働くということ=存在証明だった
こんばんは、ひーせです。
本日が2019年の仕事納めということで、ふっと社会人なりたての頃の自分を思い出してみることにした。
情報系の大学に進学した僕は初めてパソコンというものに触れた。
ピーピーガーガー
ピコンピコンピコン
当時の電話回線はアナログで、それをデジタルに変換する際に奏でられた音が今では懐かしいが、当時は画期的だった。
テレホーダイという23時~翌朝8時までの定額制のネットつなぎ放題の時間が当時の僕達には真剣勝負の時間で、皆で課題を共有したり、卒論をやったりするのは大抵徹夜作業だった。
時を同じくして始まった就職活動。
「就職氷河期世代」
今ではこのように語られているが、まさにドンピシャの世代だった。
今では当たり前のインターネットはなく、全ては手書き。
葉書を書いて資料請求しても、学歴で資料さえもらえない。
資料をもらえても、エントリーシートがもらえない。
エントリーシートを郵送しても返事すらもらえない。
書類についてもたった一文字間違えると全て書き直し。
一体何枚書いたか覚えていないくらい書いた。
資料請求は500社程度は応募してたかもしれない。
エントリーシートも100社以上は送付してたはず。
就職活動自体も6か月程度はしてた気がする。
それだけやって、やっとこさ1社の内定をもらえた。
当時の僕には「人生の選択権」がなかったのだ。
今でこそ「学歴フィルター」なるものの存在が明るみに出たけど、インターネットも普及していない時代に情報を収集する術がなかった。
悲しいけど最初から「情報弱者」でしかなかったのだ。
たった1社の内定通知。
これは、「僕という存在が認められた証」
これくらい重みのあることだった。
僕達の世代には、選択権がなかった。
常に選んでもらう側の立場であり、その舞台に立てないと一生出番は回ってこなかった。
就職活動というものを通じて、社会構造を刷り込まれ、会社が主で従業員はしもべであるという意識になっていた。
「働くということ=存在証明」
今の若者には理解できないかもしれないし、馬鹿にされるかもしれないが、自分自身がここに存在することを証明するために必死で働いていたのかもしれない。その存在を認めてくれるのは会社だった。
時は流れ、2019年。
その当時も面影はどこにもなく、いつでもどこでもネットで繋がれる時代になったし、自分がその気になれば色んな形で働ける時代になった。
自分自身で「人生の選択」ができる時代
これだけでも希望に満ち溢れている。
今の現状が辛かったり、未来が描けなかったりするかもしれない。
だけど、選択肢が用意されていて、それを自分で選べるというのは本当に幸せなことだ。
「働くということ」
この答えは自分の手で作り出せる!
こう考えるだけでもワクワクしないか??
時代は巻き戻すことができないし、やり直すことはできない。
だけど、これからの人生は自分の手で選択していきたい。
若い世代もそんな時代に希望を抱いて、どんどん選択していってほしい。
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