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コロナ後の資本主義を考える

NHK BS1の『コロナ危機「グローバル経済 複雑性への挑戦」』を観た。ルチル・シャルマがB.C.(ビフォー・コロナ)、A.C.(アフター・コロナ)というワードを使っていたのが象徴的で、多くの識者が今回のコロナ危機により、大きな変化があることを予期しているようだ。

この後、資本主義はどう変わっていくのか、自分なりに考えてみたい。まず個人的に資本主義とは次の3つの特徴を持っていると考える。

1)差異をベースとして、人々の欲望を駆動しそれを成長の糧とする

2)全てのものを同一の価値尺度で測れるように取り込む

3)1)と2)を可能にする外部性を持つ

1)が、市場の拡張(だが、情報の関数であるとも思う)であり、2)とも絡むが資本の蓄積という形で進む、2)が貨幣による評価と言ってよいかと思う。3)については時代と伴に変わってきているが追って説明したい。

資本主義と外部化

資本主義とはもちろん、資本をより増大させることで成長するが、資本とはそもそも信用の外部化である貨幣をベースに、それをストック化したものと言える。なので資本そのものもある意味、外部化の成果である。人間は色々なものを外部化することで、その勢力を拡げてきた。言語も感情や知識の外部化であり、より共有されることで広まり共通言語となっていった。(但し、言語については共通化した方が便利な一方、世界でこれだけ多くの言語が使われていることからも、人間本来は共通化そのものを良しとしていないのではとも考えたりする。後に考えるコミュニティの基盤を考える場合にこの言語の話がヒントになるかもしれない。)

一方で一度外部化が始まるとそれはそれで勝手に動き出し、どんどん拡張するという性質を持つようだ。上の2)は、資本が貨幣という共通の尺度で測れるように人間の営みをどんどん貨幣換算して経済に取り込んでいることを述べており、1)は、一旦欲望が、ITによりある程度測れるようになると、逆にどんどん欲望が外から与えられるという状況になる。その際、わずかであれ、差異を際立たせることで欲望を喚起して来た。けれどそれがずっと続くためにも、3)の外部性に依存していたことが明らかになってきた。また1)の欲望自体も情報が多くの人に行き渡るにつれ、差異を見つけるのが難しくなっている。

経済学の歴史と外部性

実は、現代は1)と2)が社会のすみずみにまで拡がった状況にあると思うのだが、少し歴史を遡ってみたい。アダム・スミスが『国富論』を書いたときには、資本主義はどんどん拡張していた時期であり、1)の市場の拡張はむしろ良き事として考えられていたと思う。”神の見えざる手”によって、人々の欲望が市場で調整されるというわけだ。2)についてはまず工場労働者の評価が、労働時間によって一元化されたと言える。

時代が進み、資本主義が発展するとともに、資本家と労働者の力関係がどんどんバランスを欠くようになっていくが、要は2)がどんどん進み、そこに取り込まれる人が多くなればなるほど、取り込まれる側の人(この場合は労働者)は相対的に不利になっていく。カール・マルクスが『資本論』でアダム・スミスを批判して、労働者は搾取されているという時、労働価値説という概念を持ち出して、商品に含まれている価値を労働の成果として、労働者は搾取されていると言うのだが、現代から見れば、配分の問題と言える。

この問題は、労働組合が結成されることで、一時的に緩和されたが、現代のグローバル化の進展により、1国内の問題ではなくなってしまったので、配分問題を難しくしている。要は放っておけば、資本主義は、2)の要素をどんどん拡張していくという傾向があるということで、それに対する安全弁のようなものが組み込まれる必要があると言える。

アダム・スミスは、『国富論』の前に『道徳感情論』という本を書いていて、2)の動きを止める要素として市民社会のモラルを想定していた。これは3)の外部要素と呼んでいいのだが、このモラルがあってこそ、”神の見えざる手”によって市場経済はうまくまわっていくという前提であった。しかしいったん動き出せば、市場経済はどんどん拡張していくもので、それが1)で触れた点なのだが、その時はアダム・スミスが想定していた3)は忘れられることになる。

フリードリヒ・ハイエクは、ミルトン・フリードマンに影響を与えたため、新自由主義の祖のように言われることもあるが、ハイエクの市場経済擁護も、基本的にオーストリアを含む、ヨーロッパの市民社会を前提に、つまり3)として成熟した市民社会を想定した上での市場経済の社会主義計画経済に対する優位性を説いていたわけで、無秩序な市場の拡張や市場万能主義というわけではない。

社会主義経済計算論争再考

ハイエクが、ミーゼスらと共に、オスカー・ランゲらと対立した社会主義経済計算論争というものがあるが、これは市場経済による資源配分の方が、国家による資源配分より効率的であるということを主張するものであり、当時はハイエク側に軍配が上がったと思われているが、現代のテクノロジーを考えると、人の欲望そのものも計算可能なのではないかと思ってしまう。

これは、現在中国が共産主義政治体制のもとで、資本主義経済を運営するに当たり、ITテクノロジーを極めて有効に取り込んでいるように思われるからだ。個人個人の欲望をピンポイントで完璧に追うことは難しいかもしれないが、集団としての欲望がどの程度になるかであれば、ある程度の精度で予測可能ではないかと思うのだ。その場合、重点的にどこを成長させるかをコントロールする体制の方がよりうまく経済を成長させられるのではと考えてしまう。

現代資本主義の課題とコロナ禍

資本主義は、1)の差異をあらゆるところに見つけて、人々にどんどん欲望を生み出すこと、2)その欲望を同一の価値基準で評価することで、その領域を拡げてきた。もちろん、1)の欲望は、情報の関数と述べたように、より多くの情報を消費者が得ることでより拡がるが、もちろん波はある。これまでにもキチン循環、ジュグラー循環、クズネッツ循環、コンドラチェフ循環などが知られている。これらは供給側の制約に視点があるが、波はありながらも拡張してきたと言える。

それが現代は、盛んにイノベーション、イノベーションと言われるように、簡単に人々の欲望を刺激するのが難しくなっている。そのため、3)の外部性の部分を取り込むことも行われてきた(家事労働とかが典型である)。只、この外部性は資本主義そのものを支えている部分でもあり、それを取り込んでいくことは我々の社会に負の効果をもたらす。かつての公害であったり、最近の環境問題であったりがそうである。この外部性は宇沢弘文が社会的共通基盤と呼んだものと重なるともいえる。

今回のコロナ禍は、これまでの資本主義が1)2)を社会のすみずみまで進めてしまったことの反動としてもとれる。先日のオンラインイベントで、吉見俊哉先生が、”パンデミックは、その当時のグローバル化に対する反動として起こり、その時起ころうとしていた変化を加速させた”と言われていたのを聞いて、今回のコロナ禍も変化を加速するものとも考えたい。

最近の変化と言えば、グローバルでの環境問題への意識の高まりであり、これは3)の外部性を重視して、1)の欲望を無限に拡張していくという外部化の流れそのものを考え直すということである。これは全世界共通で取り組まなければならない課題ではあるが、もう少し小さなレベルでも取り組まなければならないと思う。

それは規模を追わないコミュニティの再生であり、3)の外部性をベースとして2)の同一の評価軸によらない小さな経済圏を作り直すということである。ある程度のベースとなる経済の仕組みを一定の地域内で廻す。その余剰部分を外部とやり取りする。実は、このような方向が逆に世界全体での多様性を担保してより生きやすい社会になると思う。上で述べた中国の経済運営が、外部性を上からコントロールしてこの方向に向かうことができるのか、それともそれ以外の社会の方がうまくこの方向に向かうことができるのか注視したい。

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