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僕のBoy PowerはGirl Powerから教わった

「死にたい」
最初にそう思ったのは中学生の頃だったかと思う。
その時すでに自分が好きになる対象が同性である男だということに気付いていて、周囲の求める男らしさに順応できないのがすごく苦しかった。

「女になりたい」
そう強く願った時もあったけど、高校生になる頃にはそれが自分の本当の望みではないのだということにも気付き始めていた。
男であること。
ゲイであること。
そのすべてに疲れ果てていたのだと思う。
女になりたいわけではなく、僕はただ男であることをやめたかった。

そんな10代の時、僕はその人と出会った。
名前はマドンナ。

16~17歳の時に、マドンナのこのライブ映像を見た時の衝撃は今でもハッキリと覚えている。
女が女らしさから解放された場所では、男も男らしさから解放されるのだということ。
そしてそれがこんなにもカッコイイのだということを知り、自分の様な人間はこの世界にたった一人なのではないかと思っていた絶望の中で生きる希望をもらった。

その後も自分らしさや自分の存在意義について悩んだ時、そのままのあなたでいいと教えてくれたのは何故かいつもマドンナや他の女性歌手たちだったのだ。
男らしさを強要されることが昔から嫌で仕方なかったけれど、自分が男性であることを認め、そして強さも弱さも知った上で男らしさの呪いを捨てる勇気こそがBoy Powerなんじゃないかと思えたら一気に生きることが楽になった。
そしてそれを教えてくれたのはあの頃僕を救ってくれた女性歌手たちのGirl Powerに他ならない。
そんな僕にBoy Powerを教えてくれたGirl Powerの歌い手たち10組をここで紹介していこうと思う。


マドンナ

彼女がすべての始まりだった。
上記ツイートで紹介した楽曲は1989年に発売された「Express Yourself」という楽曲で、直訳すると「自分自身を表現して」という意味になる。

ダイアモンドの指輪も18金のゴールドも必要ない
必要なのは自分を導く力強い手
二番目なんか目指しちゃだめ
自分の愛を試さなきゃ

つまり、男からのお恵みに頼らずとも女は自分自身の力強い手で道を切り開ける。
だから自分の幸せを妥協する必要なんてない。
彼にしっかりと気持ちを言わせると同時に、あなた自身もまたしっかり自分の気持ちを伝えよう――。
そういった強いメッセージを感じ取ることができる。

マドンナはこの曲を発売する前から女性が自発的にセックスを楽しむことや女性の妊娠についてなど、女性の選択の自由について数々の楽曲を残してきた。
その中でもこの曲はフェミニズムを真正面から取り扱った楽曲として、現在も彼女の代表曲の一つとなっている。

そして、この歌はセクシャルマイノリティである僕にもエンパワーメントとして響いた。
自分の幸せを諦めなくてもいい。
決して妥協しなくてもいいんだ、と。

どんな映画やドラマを見てもいつもゲイは悲劇的な結末を迎えて終了だったり、主人公の後ろで笑っているだけだったり。
自分の存在って誰かの人生を輝かせるためのお飾りや、誰かの息抜きに使われるピエロでしかないのかな。
そう思っていた僕に、“二番目なんか目指さなくていい”と歌ってくれた彼女の言葉は何よりもの救いだった。

そんなマドンナは存命中のアーティストの中では現段階で最もアルバム・シングルの総売り上げ枚数が多い歌手であり、男女の垣根を越えて頂点に立った人だ。
しかしながら2015年に出した「Joan of Arc」の中で彼女はこう歌っている。

今の私はスーパーヒーローになどなれない
鉄でできたハートだって壊れることはある
私はジャンヌダルクじゃない 今はまだ
私はただの人間

これまで幾度となく女性であるがゆえに叩かれてきたマドンナ。
現在も彼女は年齢を揶揄されるなどして相変わらず叩かれ続けている。
彼女の戦いは今も終わっていない。


ジャネット・ジャクソン

ジャネット・ジャクソンはマドンナと同じく80年代から第一線で活躍し、音楽シーンをリードしてきた歌手の一人だ。
以下のツイートを見てもらえれば分かる様に、ブレイク初期の彼女は徹底して肌の露出を控えており、ユニセックスな衣装や振り付けでパフォーマンスすることが多かった。
誤解を承知で言うと、いわゆる女らしさといったものを前面に押し出すことのない活動スタイルだったのだ。
それは兄マイケル・ジャクソンの妹という強大すぎる七光りを払拭するためには仕方のないことだったのかもしれない。

でも本格的に大ブレイクし、兄マイケルの七光りからも解放されて一人の女性歌手・ジャネットとして認知度を上げるにつれ、彼女は肌の露出や楽曲やダンスにおける性的表現を増やしていく。
その傾向はアルバムを出すごとに強まっていくのだが、それにつれてバッシングも増えていったらしい。
後に彼女は、女性差別と人種差別の両方によって酷い鬱病になったと告白している。

やがてジャネットは2004年スーパーボールのハーフタイムショーで乳首をさらしたことにより、それまでにはないレベルのバッシングを受けて活動は停滞していくことに。
しかし15年後の2019年、同じショーに出演したマルーン5の男性ボーカルが上半身裸で出演した時には何もお咎めもなく、男と女でどうしてここまで違うのだという論争が巻き起こったのも記憶に新しい。
ちなみに1986年に出された初期のヒット曲「Nasty」の歌詞には、その後の彼女が巻き起こすバッシングや論争の萌芽を見ることができる。

私の名前はベイビーじゃない、ジャネット
ミス・ジャクソン!

彼女が苛立ちながらも男性に向かって華麗に叫んだこの言葉は女性であり、そしてビッグスターの妹であることに苦しんだ彼女の魂の叫びの様にも聞こえる。
私を一人の人間として見ろ、という彼女の怒りはこの頃からすでに始まっていた。


スパイス・ガールズ

90年代に一世を風靡し、史上最も売れたガールズグループ。
スパイス・ガールズは“Girl Power”をキャッチフレーズにして、女性の結束や底力を時にポップに、そして時に「ナメんなよ」といったロックな態度で世界中に示してきた。

彼女たちが斬新だったのは、そして今見ても斬新な点は、メンバーの個性がビジュアル面でもバラバラだったということ。
通常グループとして活動しているアーティストがライブなどをする際には衣装の色や形をある程度合わせるのが当たり前という風潮があるが、彼女たちはそれを良しとしなかった。

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写真左から肉食系のちょっと怖いメラニー・ブラウン、笑わないクールなヴィクトリア、ガーリー全開のエマ、スポーティーでパンツスタイルが多いメラニー・チズム、そしてセクシーむんむんのジェリ…とキャラクターも見事にバラバラ。
そんなバラバラのままにそれぞれが輝きつつ、たまにはぶつかり合いながらもガールズはいつだって強い結束を見せられるということを、スパイス・ガールズは証明し続けてきた。

そんな彼女たちのデビュー曲でありながら、聴けば誰もが知っている代表曲「Wannabe」で連呼される“欲しいものを教えてあげる。だからあなたの欲しいものも教えて”というフレーズと、“私の恋人になりたいなら私の恋人とも仲良くして。友情は永遠だから”というサビの歌詞。
ここにこそ彼女たちが身をもって示してきたGirl Powerの真髄を感じる、と言ったら大袈裟だろうか。
自分の個性を殺すことなく120%そのままに生かし、それでいて他の仲間のことも尊重する彼女たちの姿勢は正にPowerそのものだった。

なおメンバーのメラニー・チズムは腕に「女力」というタトゥーを入れている(この記事の見出し画像も彼女)。
偶然か必然か彼女がGirl Powerを「女子力」ではなく「女力」と定義したことに対し、いつも心の中で小さなガッツポーズを取りたくなってしまう。
そんな思いを込めてこの記事でもこのGirl Powerという言葉をあえて使わせてもらった。

そう、Girl Powerはそのまま直訳したらいかんのだ。

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TLC

全米で1000万枚以上の売り上げを記録したアルバムを保持するガールズグループはTLCただ一組。
それだけの人気を得た彼女たちだったが、決してお飾り的なポジションにとどまることはなかった。
むしろデビュー当時の彼女たちは前時代的なセックスアピールなどどこ吹く風といった感じでダボッとした格好をし、コンドームをアクセサリーにしてセーフセックスの重要性を訴えるなど、それまでのガールズグループの概念をいとも簡単にぶち壊した。

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日本でもヒットした1999年の「No Scrubs」は、興味ない男からの口説きにハッキリと真正面からNOを叩きつける辛口ソングだ。
その後、こういった勘違い男へのNOをつきつける歌が急増するきっかけにもなった。

その一方で自分の容姿に自信を持てない女性に寄り添う内容の「Unpretty」という曲も出しており、スパイス・ガールズと並び90年代の音楽シーンでGirl Powerを発揮するビッググループの一つである。
なお、彼女たちの作品については当時15歳だった僕が音楽フリーマガジンに投稿した文章の方がよく表現できているので、こちらを参考代わりに載せておく。
この時からGirl Powerには本当に助けられてきたんだな…。

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浜崎あゆみ

ここまで海外歌手ばかりだったが、日本にもGirl Powerを体現する人がいる。
それが浜崎あゆみだ。

日本のソロ歌手の中で最大のCDセールスを誇り、その歌詞の分析も何かとされる彼女だが、フェミニズムという枠組みで語られる機会は個人的にあまり見たことがない。
しかし実は彼女、そういったテーマの曲をいくつも出している。
彼女が真っ向から女性へのエンパワーメントを歌ったのは2002年の「Real me」が初めてではないだろうか。

a woman never runs away
a woman never hides away
in order to survive
戦いもせずに
癒し求めるもんじゃない
a woman never shoes her fears
a woman never shoes her tears
in order to survive
涙はたやすく
誰かに見せるもんじゃない
「Real me」

その後も2004年の「my name’s WOMEN」

わかったような顔して
全て支配したつもり?
私達夢ばかり見てる人形なんかじゃないってば
満足そうな顔して
うまく誤魔化したつもり?
そんなにも単純な生き物じゃない事を
覚えていて
「my name’s WOMEN」

そして2010年の「Sexy little things」、「Lady Dynamite」。

オンナはいつも何も知らなくって
潤んだ瞳で頷いてるだけだって
(思っているなら)それは大きな間違い
だってあなたはこの手のひら
「Sexy little things」
悪いけど黙っててくれる?
アタシ達の声が聴こえない
どうしても喋りたいんなら
ママに言ってね 坊や達
「Lady Dynamite」

「Real me」では同性である女性を応援し鼓舞する内容だったのが、「my name’s WOMEN」では自分を下に見る男性へ向けて怒りを表明し、さらに「Sexy little things」「Lady Dynamite」ではもはやそういった男性と同じ土台にすら上がることすら拒否し、どんどん先へ進んでいく余裕すら見せるのが痛快だ。
中でも特に「my name’s WOMEN」で彼女があらわにした怒りには僕自身も覚えがあった。

何故だろう、どうしていつもゲイって画一的な単純な生き物だって思われるんだろう。
でもどうしてそういうことに対して怒りをあらわにするよりも、上手く笑いに変える方が良いって言われるんだろう、と。

そんな想いに対し、あゆが教えてくれた答えはこれだった。
“怒っていいんだよ”

ちなみに彼女がLGBTイベントとしては最大規模の東京レインボープライド2018にゲストとして出演し、ライブを行った際に語った言葉がある。

マジョリティが勝ち組で正しいわけではないと私は思っています。これから先、生きるのに諦めそうな時があっても、この日のことを思い出して、こんなに楽しそうに集まった仲間が頑張っていることを思い出して進んでほしい。私もマイノリティとしてこれからも歩んでいきたいと思います。

彼女のこの言葉に一部メディアから「なんで浜崎あゆみがマイノリティなんだ?」というバッシングが起こったが、あゆをずっと聴いてきた人間からしたら痛いほどに分かる。
彼女がなぜマイノリティを自ら名乗ったか。
それはもはや説明不要だろう。

生まれて初めてゲイバーに行った日。
生まれて初めて整形手術をした日。
生まれて初めて大好きな人と二度と会わない決意をした日。
生まれて初めて風俗で働いた日。
人生の節目には必ずいつも彼女の曲が耳元で流れていた。
そしてこれからもずっと僕は彼女を聴き続ける。


hitomi

2枚目のシングル「WE ARE "LONELY GIRL"」では女の子が抱える漠然とした孤独を歌い、ブレイクするきっかけとなった3枚目のシングル「CANDY GIRL」ではほんの少しの心細さを感じさせながらも前向きに進んでいく女の子の姿を歌った。

Do you want Do what you want CANDY GIRL!
明るい明日を
悲しい時こそ笑っていてね 約束!
私は世界中でたった一人前向きだよ
もっと楽に生きてきたい

彼女が書いたこの歌詞だが、「私は世界中でたった一人前向きだよ」と超前向きな言葉を投げかけたと思った次の瞬間「もっと楽に生きてきたい」という孤独すら感じさせるフレーズで締めくくられる。
プロの作詞家だったらこうした矛盾すら感じさせる構成の歌詞にはしなかっただろうなと思う反面、この矛盾こそがきっと真実なのだろうとも感じた。
たった一人前向きだと言ってもそのすぐ裏側にある孤独に気付かないほど幼くもない。
だから自分で自分に約束をする――笑っていてねと。
そんなCANDY GIRLの存在に、ただ強くならなければだめなのかと思い込んでいた僕もまた励まされた。

そしてもう一つ紹介したいのが5枚目のシングル「Sexy」だ。
まず冒頭はこんな歌詞から始まる。

100対1の戦いでも
Heartから逃げずに目もくれずに
少し寂しげな瞳残すよ
なんとかやっていけるものでしょ

この後はI’m Sexyと連呼しまくり、ただひたすら自分がSexyであるという事実を全肯定し続けていく内容となっている。
そこに誰か男性の存在が見えるわけではなく、Sexyというタイトルながらも性的な要素を含む歌詞もほぼなく、自分で自分をSexyだと言い続ける中でその根拠となるものを何も描いていないのだ。
では彼女にとってのSexyとはいったい何なのか。
それは終盤で歌われるこの歌詞に現れている。

髪の色を変えて
いつだってSexyになれる

そう、あっけないほど簡単。
誰だっていつだって簡単にSexyになれるのだ。

ちなみにこの個人的エピソードを書くと反感を抱く方もいるかもしれないが、僕がゲイ風俗時代に出張でホテルへ行く際、最も聴いていた歌の一つがこの曲である。
何故かって?
だってこれを聴いていると無条件に自分がSexyだって思えるから。

hitomi自身にそういった狙いがあったかは分からないがこの曲から僕が受け取ったメッセージは、自分自身をそのまま祝福することがSexyそのものなのではないかということだった。
そこにいちいち根拠などなくてもいいし、男性からの性的ジャッジなんてものも関係ない。
誰かのためじゃなく、自分自身のために存在するSexyという概念を教えてくれた。

最後に、hitomiのアルバム収録曲「FAT FREE」の歌詞の一説で彼女の項目を締めくくろうと思う。

おとなしい女がイイなんて
都合がイイだけでしょ


シャナイア・トゥエイン

1997年に出した「Come On Over」というアルバムが女性ソロ歌手の作品として史上最多売り上げを記録し、カントリー界の女王の異名を持つシャナイア・トゥエイン。
日本の演歌の様に保守的なイメージの強いカントリーミュージックにセクシーな装いで登場し、新風を吹かせた人である。

そしてその1997年の大ヒットアルバムに収録されている「Man! I Feel Like A Woman」は正に女性賛歌そのもの。
その魅力は歌詞を見れば一目瞭然だと思う。

大声で叫びたい
抑圧したって良いことなんてない
少し列からはみ出てみる
政治的に正しい振る舞いなんかしない
私はただ楽しみたいだけ
完全にハメを外しちゃえ
自分がレディだなんてことは忘れて
男物のシャツにミニスカートで
ワイルドにキメていこ
アクションを起こして魅力を感じる
髪の色を変えてやりたいことをする
私自由になりたい
ありのままに感じるの
ねぇ!自分が女だって感じる!

この歌を初めて聴いた時、あぁいいなぁと思った。
もちろんこの歌は女性が自分を抑圧するものから解放されることについて歌っているので、男性である僕がそれをうらやましく感じるというのも変かもしれない。
だけど男らしさという檻の中から出たくて仕方のなかった僕からすると、正しくないことだと後ろ指をさされようとも自由を感じるためにその檻から飛び出していくシャナイアは本当に輝いて見えた。
レディだということは忘れて男物のシャツなんか着つつ、「ロマンスなんかいらない」と歌いながらミニスカートでワイルドにキメ、そして最後は自分をまるごと肯定するというこの歌詞がものすごく尊く感じられたのだ。

さらにこの曲のPVは、ロバート・パーマーの「Addicted To Love」という曲のPVを男女逆転させた作りになっている。
ここも見比べてみるとなかなか面白い。

ちなみに彼女は長年の結婚生活を送っていた夫に浮気をされ、それに随分苦しんだらしい。
でもなんとその後、夫の浮気相手である年下女の夫(シャナイアより年下の男前)と恋に落ちて再婚しているのだ。
もう正にMan! I Feel Like A Womanって感じじゃない?


アラニス・モリセット

アラニスは1995年に出したアルバムが大ヒットし、女性ソロ歌手として史上2番目に売れたアルバムの記録保持者となっている(1番は上記のシャナイア)。
アラニスのすごさはロックミュージックで女の怒りを忖度なしで包み隠さずぶちまけたという点にあるのではないだろうか。
そのすごさは彼女が世界的大ブレイクを果たすきっかけになった曲「You Oughta Know」の歌詞を見れば分かるかと思う。

新しい女って私の年上バージョンでしょ
その女ヘンタイなの?
映画館でフェラとかしてくれるの?
あんた死ぬまでずっと一緒だとか言っときながら
他の女とくっついてる今も生きてんじゃん
私がここにいるのはあんたに忘れさせないためだよ
あんたに捨てられてめちゃくちゃになったってことをね
思い知れ

ところどころ少々はしょって意訳したけれど、元の歌詞も大体こんな感じである。
しかもこの歌詞で歌われている男性は実在する相手で、日本でもヒットした某有名ドラマに出演していた俳優というのがまたすごい。
さらに2002年に発表した「Hands Clean」という曲では、これまた彼女が実際に10代前半で交際していた年上男性について赤裸々に歌っている。

「君が成熟しているせい」
「僕がいたから君は成功した」
「二人のことは誰も言わないでほしい」
「この罪は見逃してくれ」

こういった相手男性から吐かれたと思われる台詞を彼女は淡々と歌い、年上の男性からいい様に利用されていた過去(しかもそれは彼女の年齢を考えると間違いなく犯罪行為)を容赦なくあぶり出す。
こういった歌の影響もあり、アラニスは男性に対する怒りを時に生々しく、そして時に痛々しいまでに包み隠さず歌い上げる歌手というイメージが強い人だったが、その裏にある痛みや孤独もまた同様にさらけ出している。
僕が一番感銘を受けたのが、1998年に出したアルバム収録曲のバラード、「That I Would Be Good」だ。

私は素晴らしい、何もしていなくても
私は素晴らしい、親指を下に向けられても
私は素晴らしい、病気が治らなくても
私は素晴らしい、10ポンド体重が増えても
私は大丈夫、破産したとしても
私は素晴らしい、髪と若さを失っても
私は偉大だ、もう女王でいられなくなっても
私は高貴だ、何も知らなくても

歌詞ではこの様にひたすら自分を素晴らしいと言い続けている。
僕もこの曲のメロディに乗せて自分を素晴らしいと何度も心の中で言い続けてきた。
でもそれは決してただ手放しに自分が素晴らしいと思えたからなのではなく、自分を素晴らしいと言い聞かせるのと同じくらい周りからの心無い言葉も聞いてきたからだ。
だから何度も何度も繰り返される自己肯定の言葉は祈りそのもの。

歌詞は最後にこう締められる。

私は素晴らしい
あなたがいても、いなくても


ビヨンセ

男女平等は神話にすぎない――。
2014年にビヨンセがそう語っているのを聞いた時、釈然としなかった。
だってビヨンセ、あなたは他のどの男性歌手よりも稼いで地位も名誉も欲しいがままにしているじゃないか、と。
でもしばらくしてから彼女の2008年のヒット曲「If I Were a Boy」のPVを見て、はっとした。
この曲自体はずっと前から知っていたのだけどPVを見たのはだいぶ後になってからだったのだ。

たった1日だけでも
もし私が男だったら
朝はベッドから飛び出して
着たいものを着る

こんな歌詞から始まるこの曲。
PVの中でビヨンセはひたすら感じの悪い妻を演じている。

・夫が笑顔で朝食を出して仏頂面で手をつけようともしない
・同僚の男には過剰にスキンシップをはかる
・仕事や飲み会で帰りが遅くなり心配した夫が電話をかけてきても無視
・パーティー会場では夫が近くにいるのにも関わらず同僚の男といちゃつく
・浮気現場を夫に見られてもヘラヘラ笑って終わらそうとする

わぁ嫌な女だな…。
その思いが極限に達したビデオ終盤、急に男女の立場が逆転する。

・夫は妻ビヨンセが朝食を作ってもそれに手を付けようともしない
・始終仏頂面の夫
・同僚の女と会ったとたんに夫は笑顔を見せる

PVを見終えた時、ビヨンセが男女平等を神話と呼んだ理由が少し分かった気がした。
何故なら男が仏頂面で家を出るシーンを見た時、全く同じことをしていたビヨンセの時より嫌悪感を抱いていない自分に気付いたからだ。
それはあまりにありふれた光景すぎて、何とも思わない自分がいた。

自分の中のそんな偏見を教えてくれたビヨンセなのだが、もう一つ深く胸に響いた曲がある。
「Save The Hero」、ヒーローを救ってというタイトルがつけられた曲だ。
彼女はHeroをSheと呼び、女性のHeroが当たり前に存在していることを提示する。
しかしこれを最初聴いた時、Hero=男性と勝手に思い込んでいたので最初は歌詞が理解できなかったのだ。
その時点で自分の中の固定観念がどれだけのものなのか改めて気付かされる。

自分がゲイというマイノリティにいたことで踏みにじられてきたものとは別に、恐らく男というマジョリティの立場で踏みにじってきたものもあるのだろう。
Boy Powerという言葉を心に思い描く時、自分の中にある弱さと強さをこうして教えてくれたビヨンセをいつも思い出さずにはいられない。

誰がヒーローを救うの
彼女が世界を救った後に
誰が彼女を救うの
「Save The Hero」

紛れもなく、彼女こそHeroなのだろう。


アレサ・フランクリン

日本の音楽界には美空ひばりがいる。
じゃあアメリカには誰がいる?
そう訊かれたら僕はきっとこの人の名前を挙げる。
1960年代から活躍し、2018年に亡くなるまで現役を貫いたアレサ・フランクリン。

そんなアレサが1967年に出した、彼女の出世作にして代表曲である「Respect」をこの記事で紹介するラストソングとしたい。
歌詞はこれ以上にないくらいシンプルかつ明確だ。

あなたが家に帰ってきた時に私が欲しいのは
ちょっとしたリスペクト

“とにかく私はあなたからリスペクトされたい”
家に帰ってくる夫に対して妻の立場からそう何度も繰り返し歌う歌詞なのだが、リスペクトが欲しいという普遍的なフレーズによってアレサの歌はこの前後で活発化していく黒人の公民権や女性の権利を訴える運動を象徴する一曲となっていった。
ちなみにこの曲、元はオーティス・レディングという男性歌手が歌ったもので、アレサ版はそのカバーである。
オリジナル版とは微妙に歌詞が違っているのだがオーティス版はこうだ。

僕が家に帰った時に欲しいのは
ちょっとしたリスペクト

つまり夫の立場で、仕事を終えて家に帰ってきたら僕を立ててほしいんだといったニュアンスで歌っている。
それをほんの少しの歌詞改変と女性であるアレサの熱唱によって、自分の尊厳に対してリスペクトを求めるという気高き歌へ変貌させてしまったのがすごい。
そして黒人女性である彼女が歌の中で求めたリスペクトというものは、僕自身も自分がゲイだと気付いたあの日からずっと探し続けてきたものに他ならない。

もちろん僕は女性が味わう苦難を自分の苦悩として味わうことは決してできないだろう。
そして苦難を味わうことのない女性だって中にはいるだろうし、それは素晴らしいことであり、だからこそ女性というだけでそんな同情される筋合いはないと思う方もいるとは思う。
それはゲイについて語る時も全く同じで、僕がゲイ全体を語ることは決してできない。
あくまで僕が語れるのは“男らしくなれないナヨナヨした男は気持ち悪い”だとか、“ホモは頭のおかしい奴”だとか、間接的にいろんな人からそう言われ続けている内に失ってしまった自分自身の尊厳についてだけだ。

だけれど、社会の風習や男女にまつわる非対称な出来事を見ているとこれだけは言えるのではないだろうか。
異性愛者の男性というだけで得られるリスペクトというものがこの社会にはある、と。

別に特権が欲しいわけではない。
自分を踏みにじってきた人たちを踏みにじる側に回りたいわけでもない。
ただ異性愛者の男性たちが当たり前の様に普段の生活で得られているリスペクトを僕もただ欲しいだけなのだ。
そしてそれを堂々と表明することはなんらおかしいことではなく、むしろ当然のことだと教えてくれたこの曲は今日も僕の人生賛歌であり続けている。


大事なことはすべて女性歌手たちから教わった

男であることに疲れていた僕にとって、「君を守りたい」といった様な男らしさを歌う男性歌手よりも、「自分らしくいて」と歌う女性歌手の方がすんなりと胸に響いた。
だから今でも人生に迷った時、僕はスマホの音楽データの中にある彼女たちの曲を必死に探しまくる。
その楽曲たちはどれも彼女たち自身が人生に迷った時、自ら道を切り開いてきた歴史の1ページだ。
それらは十年数十年という時を超え、今日を生きる僕にとっての道しるべにもなってくれる。
死にたいと思っていた10代の僕を救ってくれた様に、30歳を過ぎた今の僕のことも変わらず励まし続けてくれるのだ。
大丈夫だよ、この先の未来は明るいよ、と。

だからいつも思う。
大事なことはすべて女性歌手たちから教わった。

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