「運営の思想」と「制作の思想」について考える

東浩紀著『テーマパーク化する地球』が届いたので早速「運営と制作の一致、あるいは等価交換の外部について」というテクストをまず読んだ。東浩紀のTwitterもフォローしているが、そこで去年、社内のゴタゴタで代表を辞任するということがあったが、その間の事情がこのテクストで触れられているということだったからだ。

「運営の思想」とは、資本主義の思想、つまり等価交換の思想であり、一方「制作の思想」とは等価交換に抗い、等価交換以上のものを提供することで、文化を生み出すという思想、つまりコンテンツを提供するプラットフォームより、コンテンツそのものを重視する立場ということだ。

ここで東は、「制作の思想」を重視するがあまり、「運営の思想」を排除して、「制作の思想」が貫徹する場を作ること、つまり資本の論理の外部にでることについては不可能であると否定する。その上で、ゲンロンの実践は、運営の思想と制作の思想を一致させる試みであるという。そしてその試みは社外的には成功したが、社内的には成功していなかったことが昨年末の代表辞任に繋がったということだ。

東浩紀がゲンロンでやろうとしていることは、このテクストで良くわかったが、これはかなり困難な試みと言わざるを得ない。まず東は、ゲンロンの活動は社外的には、等価交換の論理の外部に出ているというが、果たしてそうなのか?資本主義とは、資本の論理であり、資本は絶えず拡張を目指し、差異を求め、それを共通の尺度(貨幣)に取り込むことによって廻ってきた。だからこそ、企業は常に差異を新たに生み出すためにイノベーションを求めているのだ。ゲンロンが商品以上のものとして提供してきたものも、当初は等価交換以上のものとして受け取られるかもしれないが、それも次第に等価交換の論理に回収されてしまうと思う。だからゲンロンの商品がある価格で提供される限り、等価交換の論理に回収されていくことは避けられないであろう。

資本の論理に回収されないようにするためには、絶えず予想を裏切るものである必要があるが果たしてそれを継続し続けられるものか?ここで東浩紀が課題としている社内の役割が大事になるだろう。つまり運営の側が制作の側にコミットし、運営に期待される以上の貢献が必要である。それには運営側が例えば東浩紀にこうすれば、もっと面白い番組になるということを積極的にやると共にそれを東浩紀や制作側も受け入れないといけないと思う。

東浩紀は希代の思想家と思うが、であるが故に運営側に東浩紀をリードできるというか、納得させて、より東浩紀を含む制作側のコンテンツを魅力あるものにできるような人材が必要であろう。制作側と運営側が共犯関係にあるような組織ができれば別であるが、それは言うは易く行うは難しなので、ゲンロンが今後どんな風に挑戦していくのか、注目して見ていきたい。


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