父と母を差し置いて自分だけが――生き延びてしまった。


 小学校の修学旅行の帰り道、私は一人で自宅へと長い距離を歩いていた。
 私が住んでいた地域、鳴谷(なきたに)は小学校から離れていて、途中までは他の子達と一緒に帰ることができたけれど、その後しばらく一人で歩かなくてはならない。
 子供ばかりでの旅疲れもあるので、できれば保護者に迎えにきてもらうようにと学校から言われていたけど、うちの近隣ではそんな余裕のある家はほとんどなく、今までの子供達も私も、たった一人で集落まで歩くのは当然だと思っていた。
 どうやら地域でのいろんな問題などがあって、子供達に多少の危険があったとしても、見て見ぬ振りをするべきだという前提だったらしい。
 ただ、夜遅くなった時に一人で帰るのは子供達にとっても当たり前のことで、多少怖いとは思いながらもそれに慣れっこではあった。もちろん私も例外ではない。

(もう少しくらい外灯があればいいのに)

 私が心の中でぼやいていたのもその程度だった。
 舗装してあるだけでほとんど山道と変わらないような細くて暗い道を歩いていても、不審者に襲われるような心配なんてしない。
 何しろ鳴谷の人間以外は誰も通ったりしないのだ。
 ほぼ無人の場所で、人を襲うために待ち構えてる馬鹿なんて存在しない。
 人の歩く場所ではめったにないけど、せいぜい山から下りてきた猪なんかが出るのが心配になるのと、もっと現実的には道が崩れていたら困る方が大きかった。
 ただ、その夜は何だか――奇妙な感じだった。風の流れがいつもと違って、何となく遠くの気配を探ることができないのだ。
 暗がりを歩くと、どうしても周囲の気配には敏感になる。その気配がいつもと違うのを強く感じていた。

(猪……じゃないよね)

 このあたりに出るとしたら、猪か鹿、あとはもっと小さな獣だ。昔は『山犬』が出たというけど、お話でしか聞いたことはなかった。
 お話の中の山犬は、飼い犬が野生化したとかいう話ではなくて、もっと薄気味悪い存在だった。
 どこに住んでいるかも解らない。普段はどこで見ることもないのに、時折夜道を歩いている時、静かに後ろからついてきて、歩く人を喰らうのだという。
 魔物としか言えないような存在だった。
 その話の中に、山犬の現れる前触れとして夜雀という魔物のことも語られている。闇の中、黒い蝶か蛾のようなものが数えきれないほど飛び回り、雀のように鳴くのだという。その夜雀がまとわりついた人間を山犬が襲うことはないのだそうだ。
 どちらも魔物であるのなら、もちろんどちらとも逢いたくはない。
 ただこの不安から、後ろからついてくる何かから私を救ってくれるのなら、いっそ夜雀に現れてもらいたいと思うほど、私は後ろから感じる気配に脅えていた。

(あれ?)

 体がまともに動いていない。
 後ろを意識したせいか、緊張と恐怖のために筋肉が強張っているのだ。
 足を止めてしまうかも知れない。
 そう思った瞬間、耳が壊れそうなほどの声が響いた。
 何十いるか、何百いるか想像もつかない鳥の声が耳をつんざく。
 周囲の暗がりとは違う、鮮やかなほどの黒が数えきれないほど羽ばたき、私の視界を遮ったかと思うと、ゆうらりと体が崩れていくのを感じていた。


 暗がりの中。
 いつの間にか何事もなかったように道を歩いていた。

(どうして……帰り道を歩いて、後ろに何かいるような感じがして、それで)

 あのままだと、私は顔から倒れていたはずだ。
 なのにどうして平気なまま歩いているのだろう。
 そんなことを考えて歩みを止めた時、やっと自分が誰かの手を握っていることに気が付いた。正確にはいつの間にか誰かと手を繋いで歩いていたと言うべきだろう。

「ひゃっ!?」

 慌てて手を引っ込めようとした時、手を繋いでいたのが私よりも小さな子供らしいことに気が付いた。

 見た目からは大体私より三歳くらい下、歳がいっていても十歳には満たないように思える。
 黒い服を着た、浅黒い肌の、眼の大きなその子の顔は人形みたいに整っていて、男か女か解らなかった。もちろん見たこともなかった。
 鳴谷には私より小さな子供はもういない。せいぜいお盆と正月によそから戻ってくる人達の子供を見るくらいだ。それに、この子は目立つ。小学校にこんな子がいたら絶対忘れないはずだ。
 そんな『誰とも知れぬ子供』に手を繋がれているのが薄気味悪く、振りほどこうとしたけれど、まるで手錠でもかけられているように子供の手は離れず、結局そのまま向かい合う。

「あ、あ……どうして」

 いくつかの疑問が同時に噴き出てこようとして、結局口籠もってしまう。そんな私に向かって、その子は軽く馬鹿にしたような笑顔を向けた。

「ずっとこうしてたのに今訊くのがそれ?」
「そんなことを言うなら離してよ」
「だめ」

 何だろう。もし平穏な時だったら、こんな子とは話したくないけど、自分の置かれている状況も解らないまま一人立ち去ることはしたくなかった。
 それに、さっきまでのあの恐怖感だって決して癒えてはいない。こんな態度の子であっても、話し相手がいて一応安全らしいことは少し嬉しかった。
 私は内心で少し気を落ち着けるように努力してから、その子に話しかける。

「私、君のことを知らないよね? この近所でも学校でも見たことないし」
「そうかもね」
「知らない相手と手を繋いで歩くなんて変でしょ」
「ぼくは知ってるし、もうかすみもぼくを知ったよね」

 私の顔は強張った。どうやら本当にこの子――彼は私のことを知っているらしい。平野(ひらの)霞(かすみ)という私の名前を、どこからか聞いて知っているのだ。
 人の流れが少ないこの地域で、それはとても異様なことだった。

「……放して」
「何で?」
「私、もう帰らなきゃ」

 家ではきっとお母さんもお父さんも私のことを待っている。修学旅行先で買ったおみやげも渡したい。ひどく疲れていたしお風呂に入って早く寝たい。
 意識を失う前に感じていた気配が危険な獣から発されたものではないのなら、こんなところで余計な時間をかけている必要などないのだ。
 でも彼は不思議そうに首を傾げてみせる。

「どうして?」
「どうして……って」

 何を問われたのか、一瞬意味が摑めなかった。
 それまで無邪気そうに見えたのとは対照的に、彼は再び馬鹿にしたような笑いを浮かべて見上げてきた。

「かすみ、どうしても帰りたい? やめたほうがいいんじゃないかなあ」

 本当は私もこの子のように「どうして?」とでも訊くべきだったのだ。なのに何故か、それを問い質す気力が全く湧かないでいた。
 この子の冷たいともあたたかいとも感じない掌の感触のせいかも知れない。

「……帰らないと。うちで親が待ってる」
「そっかあ」

 子供はわずかに視線を落とし、何かを考えていた。
 その伏せられた瞼がとても綺麗だと思ったけれど、瞳がぼんやりと赤く輝いていることに気づき、思わず息を呑んでいた。

「しょうがないなあ。もう大丈夫だし、いいか」

 少しつまらなそうに呟く。

「いいよ、帰してあげる。おいで」

 そう言うと私の手を引いてどこかへと歩き出す。
 そして周囲の闇がぐんにゃりと歪んだように見えたと思った時、体全部をたわませるような感覚が襲った。

 

 その後、私がお母さんやお父さんに逢うことはできなかった。私を迎えてくれたのは両親ではなく、家に入ることすらできなかったのだ。
 二人は山犬に殺されたのだという。
 私が鳴谷に帰り着いた時にはもう、二人とも死んでしまっていて、よろよろと現れた私が生きていたことに、みんな驚き、たったひとつの救いだと喜んでくれた。山犬に惨殺された二人のために近所の人達が慌てて集まってくれたのだ。彼らは、何が何だか解らずに戸惑っている私に両親が死んだこと、もうすぐ警察が来るだろうこと、自宅はガラスも割れていてとても室内で休める状態ではないことを告げた。
 たった一人の生き残りとはいえ、小学生にその状況を受け止められるはずがないと思われたのだろう。私は三軒隣の伯父さんの家で休むように言われ、そのまま伯父さんの家に連れていかれた。
 お風呂も食事も、伯母さんが用意してくれた。
 何かを問おうとすると「今日はもう、何も考えずに休みなさい」と言われ、そのまま仏間に敷いてくれた布団に直行させられてしまう。

「ここなら山犬も霞ちゃんを襲ったりできないわ。大丈夫だから、休みなさい。霞ちゃんだけでも生きなきゃ」

 伯母さんのやさしく悲しい声を聞き、私はうなずくしかできなかった。
 お父さんもお母さんも、山犬に殺されたらしい。多分みんなの中で既知の情報となっている『それ』をわざわざ確認しようという気力は出ないまま、おとなしく布団に潜り込む。
 少し落ち着くと、漏れ聞いた両親の殺された状況を思い起こされる。
 二人は外に出ていた訳ではない。家で私のことを待っていた。なのに殺された。私が名も知らぬ子と暗い道を歩いている間に、お父さんとお母さんは獣に襲われて死んでしまったのた。家の中にいたのに、窓を破られ何匹もの獣が侵入したのだという。どんな状況なのか想像もできなかった。
 ただ、違和感はなかった。
 山犬は獣ではなく、魔物なのだ。
 だからこそ私が今こうして無事でいることが不思議でならなかった。
 予定の時間に帰っていたら、私は多分死んでいた。お父さんやお母さんと同じように山犬に喰い殺されていた。
 私が生きてたのは、偶然だ。あの気味の悪い子に話しかけられて、余計な時間を取られたことで、結果的に生き延びてしまったのだ。

(あの子は、何)

 帰らなければならないと言ったら「どうして?」と問うた子。
 あの子が何なのか全くイメージできなかった。
 そんなことはただ、渡すことができないまま鞄の中に入っている両親へのおみやげのことを思い出し、泣きながら布団を顔までかける。
 まどろみに落ちる直前、視界の隅に黒い蝶か蛾の羽ばたきがよぎったような気がしたけれど、そのままぶっつりと意識は途切れた。

 私が二人に『逢えた』のはずっと後で、しかもお葬式の時にすら、顔を見ることができなかった。遺体が戻ってきた時、伯父さんが顔を見ないように懇願したのだ。

「霞ちゃんにはとても見せられんよ……お父さんやお母さんのためにも、傷ひとつない、やさしい顔を思い出すだけにしてやってくれんか」

 喪主をしてくれた伯父さんがつらそうに首を振っていた時のことを今でも思い出す。
 お父さんもお母さんも、全身ズタズタで、面影すら見ることができないほど顔も破損していたらしい。しかも内臓も引きずり出され、手足ももげかけていたというのを、みんなの話から知った。
 お通夜で伯父さんが泣いていた。
 お葬式でもみんな泣いていた。
 二人が無惨な死を迎えたことと、未だに山犬という怪異が鳴谷の住人を襲うのだという事実に打ちのめされていた。
 でも、私が泣かないままでぽつねんと座っていたのを見てもみんな咎めたりはしなかった。むしろ何も解らないで戸惑っているように見えている私のことを、みんなが哀れんでいた。修学旅行から帰ってきたら親が喰い殺されてしまっていた娘を咎めるような人間はいなかった。
 ここは、元から山犬が人を喰い殺す場所なのだ。
 ただの野犬とは違う異様な何かに殺されることが充分有り得る場所なのだ。
 だからみんな、不思議に思わずただ泣くだけ。
 でも、私は葬儀の後にも考えていた。
 自分ごと埋め尽くす勢いで飛んできたおびただしい数の黒い蝶。
 私の手を引いて歩いた、あの子。
 私の名を知っていた、知らない子。

(あの子は……夜雀じゃないのかな)

 泣いている人達から漏れてくる言葉の中に、その名が出てきて気付いたのだ。

『きっと霞ちゃんのことは、夜雀が助けてくれたんだ。あの子が生き残ったことだけでも喜ぼう』

 もちろん帰路で何が起こったのかは誰にも話していないけど、山犬の伝承があるこの地域には、山犬から助けてくれる夜雀の話も伝わっていた。
 確かにあの子と歩いていた時間のおかげで、私は命を長らえたのかも知れない。でもそれを素直に喜んでいいのかは解らなかった。
 ずっと解らなかったし、誰かにそれを問う機会もないまま伯父の家に引き取られて過ごし、中学卒業して麓の高校に通うために一人暮らしをすることになったのだ。

 

 高校に入学してから、私は一度も鳴谷に戻ることはなかった。正直に言えば、あの道を通るのも何となく怖くなっていたし、山犬のことも、夜雀のことも全部忘れてしまいたくて帰るのを控えていたのだ。
 でも両親の七回忌(しちかいき)のために戻ってきてほしいという伯父の連絡を受けて、高校三年生の一学期の中間テストが終わった時期に、鳴谷へと戻ることにした。
 もちろんあの夜のように暗い時間に歩きはしない。鳴谷へ向かう夜の道を歩く勇気と気力は中学校までで使い果たしてしまっている。
 夕方を迎える前には、余裕を持って鳴谷に辿り着けるように予定を立てていたから、いつもよりゆったり歩いても平気なはずだった。
 なのに。

「何で……こんな」

 幼い頃から熟知しているはずの鳴谷への道は、いつまでも続いて、どこへも辿り着かなかった。
 鳴谷への道は一本道で、迷う場所などありはしないのに、昼の明るさは徐々に上空から薄れてゆき、樹々は赤く染まっていく。
 こんなはずではなかった。
 夕方になる前に辿り着いているはずだったのだ。
 なのに赤く染まった樹々はどんどん暗がりへと沈み、空は濃紺から闇へと変じていく。

(どうしてこんなことになってるの)

 まるであの夜へと戻されてしまったかのように、私の周りから光が消え失せていく。
 そしてあの時と同じく後ろに何かがいる気配がする。そして小学生の頃には気付かなかった、張り詰めた何かを感じ取ることができた。
 喰らおうかと弱い獣に目星を付けて、静かに追いかける気配。お父さんやお母さんのように臓物を引きずり出されて、四肢すらばらばらにされるほどの餓えの気配が私に突き刺さる。
 半泣きで崩れそうになりながら、半ば小走りで鳴谷へと向かおうとしたその時――数えきれないほどの囀(さえず)りと羽ばたきが、私の耳を埋め尽くしていた……。

 

 暗がりの中。

「また帰るつもりなの? かすみは本当にばかだなあ」

 その声は思ったより近くから聞こえた。そしてあの夜と同じように私の手を摑まれていることに気付いた。
 また、あの時と同じように、どことも知れぬ闇の中に私は立っている。
 私を馬鹿にしたように笑う顔。
 あの子は六年前と全く変わらぬ姿、表情で私を見ていた。
 歳月は私にだけ訪れ、身長差は大人と子供のようだったけれど、六年の歳月は私を成長させていた。この子が外見そのままの子供ではなく、むしろ普通の大人よりずっとかけ離れた存在であることが、その異様な気配から伝わってくる。
 そして二度目なので、動転していたあの頃には気づかなかったことにも気づくことができた。

(男の子だったんだ)

 あの頃は薄気味悪さが先に立ち、性別すら把握することができなかったけれど、整った顔の男の子なのだとやっと思い至った。一応自分のことを『ぼく』と称していたけれど、性別など思いもつかないほど人とかけ離れていたのだ。
 私はしばらくの間、呆然と彼を見下ろしていた。彼はあの当時と全く変わらないというのに、彼と対等に話せている気がしなかった。

「……手を放して」
「放すとかすみが死ぬよ?」

 とんでもないことを当然のように言ってのけた。

「どういうこと?」
「かすみが山犬に見えないのは、ぼくが手をつないでる間だけだから」

 その言葉を聞いた時、問うべき言葉を思い出す。

「君は……夜雀?」

 低い声で、勇気を出して問いかけたつもりだった。
 でも彼にとって、私の緊迫など何の意味もない代物らしく、楽しそうに、意地悪そうに笑う。私を見上げる彼の眼は赤く輝き、人のものとはとても思えなかった。

「そんなことを訊く人間がいるんだね」
「違うの?」
「違わないけど」

 彼、夜雀の声は嬉しそうにも感じられた。

「でも、帰らない方がいいのは本当だけどね」

 そう言うと夜雀は私の手を引いて歩き出す。

「どうせ信じてないんだから、見てみればいいよ」

 少し拗ねたような声で夜雀が漏らしたのが、外見相応の子供のようで、むしろ違和感が増した。
 何を、と問いかける前に、私の足の側を何かが通り抜けていく。その何かから生じた強い風が私の足の皮膚をわずかに削っていった。

「なるべく声は出さない方がいいんじゃないかなあ」

 深刻そうでない忠告を気に留める余裕はなかった。
 何匹も何匹も、私の側を駆け抜けていったそれは――犬の姿にとても似ていた。

(でも、犬……じゃない?)

 実際に見かけたり、写真や映像でみる犬とは違う、異様な形に見える。時折シルエットがもろりと崩れ、内臓にも蔓にも似たものが姿を再構築したり、再び崩れたりを繰り返していた。あれが、山犬なのだ。鳴谷の地では『あれ』を山犬と呼んでいたのだ。
 もちろん、あんな異様なものから助けてくれることができる夜雀も、善意で見れば可愛らしく見えなくもない、人間の男の子のような姿とは裏腹の存在に決まっている。
『あれら』が暗闇の中へと遠ざかり、消えていった。

「じゃ、行こうか」

 山犬がいなくなるのを待っていたらしい。
 夜雀は楽しそうに鼻歌を歌いながら、私の手を引いたまま夜を導く。
 この暗がりはたった今まで夜雀と二人立っていたのとは違う、幼い頃から馴染んだ闇だ。
 今まで彼と話していたあの暗がりは、鳴谷へと向かう道ではなくて、どことも言えない場所だったのだと痛感させられた。
 夜雀と共にいたはずの場所から、鳴谷の集落が見えるほど近くまで歩いてくるのに十分もかからなかった。
 歩いていた時には思い出せもしなかったのに、そこが本当に鳴谷のすぐ側だとやっと気が付く。
 ぎりぎりまで気付かなかったのは新しい建物が建って風景が変わったとか、そういう意味ではない。
 とんでもない異臭がするせいだ。
 獣臭いのと、大量の血をぶちまけたような臭いが、どこからか漂って……いや、噴射しているようだった。

「やってるなあ」

 夜雀はそれこそ友達が先に来て遊んでいるかのように、楽しげに笑ってみせる。
 何を『やってる』のかは、ほどなく理解できた。
 ガラスの割れる音、人々の断末魔。猛々しい野犬のように聞こえる咆哮。当たり前みたいにそんなものがあちこちの家から響いてくる。
 ふらりと倒れそうになったけれど、夜雀が私の手を摑んだまま、くいっと引き上げる。本来なら支えられないはずの、自分より大きな人間を危なげなく支えている。

「これ……」
「うん、そう」

 掌の力をかすかに強められる。
 それだけで互いに通じた。
 どんな理由かは知らないけれど、夜雀が私を山犬から助けようとしたことは間違いないようだ。
 そして私が夜雀の手を放せば、阿鼻叫喚の騒ぎがたった今起こっている現場へ降り立つのだ。
 誰かの叫び声が聞こえる。
 当然、聴き憶えのある声だ。鳴谷には知らない人間は一人もいない。響く断末魔は全て知った声なのだ。
 もし私が人であれと願うなら、夜雀の手を振りほどいて走り出し、人として死ぬべきだった。でも私はただ立ち尽くし、その声を聴いているばかりだ。

「かすみ、どうする?」

 その無邪気にすら聞こえる声からは、このまま遊ぶか家に帰るかと問いかける程度の深刻さしか感じない。
 私はしばらく黙っていた。
 もう鳴谷に戻っても、お父さんもお母さんもいない。二人の死後、面倒を見てくれたやさしい伯父さんも伯母さんも、既に山犬に喰い殺されているだろう。そうでなくても今から確実に殺されるのだ。
 今から走っても、せいぜい共に喰い殺されてあげることしかできない。まるで、他人事のように馴染んだ場所に響き続ける断末魔を聴き続けている自分が、人として最悪なんじゃないかと思わずにはいられない。
 なのに生の恐怖、嫌悪というにはほど遠い感覚だけしか湧いてこないのだ。
 それに私にはもうひとつ気になることがあった。
 前に両親が殺された時、夜雀は現れた。
 そしてこうして鳴谷の人々が殺されつつある時にも、夜雀はやってきた。

(もしかしたら)

 言い伝えでは夜雀は山犬の先触れ。夜歩く者の後ろをどこまでもどこまでもついてくる。
 もし、何かのきっかけで山犬の現れる場所に私が行くたびに、これと同じことが起こるのではないだろうか。
 何度でも、何度でも、私の周囲の人間が山犬に殺されようとするたび、夜雀は私に逢いにくる。こうして何度も夜雀と手を繋ぎ、どことも知れぬ暗がりを歩くのだ。

「ねえ、もし私がここで山犬に襲われて死ななかったら……次にも、迎えに来るの?」

 夜雀は初めて何も答えないまま笑った。だから私も『それはいつまで続くのか』などと馬鹿なことを訊かないことにする。

「私が死んだら『これ』は終わるの?」
「まさか」

 もう、それだけで充分だった。私の生き死にとは関係なく、いつまでも夜雀はついてくる。そして、私と共に再びどことも知れぬ闇の中を歩くことになるのだ。
 彼のあたたかくも冷たくもない掌を少し強く握る。

「君は、私をどこに連れていくの?」
「あの場所で手を繋いで、一緒に歩くだけかな」
「あの場所を? ずっと?」
「そう、ずっと」

 手を繋いで、終わりなんかない暗闇を歩く未来。
 それはそんなに悪くない。
 かつて両親が死んだ時にすら、悼みに身を任せることすらできず呆然と座っていて、世話になったはずの懐かしい人々の断末魔を聴いても他人事のようにぼんやりとしている自分には、そんな道行きの方がふさわしい。
 夜雀の望みが何なのかも知らない。でもそうして闇の中を二人で歩くのは、今の私にとって居心地の悪くない、痛みを感じずに済む未来のように思えた。

「うん、悪くないね」

 初めて手を引かれて歩いたあの夜からずっとあの闇の中にいた気がする。あの闇こそ懐かしい、居心地のよい場所であるかのように向こうへ『戻りたい』と思った。

「なら……行こう?」
「うん」

 夜雀は一度も浮かべなかった嬉しそうな表情で私に微笑み返し、今までよりやさしく手を引いたまま歩き出す。
 その瞬間、鳴谷の懐かしく悲惨な景色は、私がかつて存在していた世界と共に、とぷんと闇へと消え失せた。

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