外部化によって失われるもの

テッド・チャンの『息吹』を読み終えた。どの話も面白かったが「偽りのない事実、偽りのない気持ち」が一番印象に残った。主人公が娘に関する記憶を確かめようとリメン(Remem)というライフログを記録しておく装置を見て自分の記憶が如何に間違っていたかを発見するという話だ。それと並行して、アフリカのティヴ族にヨーロッパ人の支配が及んできて、紙に記録をするようになった時代の話が語られるという構成になっている。

個人の記憶の外部化によって何が変わるか?

自分の記憶というのは、結構いい加減なもので、主人公も娘との記憶をかなり自分の都合の良いように変更して記憶していたことをリメンによって理解する。主人公は、リメンに基づいて自分の記憶が間違っていたことを正すことを良かったとしているが、必ずしもそうなんだろうか?辛かった記憶を呼び出して、実はそうではなかったことを気づかせて治療するということは前からあるので、そういう辛い記憶がある場合は、外部化された個人の記憶を自分で参照できるのは良いかもしれない。絶望するだけになるかもしれないが。このリメンというシステムがどういうものかはっきりしないが、使い方は色々考えないといけないと思う。記憶を自分の都合のよいように変更しているのは、過去の記憶を現在の自分が生きやすいように解釈し直しているとも言え、それを外部の記憶に頼って訂正することで却ってうつになるかもしれない。また技術的な話として、外部化された記憶が誰かによって悪意に上書きされるかもしれない。皆が外部記憶が正しいと思うようになると、それを正しく記録されたものであるかの証明も必要であろう。

人間の歴史は外部化の歴史

話は少し変わるが、これまで、人類は色々なものを使って、自分たちの生活を外部化して来たというのが私に理解である。例えば以下のような感じである。外部化されることによってそれまでの蓄積を生かしてそこから先に容易に進むことを可能にして来たので、一度外部化してしまうと元には戻れないということもある。

紙 --> 共通の知識の外部化

貨幣 -->  信用の外部化

知識の外部化で起こったこと

テッド・チャンの話は、個人の記憶を外部化すると何が起こるかをメインのストーリーとしているが、私が興味をもったのはむしろ並行して語られるティヴ族の話だ。口承文化が記述文化にとって代わられる時の話だ。この話では、記述された話を正しいとする若者に対し、長老は自分の言っていることが正しい、紙に書かれたことと自分の言うことのどちらを信じるんだと言う。結局若者は長老の話を、紙に記述されたものより優先させることになる。ここでは、紙という圧倒的に便利なテクノロジーよりも、伝統的な物事の決め方や、部族での権威への崇拝を重視したのだが、結局歴史が証明するようにそれはいずれ消えていくのだということをテッド・チャンは語っているように見える。

失われた口承文化を取り戻す

ここで失われたのは、部族での長老に対する権威だけでなく、口承文化が持っていたある種の豊かさのようなものもあるのではないか。このリンクのインドの神話の話でも語られているように、口承文化の良さは、それが語られる度に色々なバリエーションを生み、その時代時代で新しく生まれ変わり得るということだ。その口承文化が持っていた良さをテクノロジーによって現代に蘇らせれば、新しい電子書籍の可能性になるのではと思ったりする。今の電子書籍は単に紙の置き換えなので、そうではなく口承文化の持っていた良さを現代に蘇らせるものになったら良いと思う。そういう関心から、言語の起源についてもう少し調べてみようと思うのだ。










人類の歴史は外部化の歴史

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は、上で述べた記憶の外部化というのがメインの話だけど、私が興味を持ったのはむしろ並行して描かれるテォヴ族が初めて紙を使うようになったという話だ。紙というのはテッド・チャンも書いているように口承文化を過去のものにしてしまったテクノロジーであるのだけれど、知識を外部化できるようになり、文明が発達することになった。

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