時間は有限である

時間は有限である。
そう考える人は、つまり、永遠に続きそうな妄想に囚われて、今現在をどうにかしようと誤認するもの、誤認している状態である。

自覚する、しないに関わらず一方的な評価を与えられ続けることを価値として覚えた人間は、「今」を「過去」や「想定しうる未来」、または「仮想の比較対象」と脳内で単純に比較し、この状態を自己診断可能な人でもある。

「誤認を継続していく」と感情は、途端に疲労を覚え、単純に「これは必要なのか、必要では無いのか」と、判断を下したくなる。そのような思考を欲する事になり易い。

特に、評価されにくい性質の職業や、テンプレートが全て用意され、想定される方法でしか処理が終わらない様な、単純な「対価」に換算される時が、一番の「自己否定」の始まりであり、「今まで自分を保ってきた勇気の休むべき時の始まり」である。

故にその様な無気力や無欲な、しかし時間の経過が把握出来ない状況に置いての今の自分には「精神的または肉体的に自由になる時である」と判断し、即刻「何もしない、栄養補給はお腹が減った時に摂る」と言う、比較的基本に戻らねばならない。

「他に向かって、何かを発信する」ということは、有限の時間を酷使するものである。

もちろん、この逆もある。
「他に向けられた発信物を読むにも、時間は使用される」のである。
故に、まとまって無さそうな形式の文章を散文と呼び、分類をしたり、日付を入れて日記と呼称したりもする。これらは、既に広域において標準の通念であり、常識である。

ほんの少し前まで、発信物というものは、何かしらの第三者の閲覧が入り、配信されていた。もしその内容に是非を問うものが含まれていた場合は、該当部署が担当して事後に処理を行った。

今は「校正」が、なんの役目であったかを忘れたかの様に、さまざまな人がさまざまな文章を書く様になった。自分の思いを書くもの、他人へ訴えるもの、感情を揺さぶろうと計算した文章を書くもの、さまざまな形式を、文字制限無しに書くことが可能になった。

つまり、読む側は「それだけの時間をかけて読まねばならぬのか、分からない状態で向き合う事になる」。
この方式は、既に「作法としては、よろしく無い事」と認識されているが、どうにも昨今中学を卒業する前に、崩壊するらしい。

そのため、口頭で電話を掛けることや手紙を手書きで書くことが、苦手な子供のみならず、大人まで増えているそうだ。

「時間がない」
そう無力に陥るならば、即刻その画面を閉じるべきだ。そして、凝り固まっているであろう肩や首の付け根を揉み解し、無用な熱を解除すべきである。

また、紙媒体でないものの情報発信は、脳の微細な神経をゆっくりと疲れさせていく。

紙は文字数やページ数が決まっているので、脳が
最初の一文字、または一行を読めばどれくらいの時間、その書物に没頭出来るか判断し得るであろうし、目次がつく。次にはどの章から読めば良いか、覚えていられる。

紙媒体でないものの情報発信物には、さまざまな罠やnoiseと言ったものが、記憶しないパターンで展開される。これが、リズムを狂わす。

再度言う。
時間は有限だ。
一般的に、広義に認められている期間や範囲は、決められている。
疲れたなら休め。
書かなくて良い。そして、読まなくても良い。
心が再び、激しくその行動を欲する時に、また始めれば良い。

「時間がない」と訴える君よ。
時間は有限である。有意義に使用すべきだ。
愛の言葉を失っているなら、愛とは何かを、感じることが先決だ。疲れているなら、休むべきは何なのかを目を閉じて、周りの世界がどの様な音になっているか、聞くべきだ。

君は覚えているだろうか。
夏の空に消えていく雲を。

君は思い出せるだろうか。
あの熱が一瞬冷める、日の出前の静けさを。

君は知っているだろうか。
その横顔を、一番に心配している人が居ること。


人は人だ。他の脳を持つ。他の思考回路を有する、別の人体をそれぞれに所有する。
1を聞いて1を理解するものもいれば
1を知って10を提供し続ける人もいる。
1を悟って、100を想定しうるものもいる。

その存在を認めることが「在る」と言う認識である。
そして、その「在る」をまず認めるのは、自分のことである。自分を知り、そして他に意識を向けていく。
これが知的成長をする人間の、正当な時間の使い方である。

脳に汗をかく、と言う言葉がある。
人間の身体と同じである。

休むべきだ。
そして、再び会おう。
この世界は、電子制御されない関係性も、重要なのだ。


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