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『落下症候群』試し読みページ

電子書籍『落下症候群』の試し読みを用意しました。
気になってる方、ぜひぜひこちらでチェックしていただけると嬉しいです。

落下症候群
著者 館山緑
表紙イラスト もぐさ
kindle、kobo、BOOK☆WALKER、BOOTHにて電子書籍発売中
定価400円

あらすじ通っていた塾の屋上から、生徒が一人飛び降りたのを目撃してしまった伊藤章生は、他校で流れている『勇気を代償に天使を買う』噂を知る。死んだ少年は『天使を買うために勇気を出して死んだ』のだという。
章生は『天使』と目された少女、美景や、事件の際に知り合った少年達と共に、連続して起こる事件に巻き込まれていく。

死んでしまった、壁画の作者である『彼女』の思い出と死を追いかけて、少年達は真実に辿り着く──少年少女の夏はどんな形で終わりを告げるのか。少年少女の死と傷をはらむ夏の日の物語。

    序章 壁画の前で
 
 つらいことがあると、彼女は人気のない時を見計らって壁画の前に立つ。
(ここには私の天使が立っている)
 そして、彼女はいつも無表情で壁画に描かれたうちの一人と向かい合っているのだ。
 
 何人もの子供が描かれた明るい壁画。
 その中央。一際目立つ場所に立っている少女の姿に、彼女はいつも心の中で話しかけるのが習慣だった。
 あれから数年、ここに描かれた少女も成長し、一際美しくなっていたし、彼女自身もあの時ほど無心にカンヴァスに向かうことができなくなっていた。
 ただ認められ、本人の気持ちとは全く関係なく、賛美されるだけの存在。
 かつての少女も、自分も、そんな他人の視線など全くお構いなしに暮らしていられたはずだったのに、今は二人ともあまりにも多く、重すぎる枷を付けられている。
 
 あの頃の、無邪気に笑う少女が好きだった。
 みんな彼女が好きだった。
 そして、描くことが好きなだけだった自分が懐かしかった。
 メランコリックな気分を彼女は振り払う。
(でも……今の私でも全てをなくした訳じゃない)
 少し無理してはいたものの、何とか彼女も笑みを取り戻した。壁画の中で微笑む少女のような、花の咲くような笑顔ではなくとも、それらしく見える程度に表情を作ることができた。
 それだけでも楽になったと言えるだろう。
 
(そろそろ約束の時間)
 駅前で恋人と逢う約束をしているのだ。
 急がないと時間に間に合わないかもしれない。
 彼女は壁画の前から離れ、小走りで校門の方へと駆けていく。
 その途中、ふと気になって校舎を振り返ると、美術室の窓にかけられたカーテンが揺れているのが見えた。
 
 彼女は黙って溜息をつくと、そのまま駆け出した。
(早くあの絵を……あの子に渡したいな)
 思い起こした少女の驚く表情は、今の大人びたそれではく、彼女がよく知っている数年前のものだった。
 ずっと前から考えてはいたことだ。こんなに明るい空を見ていると、そんなことも許されるような気持ちになってきた。数年のブランクを経て、今頃もらっても彼女は驚くだけだろうが、ずっとそうしたいと思って用意もしてあった。
 
 しかし彼女は、恋人と待ち合わせた駅に現れることも、『あの絵』を少女に渡すこともなかった。彼女を知る人達の誰一人として、その思いを知ることはなかった。
 
 ただ何も言わず、彼女はそこからいなくなったのだ。
 後で壁画を見上げた者は、彼女の影しか追いかけられないまま、多くの波紋が払われ、そして消えるまで、彼女の痕跡を追いかけていくことになる。
 
 今はただ、壁画に描かれた『天使』が微笑んでいるのみだ。

    ⒈ 落下の始まり
 
 なびく髪で、顔が見えない女の子。
 伊藤いとう章生あきおが『屋上の少女』に抱いた第一印象は、そんな風だった。
 
(つまんないな……)
 いつも通っている塾『仙波せんばゼミナール』の、夏期特別講習に参加している途中、章生は熱心な生徒とは言えなかった。
 後ろの席を割り振られたのをいいことに、講義の合間に考え事をしたり、クロスワードパズルを作って遊んだりしていたのだ。
 塾には、特に仲のいい友達もいない。通っているだけでげんなりしそうな気分だった。そんな章生が、退屈しのぎに窓の向こうを覗いている姿は、珍しいものではなかった。
 塾の入っているこのビルの向かいにも、同じくらいの高さのビルが建っている。どちらのオーナーも同じ人物で、外観もほとんど同じになっていた。
 もう既に見飽きた光景だ。
 毎日毎日うんざりする思いで隣のビルを見上げているのだ。中にいる時くらい別の景色を見たいものだ。そう思いながらも、他に見るものもなく視線をやった。
 予想外のものを見つけ、章生は眼を見開く。
 屋上に、誰かが立っていた。
 長い髪の少女が強い風に煽られ、押さえている姿が見える。
(あんなところで、何をしてるんだろう?)
 章生はすっかり講義のことは忘れ、窓の外を食い入るように見た。
 遠くから見るとやや痩せた感じの、章生と変わらない年齢の少女に見えた。服の印象からは小学生には見えないし、高校生というほど大人びてもいない。
 ただし、章生のようにガールフレンドもいない生活を送っている男子生徒ではなく、可愛い彼女と一緒に通学したりするような、女子にもてる少年なら、もしかしたら違う見解を抱いたかもしれない。
 少女はしばらく風と格闘していたが、やがて風もやむ。ほっとしたように笑うとおおざっぱに髪を整え、柵にもたれかかった。
 しばらく見ていたが彼女が動き出すこともなく、ぼうっと退屈そうにこちらの方を見下ろしているばかりだ。
 ただ、章生の視線に気付いている様子はなかった。
(何を見てるんだろう?)
 このビルに、見て面白い何かがあるとは思えない。暑い中、わざわざ屋上までやってきて覗くほどのものなど何もないのだ。少女が立っている同じ形のビルを見ても解りきったことだった。
 突然、少女が顔の向きを変える。
(わっ)
 いきなり眼が合ってしまった章生は、うろたえて反射的に手を振ってしまった。
 どうやらそれに気付いたらしい。
 少女が章生を見て笑いかけると、手を繰り返してくれる。
 章生も思わず笑い返していた。
「おいっ、伊藤! よそ見をするな」
 思ったより近くから、先生の声が響く。
「あ……っ」
「何をやっとるんだ。おまえがこの前のテストで全滅だったところだぞ。ちゃんと聞いておかないと、次からさっぱりだぞ!」
「す、すみませ……」
 章生はさりげなく、向こうのビルにいる少女へ視線をやった。
(あ、見られてる)
 よりにもよって、自分が先生に叱られている現場を見られたくはなかった。
 恥ずかしくてたまらなかったが、少女は一度頭を下げるとさりげなく視線を外し、章生が叱られている場面を見ないようにしてくれた。気を遣ってくれているらしい。
 しかし、その気遣いは章生自身があげた声で台無しになってしまった。
「ああっ!」
『何か』が視界をよぎった。
 同時にそれを見たのだろう。少女がしばらく硬直したかと思うと、素早く駆け去ってしまう。その時点でやっと自分が何を見たのかおぼろげに把握した。
 向かいの視線を遮るように落ちてきた何か。
 それが人の体であったことを章生がしっかりと理解したのは、一分以上後のことだった。
 
 
 当然ながらその日の夏期講習は中止されたが、章生が解放されたのは講習の終了予定時間からかなり経ってからだった。
(……こんなのありなのか?)
 応接室のスペースを利用して、目撃者として警察に話をした後、章生は荷物を取りに教室へ戻ってきた。
 死亡したのがこの塾の生徒だったことを警察から知らされた時には、ショックで口をきけなくなってしまったほどだ。自分のことを特にナイーブな性格だと思ったことはないが、眼の前に落ちてきた人間が、自分の見知っていたかもしれない相手であることは、多少堪えるものらしかった。
 三崎みさきつよし
 自分より一学年上のその少年のことを、章生は知らなかった。もしかしたら廊下や自動販売機のあたりで顔を見たことくらいはあるのかもしれないが、名前だけでは思い出しようがなかった。
 他の生徒達は既に帰ってしまっているので、章生の鞄だけがぽつんと残されている。何となくもうひとつ残っている鞄を探してしまい、章生は首を振った。
(三崎さんって人は、この教室の人じゃないんだよね)
 章生は窓の外を見て、何となく考え込んだ。
 向かいのビルにいたあの少女は自殺の現場を見て、驚いて逃げ出したのだろうか。だとしたら、もう二度と彼女を目撃することもないのかもしれない。人が死んだ現場に、わざわざ舞い戻ってきたいとは思わないはずだ。
(可愛い子だった……ような気がするのにな)
 顔は間近で見ないと解らないが、遠目のバランスからはとても可愛く見えたような気がする。
 章生は溜息をつきながら、しばらく窓の外を見ていた。
 
 ビルから出ようとする頃には、空は赤く染まっていた。そろそろ夕方の講義になるらしく、見憶えのある生徒達がちらほらと入ってくる。
 入口のところで、今日死んだ三崎毅と同じく三年生らしい二人組とすれ違った。どうやら今日の時間の話をしているらしい。
「三崎が落ちたのって……あそこだってさ」
「マジ?」
 疑わしそうに声をあげた眼鏡の少年は、どうやら夏期講習には参加していない生徒らしい。見た目からは優等生っぽい印象に感じられた。もう一人の黒いTシャツの、やや背の高い方の少年が指さした場所を、眉をひそめて見やる。
「そう言えばあいつ、殺されたって話があるんだよ」
「んなもん、誰に聞いたよ」
『殺された』という言葉に、章生は思わず硬直した。
 章生はさりげなく自動販売機の方に近寄り、ジュースを買う振りをして二人の話に聞き耳を立てた。あまりにも穏やかでない話だ。しかも、もしそれが事実なら、あの少女が無関係とは到底思えなかった。
 向かいのビルの屋上に人がいるのを見かけたことはなかった。
 初めてそこに人がいるのを見た時に起こった事故が、殺人なのだとしたら、章生が目撃したのは『殺人が行われた直後』になるはずだ。
 しかし、その場で何も買わずに突っ立っていては、二人に怪しまれてしまう。
 章生は慌てて自動販売機のスリットに小銭を入れ、ジュースを選ぼうとする。
 その合間にも年上の少年達の話は続いていた。
「ミカコがクラスの他の女に聞いてきた」
 Tシャツの少年が言った『ミカコ』というのは、彼らの同級生らしい。
 眼鏡の少年が鼻で笑った。
「おまえ、北森きたもりの言うこと信じてやりすぎ。カノジョだからって甘やかさない方がいいんじゃないのか?」
 冷笑を受けた少年は、むきになって反抗しようとする。
「そんなんじゃ……だけど、今回ばかりはおまえがそう言っても当たり前なんだよな」
「何言ったんだよ、あいつ」
 Tシャツの少年は大きな溜息をついた。
「ちょっと口にするのが恥ずかしい内容だからなあ」
「言ってみろよ、渡井わたい
 笑うなよ、と前置きしてから、渡井と呼ばれた少年がためらいながら口を開いた。
「三崎は『天使を手に入れるために飛び降りさせられた』って言うんだ……」
 荒唐無稽な内容に、思わず章生は何となく出していた指でそのままボタンを押してしまっていた。もちろん何のジュースなのかは見てもいなかった。
(うっ、これ、ミルクプリンソーダだ)
 苦しい夏期講習の途中、生徒達の罰ゲームとして流行している謎のドリンクを引き当ててしまい、章生は脱力してしまった。飲んだことがあるが『限りなくまずいに近い、おいしくない味』というのが印象だった。しかし、この状況で飲まないのでは、今まで立ち聞きしていたと公言しているようなものだ。
 章生は仕方なくプルタブを引いて開け、ミルクプリンソーダに口を付けた。
「はぁっ?」
 眼鏡の少年は明らかに馬鹿にした声色で反応した。
「おまえ正気か? いや、おまえというよりは北森か」
「そんなの知るかよ。その話題で女子達が大騒ぎらしいんだよ」
「外部受験しないからって、あいつらも暢気でいい気分だよ。お花畑すぎてついていけないな。ああ、馬鹿馬鹿しい。行くぞ」
 眼鏡の少年が話を切り上げると、二人は歩き出した。
「あっ……あの」
 通り過ぎようとする少年達に、章生は反射的に声をかけてしまっていた。
 二人がこちらに顔を向ける。
 そして渡井と呼ばれていた方の少年が口を開く。
「何、おまえ二年?」
「あ、はい……伊藤章生です」
 章生がぺこりと頭を下げると、二人の少年はそれぞれ渡井義之よしゆき小瀧おたき克彦かつひこと名乗った。
「さっきの話、聞こえちゃったんですけど、そんな噂が流れてるんですか?」
「おまえがあんなくだらない話するから、下級生まで惑わしてるぞ」
「小瀧うるさい。で、二年。何でそんなこと気になる訳」
 渡井は小瀧を黙らせると、もう一度章生に向き直った。
「……僕、ちょうどあの現場を目撃しちゃって、それで……何となく」
「もしかして、それで今まで居残り?」
「はい」
 渡井は申し訳なさそうに章生を見下ろす。
「俺らがこんなこと吹いといて言うのも何だけど、あんまり気にしない方がいいと思うよ。三崎、ここ最近おかしかったし、考え込んでてもしょうがないって」
「そう……ですか」
 章生がうつむくと、小瀧がこめかみのあたりをかきながら言った。
「そんな話、どうせ奥山おくやまの中等部ローカルの騒ぎだから、すぐ収まるさ。騒いでる奴らもただのドリーマーだし」
「奥山?」
「死んだ三崎、奥山の三年だから」
 要するに彼らは自分達の同級生の死亡事件を知って、その話をしていたのだ。そこまで聞いて何となく把握できた気がした。
「ま、嫌な現場見たのは気の毒だけど、すっぱり忘れろ」
「ありがとうございます」
 自分達の噂を気にしているせいか、二人とも初対面の章生のことを多少は心配しているらしい。小瀧はわずかに笑いかけると、章生の持っている缶を覗き込んだ。
「げっ。俺、これをうまいと思って飲む人間、初めて見た」
「そういうんじゃないんですけど……間違って押しちゃったんです」
「おまえ、今日のことといい、結構運が悪い方じゃないのか?」
「よく言われます」
「変なやつ。じゃあ、俺らそろそろ行くな」
 小瀧と渡井は手を振ると、建物の中に入っていく。
 章生は二人を見送ってから、掌の中にある缶ジュースを見下ろした。
(これ、どうしような)
 一口飲むだけでも変に甘ったるく、どうにも情けない気分になってくる。しかし、これをわざわざトイレなどに流してくるのも余計にわびしい。
 結局、章生は我慢して最後まで飲んでしまったのだった。
 
 
 三崎毅のことを考えながら歩いていたら、帰った頃にはすっかり遅くなってしまったが、母は何も文句を言わなかった。
「塾から電話あったわ。今日はごはん食べて、お風呂入ったら休みなさい」
「うん……」
 自殺の現場を目撃して、警察に取り調べを受けていた息子に対して、かける言葉が思いつかないらしいのは伝わってきた。章生が母の立場でも、気の利いた言葉など何ひとつ思いつかない自信があった。
 ミルクプリンソーダのせいか、夕食もあまり喉を通らず、風呂も早々に出てしまい、章生は自分の部屋に籠もって、ベッドに転がった。
 奇妙な事件。
 同じ塾に通う一年先輩の少年、三崎毅の自殺と、殺されたという噂。
 そして、向かいのビルから手を振った少女。
 何もかもに戸惑っていた。
(確か三崎さんも奥山っていってたっけ)
 奥山というのは正式には奥山学園という名で、幼稚園から大学まである私立の学校だった。エスカレータ式で進学できるはずだが、塾の前で話をした二人の言っていた通り、さほど学力は高くないので外部受験をしようと思う生徒は多く塾に通っているようだ。
 死んでしまった三崎や、今日話した渡井や小瀧は外部受験組なのだろう。
「三崎は『天使を手に入れるために飛び降りさせられた』んだって言うんだ……」
 章生は頭の中でその言葉を『天使を手に入れるために』と『飛び降りさせられた』のふたつに分けていた。前半分の、子供じみたほどのロマンティックさとは裏腹に、飛び降りさせられたというのはあまりに不穏すぎた。
『わたしが欲しいなら、飛び降りてみせて』
 あの少女が向こうのビルから、章生が顔も知らない三崎に笑顔で呼びかけている姿が頭に浮かんだ。
 三崎が笑い返し、屋上からダイビングする。恋する少女の笑顔を手に入れるために、たった数メートルしかない空間を跳び越えようとする──そんな異様な光景を想像してしまい、胸が悪くなった。
(あの子がそんなことをしたなんて決まってないんだから、勝手に固定観念を作っちゃうのはよくない)
 あの少女が屈託のない笑顔で手をちょこちょこ振ってみせていた姿を思い起こすと、自分の下世話な想像が申し訳なく思えた。他人を悪く思うのは、しかも、何となく印象に残っているだけの少女に嫌な役割を当てはめて想像するのは、あまりに抵抗がある。
 彼女のすんなりした体つきと長い髪は確かに『天使』をイメージしやすいが、三崎が彼女を手に入れるために、常軌を逸した死を選ぼうとしたと考えるのも嫌だった。
 その動機が死者への冒瀆への抵抗感なのか、話したこともない少女への感情からくるものなのか、章生自身にもまだ解らない。
(でも、また逢いたいな……あの子に)
 そんなことを思いながら、章生は眠りに就いた。
 
     ◇ ◆ ◇
 
 天使を手に入れたい人間は、いっぱいいる
 そのことを知っている人間と、知らない人間
 そして天使自身
 誰が一番幸せで、誰が一番不幸なんだろう?
 
     ◇ ◆ ◇
 
『彼女』は黙ってディスプレイを見ていた。知りたくなかった死と、自分のしたことが、誰と話すこともできない深夜にのしかかってくる。
 しかし、明るくなっても誰かに話すことができないのは一緒だ。学校の中は三崎毅の死にまつわる話で大騒ぎだった。
 明日になっても沈静化しているとは思えなかった。
(ああ、メールが……)
 もう走り出してしまったことは止められない。
『彼女』は受信したメールを読み始めた。

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