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往復note (9): 言いよどむものについて

Tさん、返信ありがとうございます。

私は、絵画も音楽もスポーツも差異はないと考えています。美の更新も身体の更新の一要素ですから。見えるものや言葉にできるものだけに惑わされない、そのことが何より重要です。差異を絵画や音楽の外から定義しても果たして意味はあるのでしょうか?彼らはするりと逃げて、また「宙ぶらりん」になります。この宙ぶらりんの状態になったり語ったりするのがまた難しい!だって言葉も宙ぶらりん………言いよどむしかないのですから。

そうですね。体験することと、それを言語で伝えることは全く別のことですし、体験しないとわからないことは多いですね。それでも言語で伝えようとする人が多くいるという事実は、人は何か感動するような経験をするとそれをどうしても言葉にして他人に伝えたいという衝動があるんだとも思います。

Kさんが何か言いよどむしかないものはありますか?次のnoteで、是非言いよどんでください。言いよどむしかない具体的な写真や絵などがあれば、それも添えていただけると嬉しいです。

言いよどむということについてこれまでの体験を振り返ってみると、圧倒的に自然の中で出会ったものが多い気がします。芸術作品でももちろん、言いよどむことはあるんですが、自然にあるものと芸術作品の場合は、言いよどむという経験でも何か違うように感じます。そもそも言いよどんでるわけなので、どう違うのかを言葉で伝えることがうまくできるかどうかわかりませんが、言いよどみながら(笑)書いてみます。

クラビ、タイ

上の写真は、2年前にタイのクラビで開催されたタイビエンナーレの際に撮ったものです。海の真ん中に空から岩が落ちてきたみたいです。異様です。実際に見るとかなりでかいです。どう見ても場違いです。自然って何かこういうぱっと見、あり得ないものを見せる時があって、それに対して何か反応しようとするんだけど、言葉にうまくならないことがあります。自分という存在がとてもちっぽけに見える時、何か他のことをすべて忘れてただ対象を見ること、そのことだけで居られてしまう時、その場での感じを後で言葉にしようとすると大事な何かが失われてしまいますね。

ワット・ポーの寝釈迦仏

次は人が作りながらも、なんでこんなもん作れるのというものです。写真はバンコクのワット・ポーの寝釈迦仏です。全長46メートルもあります。大仏とか観音菩薩とかでかいものがありますが、格別でかいです。さすが仏教国タイだなと思いました。巨大なものを前にするとうまく言葉にできないことがあります。だから巨大なものを崇拝する気持ちが湧くのかなと思います。逆にそこまで巨大なものを作ろうとするエネルギーを人々から引き出したものを目の前にすると一人の人間にとって崇拝せずにはいられないような感情を引き起こす何かがあるのかもしれません。
 宗教がタブーであったソ連で、巨大なレーニン像や巨大建築物が建てられたのも、政府に対する崇拝をそれらによってもたらそうとしたのかもしれませんね。只、そこには強制させられている感があるのでそこまで崇拝の感情が起こらず、逆に壊したいという感情を起こすようなものになっている気がします。

さて、芸術作品ですが、今年観た中では、豊島美術館の「母型」とクリスチャン・ボルタンスキーの「心臓音のアーカイブ」が印象に残っています。どちらも何と言うかじんわりと来るなという感じでした。

豊島美術館については以前少し書きました。

豊島美術館の「母型」は、作品それ自体というよりその場の微妙な空気の流れを意識させることで、自ずと自分の内側に思考が向かい、かといって考え込むというのではなく、ただ自分の存在と周りの世界ということをぼんやり考えてさせられていたという感じです。

ボルタンスキーの「心臓音のアーカイブ」は、そこを訪れた人が自分の心臓の音を録音してそれが暗い部屋の中でランダムに巨大なスピーカーから流れるというものです。最初はふーんという感じですが、しばらく聴いているうちにじわじわと何かを感じてきます。人それぞれ微妙に違う心臓の音を聴き続けていると中に一人でいるのに一人ではないような感覚になってきます。

芸術作品を観て言いよどむ場合、作品が何か自分の内なるものと勝手に対話を始めているような感覚があります。なぜ対話が始まったのかよくわからなくてただそれを眺めている、そしてしばらくしてこれはなんだろうと思い始める、だからすぐに言葉にならないといった感じでしょうか。

こうやって語ろうとしても言いよどむ体験を色々振り返ってみると、大きく外部の圧倒的な自然に対峙した場合と、内なる自然というか、自分の心の深いところにあるもの(唯識論的に言えば、末那識や阿頼耶識)に向き合う体験をした場合に分かれるのかなと思います。
 人の手によって巨大なものを作るということは、自然の中の崇高なものに近づきたいという人々の執念のようなものを感じるので前者に近いように思います。

自然から芸術へのインスピレーションについて

さて、Tさんへの質問ですが、しばらく前にTさんは虫取りをされ、また先日は海岸で貝拾いをされたりしています。上の話にも繋がるのですが、自然が作り出したものは、どうやっても作れないようなものがあります、そしてそれは芸術へのインスピレーションともなるのではと思うのですが、それが芸術家にとってどういう形で影響を与えたりしているのでしょうか、例えば制作にどのような形で反映されたりするんだろうかということに興味があります。Tさんは、自然と芸術の関係についてどういう風に考えているか聞かせて下さい。


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