『ヒヅメ坂の子供達』試し読みページ

電子書籍『ヒヅメ坂の子供達』の試し読みを用意しました。
気になってる方、ぜひぜひこちらでチェックしていただけると嬉しいです。

ヒヅメ坂の子供達
著者 館山緑
表紙イラスト Neit
kindle
、koboにて電子書籍発売
定価400円


あらすじ
自分が恐怖を抱いているのは『ここ』だ。ヒヅメ坂だ──
もうすぐ秋の祭を迎える頃。閉鎖的な集落、ヒヅメ坂に住む少年、来(きたる)は何の理由も兆候もなく強い恐怖感が起こり、外に出ることが困難になった。
大切な四人の幼馴染み達と共に、何に恐怖しているのかを探ろうとするが、その合間にもヒヅメ坂は刻々と異様な場所へと変わりつつあった。その頃から徘徊しているらしい不審な女。家庭訪問に来た担任教師が体を引きちぎられて死亡した頃から、自分の周囲の人々が変化しつつあることに気付く。
このヒヅメ坂で何が起こっているのか。少年は自分の恐怖の根源を知ることができるのか?
クトゥルー神話をモチーフとした青春怪異譚。

序章  声
 
 多分そこは地上から数メートルほど離れている場所だった。
 赤ん坊の泣く声がいくつかの場所から響いている。
 一人、二人、三人、四人。
 彼らがどこにいるかはその位置からだと判別はできなかった。
 瞼を開いてはいたが、声のする方に首を向けることができなかったのだ。
 戸惑いを感じたタイミングに、すぐ側から泣き声とは別の含み笑いが聞こえた。
 悪意は感じない。どことなく可愛らしい印象すらある女の声だ。どうやらその女に抱かれて景色を見ているらしい。
 そう認識してほどなく、景色が見えた──はずだった。四人の赤ん坊がどうなっているのか見たはずだった。しかし見たはずの光景は視界に反映されず、見たらしいという体感のまま進んでいく。
 見えたものを把握できないまま、赤ん坊の泣き声と遠くから響く祭の歌だけが伝わってくる。
 
 それを夢だと気付いたのは、瞼を開けて自室の天井が見えて数秒経った頃だった。

第一章 境界と定義
 
 誰よりも解り合えて、一番多くを共有できる存在。
 横塚来にとって幼馴染みの少年少女四人はそういう相手だったし、四人もまた同じように思っていてくれていると断言できる。
 だからこそ来が何の理由も告げずに学校へ行かなくなってしまったことが、彼ら四人にとっても不思議で、何があったのか確かめたいと思ったのだろう。それは来にも充分理解できていた。
 来が不登校になってからほぼ十日。最初の二、三日は体調不良なのだろうとそっとしておいてくれていたが、いつまでも登校を再開する様子がないので心配したのだろう。多分仲間内のグループメッセージでいろいろ相談もしたあげく、今日押しかけてきたのは来にも想像できる。
「キタ、話したいから中に入れてもらっていいか?」
 一番近所に住んでいる藤生奏介が笑いかける。その後ろにはなるべく穏やかな表情を作ろうとしている天谷充香と、帰路の途中のコンビニで買ってきたらしい何かをぶら下げた瓦井龍太、居心地悪そうに視線を横に向けている浦野夕日子が立っている。
 全員の顔をこうして見たのも久しぶりだ。特にこの一、二年ほどは夕日子が一人でいることが増えたせいか、五人で集まったの自体は一年近く前になるだろう。最後は二年生の時に初めて模試に行く時に待ち合わせた時だったことを思い出した。
 大体同じ時間にバス停に集まることになるバス通学ならともかく、来達の通う中学校では生徒全員が自転車で通学することになっている。北関東の小さな町、砥草町の片隅にあるこの集落、ヒヅメ坂も土地だけはそれなりに広いので、隣接している坂ノ下の学校へ通う時にもいつも顔を見る訳ではない。徒歩通学だった小学校時代ならともかく、各人が自転車で通学するようになってからは全員が顔を合わせることはあまりなくなっていた。
「入れよ」
 放課後に家まで来てくれた四人の顔を玄関口で見ていた来は、必死に平静を装って彼らを中に迎え入れた。
 扉が閉まり、外気が入り込まなくなった時、大きく息をついていた。体全体の力がやっと抜け、自分が硬直しながら彼らと対峙していたことに気付く。
(誰も気付いてない……よな)
 この時間には父も祖父も帰ってきていない。もし誰か帰ってきていればどう返事をしたか解らないが、誰もいない時にみんなを追い返すだけの余力はない。
 それに今日こうして直接押しかけてきたのだ。彼らの性格的にもおとなしく帰るとは思えなかった。気心の知れた幼馴染みで親友と言ってもいい彼らに、すんなり納得してもらえるような説明ができるところまで考えはまとまっていない。
「きーくん、コップ借りるね」
「うん」
「ゆいちゃん、手伝って」
 充香が呼びかけると、夕日子はわずかな沈黙の後で小さくうなずき、そのままキッチンへ一緒に歩いていく。男子三人で残されたが前に龍太、後ろに奏介が立っている。ちゃんと話を聞くまでは絶対帰らないつもりなのは伝わってきた。
 どのみち自分の状況や思いについて知られたくないとまでは思っていない。これが登校を促すために迎えに来たのならいざ知らず、そういう訳ではないのだ。彼らを追い返すつもりにもなれなかった。
「思ったよりは顔色いいんだな。安心した」
 前を歩く龍太がぼそりと呟いた。
「ごめん。みんなに心配かけたよな」
「キタだって俺達の誰かが同じ状況だったら心配すると思うよ?」
 後ろにいる奏介がぼやく。そう言われて初めて、この十日間ほど消息を絶っていたことを心から申し訳ないと思えた。
 来が案内するまでもなく、二人が歩き出す。仕方なく来も同じように自分の部屋へと歩いていった。
 少し間を置いて女子二人が戻ってくる。それなりに手際よく1・5リットルのペットボトルからコーラをそれぞれ注いだところで四人の視線が来に向けられた。
 自分の状況を秘密にしたい訳ではないが、うまく人に説明できるように嚙み砕いてもいない。ちゃんと言語化できるかは自信がなかった。
「……聞かずに帰ってくれたりはしないよな」
「それはいくら何でも怒るよ。わたし達、つらそうな時に何も言ってもらえないような関係じゃないよね?」
 珍しく充香が厳しい表情を向ける。本気で怒っているのではなく『怒ってみせている』だけなので別段怖くはないが、学校でトップレベルの美少女と誉れの高い充香に睨まれたら大抵の男子が萎縮するだろう。
 その言葉に繋げて龍太が口を開く。
「一応クラスで何か問題があったのかと思って気にして見てたけど、誰も来と揉めた様子はなかったんだよな。むしろみんな何でいきなり来なくなったんだって不思議がってた」
「まあ、そうだよな……」
 龍太は同じ3年2組に所属しているので、ここ数日教室内でかなり気にして生徒達の会話をチェックしていたのだろう。
 クラスメート達が来の不登校に心当たりがないのは当然だった。そもそも学校とは完全に無関係な理由で家から出ていないのだ。ただ、思っていたよりはずっと気にしてくれている人達がいるのだと軽く驚いていた。
「なあ、何があったんだ?」
 そう畳みかけられ、来は視線をコーラの水面に落とした。
 どう説明したらいいのか全く思いつかなかった。黙っている来に龍太、充香、奏介の三人が心配そうに視線を向けている。
 今までずっと黙っていた夕日子だけが、違う表情を浮かべていることに気が付いた。少しだけ不快そうに眉をひそめているが、何に対しての不快なのかは解らなかった。
「来君が話したくないなら、別に聞かなくていいんじゃないかな。こうやって一緒に来たけど、やっぱりそういうの何か違うと思う」
「ユイ?」
 奏介が戸惑った視線を夕日子に投げる。
 浦野夕日子はこの五人の中で少し浮きつつある存在だった。ここ二年くらいの間、他のメンバーと違って一人になりたい時間が増えたのか、あからさまに交流が減っていたのだ。今日同行してきたのも、他の三人に連れられて仕方なくなのかもしれない。
「私は──私達が来君に訊いていいことなのか確かめもしないで訊くのは嫌なんだけど」
 三人の間に困惑がよぎる。
 夕日子の意見はありがたかったが、こんな風に彼らを戸惑わせておくほど秘密にしたい訳ではない。
 来は無理に笑みを浮かべた。
「ごめん。別に言いたくないから伏せてた訳じゃなかったんだ。ただ、どう話したらいいのか解らなくて」
「そうなの?」
「馬鹿みたいな話に怒ったり、そんな訳の解らないこと言わないで登校しろとか言わないなら話せると思う」
「私は元々そんなつもりはないよ。みんなは?」
 三人がうなずいてみせる。
 来は眉を寄せながら、自分の感情や状況について無理に言葉をひねり出してみた。
「念のために言っておくけど、対人関係とかは全然問題ない。いじめられたとか受験のプレッシャーとかそういうのを心配してるなら、しなくていい。家族関係もいつも通り。ついでに言えば振られたとかもない。多分そういうのが少しくらいあった方が説明はしやすかった」
「体調とかは悪く……ないの?」
 充香が困ったように来を見やる。
「普通にしていれば具合が悪いってほどじゃないかな」
「じゃ、何がまずいんだ?」
 端的に問いかけられた奏介の言葉に、力ない笑い声が漏れた。
「怖いんだ」
「何が?」
「解らない。ただ、いきなり外に出るのが怖くなった。学校に行きたくないから行ってない訳じゃなくて、外に出るのが怖いから結果的に学校に行けてないだけなんだ」
 四人の間に重苦しい沈黙が流れた。
「何か、怖くなった心当たりはあるの?」
 充香がなるべく生々しい感情を出さないように努力しながら問いかけている。
「うーん……」
 思い出そうとしてみたが、特にきっかけがあったような気はしなかった。
「でも、理由なく何か怖いとかみんなに言っても納得してくれるか解らなかった」
「まあ、そりゃそうか。誰か一人で訊きに来てたら、何か問い詰めたりして失敗してそうな気はするな。俺もプリント届けに来た時にめちゃくちゃ問い詰めたかった。逢えなかったけど」
 龍太が苦笑した。
 同じクラスなので今回よりも前に、龍太は一度来てくれている。しかしその時には祖父の稔が受け取っており、顔を合わせてはいない。
「でも、外に出られなかったら生活するのに困らないのか?」
「まだ十日くらいだからそんなでもない。買わなきゃいけないものがあった時には父さんかじいさんが行ってくれたし」
「でもテストや模試があったら出なきゃまずいだろ。それに欠席が長引いたら受験にもマイナスになるんじゃないか」
「だと思う」
 このままでいいはずがないのは充分解っている。中学三年生なのだ。今のタイミングで受験に差し支える要素はなくしておきたいと切実に思ってはいる。
 しかし、それ以上に訳の解らない恐怖感が先に立ってしまう。
 うまく説明できる言葉はやはり出てこないが、何も伝えないで帰すのは彼らを──みんなとある程度距離を置いている夕日子以外の三人を悲しませるのではないか。それが重荷になって、来は無理に言葉を絞り出す。
「本当に何も心当たりがないのに、嫌な夢を見たり、外に出るのも怖いんだ。洗濯機に乾燥機が付いてなかったら、多分洗濯物を干しに庭に出るのも怖くてそこから破綻してる」
「……そこまでしんどいんだ」
 奏介が呆然とした声で呟く。
 洗濯乾燥機を導入したのは二年前、祖母の敬子が山から下りてきた猪に襲われて大怪我をし、数日後に死亡した頃のことだ。それまでは外に干していたが、家事を担っていた祖母以外は家事の不得手な男ばかりで手が行き届かず、なるべく省力化できるように家電を多めに入れたのだ。
 母はいない。死亡したなどの理由ではなく、元々母は一緒に住んでいないのだ。父、丈司に母のことを訊いてみたことがあるが、今は県内で一番栄えている納賀宮市内で生活しているとぼかした話をしてくれた以外には何の情報もなかった。出ていく前の写真や身の回り品なども全く残っておらず、母が選んだ調理道具や家電などもひとつもない。
 家事を担ってくれる家族がいなくても、とりあえず家電が多いおかげで、今のところは家から一歩も出ずに済んでいた。
 ただ、これからずっと閉じ籠もっていることはできないだろう。週二回の簡単な買い物と掃除、来た日の夕食作りだけはヘルパーの女性がしてくれるが、それ以上のことは家族三人でどうにかしなければならない家庭だ。学校に行けない来の面倒を細かく見るのは、会社員の父にも、ヒヅメ坂に隣接している坂ノ下の造園会社で嘱託の仕事をしている祖父にも無理だろう。
「できれば行った方がいいのは解ってるんだけど、ドアが開く音だけで吐きそうになるとか、自分でもちょっとまずいレベルだから」
「何が怖いのか解らなくてそれだったら、努力したり、解決したりもできないよね……」
 充香が悲しそうに来を見やった。
 何が怖いのかはっきりしていれば、対処できなくはないのだろうか。
 ある日いきなり外に出るのが怖くなっていたので、解決方法や恐怖の原因すら見当も付かずにいる。
 龍太が気遣わしげに口を開いた。
「なあ、これからはなるべく平日には毎日誰か一人でも顔を出しに来ないか。どのみち学校で渡されるものもあるんだし、誰か来なきゃいけないんだ。それに来も外と切り離されて時間が経ちすぎるの、やばいと思う」
「いいのか?」
 毎日となるとかなりの負担がかかるはずだ。受験の時期にそこまでの負担をかけさせていいものだろうか。心細そうな視線をみんなに向けると、多少一人にしておいた方がいいと思っているらしい夕日子も含めて全員がうなずいた。
「とりあえず誰も都合が付かない時には俺が来る。俺が駄目な時には必ず他の誰かに頼むから、基本は毎日誰かが来るものだと思っておいてくれ」
 来は小さくうなずいた。
 本当は玄関の扉を開けるのすら怖いが、みんなの思いを無にしたくない。何とか我慢したかった。
 そんなことを話した後、四人は横塚家から去った。
 彼らが使ったガラスのコップをキッチンのシンクまで持ってきて洗い始める。
(こんなに人と話したの、久しぶりだな)
 物心つく前からずっと親しくしてきた幼馴染みだ。心配をかけたくはないが、心配してくれたこと自体はとても嬉しかった。何となく面映ゆい気分で最後のコップを洗ったところで玄関の呼び鈴が鳴った。
「キタ、もう少し話さないか?」
「うん」
 インターホンから奏介の声がする。コップを伏せて玄関の扉を開けに行った。
 鞄だけは自宅に置いてきたらしい手ぶらの奏介が笑っている。後ろ手にすぐ扉を閉め、靴を脱いでいた。
「コップ洗い終わったんだけど、コーラの残り飲むなら拭く」
「中途半端な分残ってたし、飲もうか」
 奏介は家がすぐ側なだけあって、四人の中では一番親しくしていると言ってもいいだろう。こうして戻ってきてくれたのも、みんなと一緒にいる時には話しづらいことでもあったからかもしれない。
 それまで五人がいて手狭だった自室は、少しだけ広く感じる。さっきまで座っていた位置にそれぞれ腰を下ろした。
「人とまともに話したのが久しぶりだったから、何だか変な気分だよ」
「呼べばみんなで来たのに」
「どう話したらいいのか解らなかったんだ」
 奏介は溜息をつくと、来に注いだコーラを手渡してくれ、自分にも注いで飲み始めた。
「でも、本当に何も心当たりないのか? いじめられてるとか悩み事があるとかじゃなくてもさ」
「うーん……思いつかない」
「でも、ドアを開けるのも怖いって相当だろ? 絶対何かあるはずなんだよ」
 奏介の意見も当然だった。
 来は当事者なので恐怖自体のダメージに当てられていたが、何も理由がないまま強い恐怖に苛まれているのは奇妙に感じられるはずだ。
「精神的に怖いことがないなら、体調とかのせいで怖く感じてしまってるって可能性もあるだろ。うちの母親が低気圧だと滅入ってたりするのとか、女子が生理重たいとイライラしてるみたいな感じで」
 考えてみなかった視点を提示され、来は眼を丸くした。
 奏介は顔立ちが整っていて明るい性格なので、女子にもかなり人気がある。中学に入学してから三人くらい付き合っている女性が変わったはずだ。最新の恋人については特に興味もないので知らないが、こういう視点がさらっと出てくるのはある意味ありがたい。
「そういうのじゃなくても、体のどこかに不調があってメンタルに来る病気ってそれなりにあるみたいだからさ。心当たりゼロなら、そっちの可能性も少し考えておいた方がいいと思うよ」
「……そう、だよな」
 祖母が死亡した時以外で病院にはほぼ無縁だったが、何かあったら恐怖を堪えて通院する必要があるかもしれない。
「もう少ししたら中間テストの時期に入るし、何とかなるものなら本当は何とかしたい」
「俺達もいろいろ考えてみるし、解決方法を探すのを諦めたりはしないでほしい。それだけのことで何か変わってしまって、取り返しがつかなくなってから自業自得だろって突きつけられるの嫌なんだよ」
「まあ、努力はするけど」
 家から出ない限りはごく当たり前に生活できている。外に出ることを考えさえしなけれぱ恐怖感もほとんどなかった。だからこそみんなが気遣ってくれる空気の中で、自分の恐怖感について説明するのが難しかったのだ。
「学校行けなくてもグループの方にメッセージ投げておいて。そっちじゃ書けないことだったら直接くれてもいいし、なるべく消息見えるようにしておいて」
「大したこと書ける訳じゃないけど。家の中では別に何もないし」
「それでも状況が解らないよりずっとみんな安心するよ。ミツあたりは何日も心配してたし、ちょっと見ていられなかった」
 思ったより真剣な顔でそう言われる。
 奏介と充香は同じクラスなので身近で見ているのだろう。
「もしかして充香って俺が好きなの?」
 何となくいたたまれなくなり冗談で紛らわそうとしてみたが、奏介の表情に軽い怒りが混ざった。
「五人みんなで今まで通りに過ごせなくなりそうっていう心配だろ」
「だとは思ってた。ごめん」
「あんまり気軽に人を心配させない方がいいよ」
 好きだの何だのはともかく、幼馴染みがずっとそのまま仲よくいられるかどうかは解らない。志望校も同じではないし、この後進路も分かれていく。その後でも今まで通りいられるかは想像もできなかった。
 ただ、そうありたいとは思っていた。
 だからこそ、この原因不明の恐怖感を持て余しているのだ。
「じゃ、俺そろそろ帰るよ。キタももう少しみんなを頼ってくれよ」
「うん」
 奏介はわずかに笑って立ち上がる。
 そろそろ自宅でも夕食の準備をしている頃なのだろう。見送って扉を閉めるために来も一緒に玄関まで歩いていく。
 庭のあたりに自動車のエンジン音が近づいてくる。
 父の車の音だ。奏介が靴を履き、ドアノブを握る寸前に扉が開いた。
「あ、奏ちゃんか」
「お邪魔してます。もう帰るところですけど」
「ああ、そうなのか。今日はじいさんがヒヅメ祭の件で町会から戻ってくるのが遅くなるから、この後来も連れて何か食べに行けたらと思っていたんだが、よかったら奏ちゃんもどうだ?」
「家でもう夕食用意してるんで戻らないと」
「じゃ、途中まで乗せていこうか」
「ありがとうございます」
 ぺこりと奏介が横で頭を下げているのを見て、来は身構えた。
 外に出るのは怖い。今も扉が開いたままであるだけでもプレッシャーを感じているくらいだ。比較的動転せずに済んでいるのは、自宅の中なら部屋へと駆け込めるからだ。しかし、父にも料理を用意するのが負担になる時はあるはずだ。実際、不登校になる前にはよく食事に連れ出してもらっていた。文句を言える筋合いなど何もない。
 奏介にしても、ここで来が「俺は残る」と言ったら内心つらい思いをするだろう。あの話をする前に外へ出ることを断るのと今そうするのでは全く意味が変わってくる。
 顔こそ向けないが、二人がこちらを気にしている気配が感じられる。緊張のあまり、からからに乾いた粘膜を無理に唾液で潤すと、その様子に気付かなかった振りをして無理に笑った。
「──行こう」
 久しぶりに外気の中に足を踏み出すと、全身の毛穴が痛いような感覚があった。錯覚なのだと解っていても、空気に触れる肌がひりつき拒絶する。
 それでも友達の前で恐怖に泣きわめく姿を見せたくなかった。
 強張った笑顔を必死で保持しながら、父の自動車に向かって歩く。
「ごめん。こっち乗る」
 一番近かった後部座席のドアを開け、慌てて乗り込むとそのままドアを閉める。奏介は様子の異様さを指摘することなく反対側のドアに回り込み、来の隣に座った。
 シートベルトを締める手がいつの間にか汗でべたついている。
 外に出るのが怖いとみんなに告白するだけでもプレッシャーはあった。しかしこうして実際に外に出るのは恐怖と緊張が段違いだ。奏介と父がいなければ、突っ伏して眼を閉じてしばらく震えていただろう。
「ドアも窓も締まってる。大丈夫だから」
 そう言うと父はエンジンをかけた。
 ゆるゆると車が動き出す。
「キタ、具合悪いか?」
「具合悪いというよりは、本当に怖い。でも窓が閉まってるからだいぶましっぽい」
 閉ざされた空間にいるのだと感じられ、少しずつ安心が戻ってきた。
「みんなにみっともないところを見せたくなかったんだけど。ごめん」
「むしろ俺達も謝らなきゃいけないところだよ。キタがここまでつらいんだっていうの、やっぱりちゃんとは解ってなかった……でも、少し安心した」
「安心?」
「とりあえず車でなら一応外に出られるんだってことが解っただけでも大きいだろ。こんな風に少しずつ問題を解決していけば、何が大丈夫で何が駄目なのか区別ができてくると思うし、俺達にできることもあるかもしれない」
「奏介」
「キタがつらいのはみんなだってつらいから」
 何か返事をしようと思った時に、車が停止した。
「ここで降ろすよ」
 もう奏介の家に入っていく道まで来たらしい。
「じゃ、またメッセージ入れとく」
「うん」
 奏介はドアを開けて降りると、手早く閉めてくれた。開いていたのはわずかな時間だが、やはりかなりの緊張があった。それでも移動している間に多少の心構えができていた分、乗る時と較べて気が楽だった。
 来が手を振ってみせると、奏介も手を振り返して歩いていく。
 ややあって車が走り出した。
「何か食べたいものはあるか? 久しぶりに外に出られたんだし、好きなものを食べに行こう。今日は時間も早いし、何なら買い物も済ませていってもいい」
「まだちゃんと降りられるかどうか解らないけど、降りても我慢できるようだったら、買い物もできるといいな」
 閉じ籠もっていた間は意識していなかったが、やはり父にもかなり心労をかけていたのだ。そう思うといたたまれなかった。
「もし降りるのがつらいようなら、弁当か何かを買ってくるから無理はしなくていいぞ」
「……ありがとう」
 みんなが自分を心配し、気遣ってくれている。
 原因不明の恐怖感がこのまま消えていてほしいと切実に思った。
 どうやら車が向かっているのは少し行ったところにある総合スーパーのようだ。普段も大抵の買い物はここで済ませている。フードコートもテナントの飲食店もある。買い物もできる。そして駐車場はともかく、建物に入ってしまえば外ではない。駐車場を歩く距離が短ければ我慢できる可能性はそれなりにあった。
 もちろん「自宅以外に安全領域はない」という認識なら、自宅以外はどこでも怖いはずだが、こうして車に乗れているのだ。室内なら何とかいけそうな気がした。
「車駐めるの、建物の側にできそう?」
「この時間だと何とも言えないな。駄目そうなら二階か三階の駐車場なら少しましかもしれないから、そっちにしよう」
 総合スーパーが見えてきた。
 ほどなく敷地内に入ると、既に夕方のピークを過ぎているので建物から近い駐車スペースも空いているようだ。
「停めてみるか? 駄目ならすぐ二階のパーキングに行くから」
「うん」
 車は入り口近い駐車スペースに一旦停止した。まだエンジンは切らないでいてくれるようだ。ドアを開ける前に窓の開閉スイッチを少し押し、外気を入れてみる。
「……あれ?」
 かすかな風が流れ込んできても恐怖感がなかった。
 念のため広めに窓を開けて深呼吸したが、それでも問題はなさそうだ。
 来は窓を閉め、今度はドアを開けた。
「多分いけると思う」
「そうか」
 父の声に明らかに嬉しそうな響きが混ざった。
 そして来がアスファルトに降り立つのを確認して、自分も降りてくる。
「何か買いたいものがあったらまとめて買ってもいいからな。そっちを先に済ませておこうか」
「じゃ、文房具コーナーに行きたい。あと靴下とパンツの替え」
 文具は自宅から数百メートルほどの場所にあるコンビニでも買えるが、外に出られないのでその程度の買い物にも不自由していた。今まで不便なのをひたすら我慢していたのだと気付いて来は苦笑する。外に出るのが怖いあまりに、不便かどうかという部分について見ない振りをしていたらしい。
 結局父は文具や下着、靴下の替えだけでなく、新しい服や靴まで購入してくれた。ついでにシャンプーや洗剤もまとめて買った後、テナントのとんかつ屋に入って夕食を摂った。
 祖父は来月頭にあるヒヅメ祭の打ち合わせのため、仕事が早く終わった後に町会へ直行しており、夕食はその面々と済ませると言っていた。自分達の朝食も含めて持ち帰りの揚げ物を買って、大荷物を抱えて車に戻った。
「何だかすごく久しぶりに『いつも』みたいだ」
「よかったな」
 明るく笑う来に、父は嬉しそうにうなずいてみせた。
 
 
 なごやかな時間を持てたおかげか、車に戻ってきても来の気分はある程度落ち着いていた。
 もう外に出てしまったのだと思えば怖くないということなのだろうか。
(だといいな)
 一時間前には玄関の扉のわずかな隙間も、流れ込んでくる外気も恐ろしくてたまらなかったのだ。それが消えてくれれば本当にありがたい。
 しかし、何が恐怖の原因なのか解っていない現状では安易に期待はできない。
 今はあの生々しい感覚を呼び起こすことはできなかった。それでも怖かった記憶ははっきりしているので、どう処理していいのか解らないでいる。まずは帰るまで恐怖が戻ってこないのか、戻ってくるとしたらいつ、どんなことがあった時なのかを把握しなければならない。
 来は荷物と共に後部座席へと腰掛け、窓の開閉スイッチを押した。
「平気なのか?」
「今は大丈夫だけど──気になるから。怖くなったら閉める」
 窓は半分くらい開けておいた。いつでも閉められるようにスイッチに指を重ねてある。
「じゃ、何かあったら言うんだぞ」
 父はそう言うとエンジンをかけ、車を走らせた。
 窓が開いているので、夜を迎え、やや冷たくなった風も入ってくる。気構えてはいるが、家から出る時にはあれほどわずかな空気の流れにすら過剰に反応していたことを思うと平静と言ってもいいレベルだ。
 そして、みんなが来てくれたこと、来が今の状況から抜け出せるように本気で助けたいと思ってくれていることが心の支えになっている。
 だからこそみんなの思いに報いたかった。
 その一心で『怖くなるきっかけ』を探しながら意識を凝らす。
 信号を越えて、山の方に続く道へと曲がっていった。ここを入っていくとヒヅメ坂へと向かうのだ。
 山から吹く風が窓から入ってくる。
 どことなく甘い、花を思わせるかすかな匂いに気付いた。この時期には|金木犀《きんもくせい》が咲いているが、あの独特の香りではない。もう少し酸味のある、生っぽい匂いのようだ。
 匂いを識別した瞬間、ざわりと鳥肌が立つ。
 それと同時にこの数日ほど苛まれ続けてきた恐怖が一気に甦った。
 ものすごい力を込めて、指をかけていたスイッチを押した。力を入れたからといって早く閉まる訳ではないのに、それでも力を込めずにはいられない。
「あ、あ、ああ……っ」
「来!?」
「大丈夫だから、家に」
 それ以上言葉を続けることができなかった。
 口と鼻を掌で覆うが、顔が強張ったまま|瞼《まぶた》を閉ざすことができないでいた。
 既に暗くなり、ぽつりぽつりと建っている外灯に照らされて、祭の|供物《くもつ》らしい花や果物、野菜などが置かれているのが時折見える。普段なら祭の時期ともなると楽しい気分のはずなのに、とてもおぞましいものを見ているような気がしてならない。
 怖い。
 自分が恐怖を抱いているのは『ここ』だ。ヒヅメ坂だ。
 この地を踏み、空気に肌を撫でられていること自体に激しい嫌悪感があった。窓は閉めたものの、この後自宅へ駆け込むまでの時間について考えるだけで身がすくむ。
 喉の粘膜が乾いて、呼吸するだけで痛い。
 ただ、眼だけは閉じようとは思わなかった。
 自分の恐怖の根源を見落としてしまったら、後でもっと怖くなる。来は自分の二の腕を摑み、体の震えを抑えつけながら自宅の庭に車が入るのを見ていた。急いで家に入れるようにと思ってか、父は玄関のすぐ側まで車を寄せてくれる。
 車が停まり、来は駆け出した。
 走る間にポケットから鍵を取り出し、慌てて鍵穴へと挿し込もうとするが、震える指はまともに動いておらず、鍵穴の横にガチャガチャと当たる。泣きそうだった。
 父が手を貸し、来の鍵を正しく挿し込んで回してくれる。いつ側に来てくれたのかも解らなかった。
 こんなことすらまともにできないほどのパニックに陥っているのだ。
 扉が開いて、家の中が見えた。なのに脚がよろけて踏み出していけない。まるで脚の動かし方を忘れたかのようだった。半分倒れ込むように前へと移動して、何とか靴をひっぺがした。
 そのまま這うように中へと移動する。しばらくして足で立つことができるようになり、自分の部屋へと駆け込んだ。後ろ手で閉めた扉が大きな音をたてる。
「何で……」
 自分が恐怖を感じていたのは外界そのものではなく、生まれ育ったこの場所だった。しかし、ヒヅメ坂以外の場所へ行くためには、まず恐怖の根源であるこの地を抜けていかねばならないのだ。
 現状を解決する方法など何ひとつ思いつかなかった。

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