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<ネタバレ有り!>小学生の時に平成ゴジラを愛した男による「シン・ゴジラ」雑感と5つの考察

2016年8月1日、ファーストデイにかこつけてシン・ゴジラを新宿まで見に行った。

現実(ニッポン)対(ゴジラ)虚構の戦いを、この映画館で見れるのは感慨深い。

1987年生まれ今年29歳のぼくは、小学校のときにいわゆる「平成ゴジラ」とともに生きてきた世代。「ゴジラ対ビオランテ」から「ゴジラ対デストロイア」までの作品に大興奮したのが95年のこと、その後に僕はゴジラ全作品を小学校6年までに見終わるほどにのめり込み、将来の夢は「ゴジラになる!」と言うほどに好きになる。ちなみにミレニアム世代のゴジラシリーズは素通りしている。

全然違う話だが、円谷英二氏の作品つながりで、「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」は全て見たし、後のウルトラマン作品も全てではないがストーリーラインも小学生の時に知った。平成ガメラや大魔神も見た、そんな蓄積があるのがぼくだ。後々には音楽とアニメとサッカーにのめり込むが、この後の文章にもそれがどことなく出ているが、こういう文脈があるのかー!なんて思いつつ読んでくれたら嬉しい。

簡単に書いてしまえば、シン・ゴジラは<深であり、信であり、神であり、親であり、審である>5つの側面を備えていると思えた。

庵野氏からすれば、「いや、神であり進なんだよ」とボロと愚痴されそうではあるけども。

庵野秀明氏と樋口真嗣氏の巨頭2人によるタッグ作品となった「シン・ゴジラ」。あらためて言うまでもないが、両人がこれまでに作ってきた作品を書き連ねてみよう。

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・庵野秀明と樋口真嗣、略歴と本質

お2人の仲がどこから始まったか、色々と詳しく書くのも変な話なので省くが、ここでは1981年に大阪で行われた第20回日本SF大会(DAICON3)がとしておきたい。

この時に集まったメンバーが後に「王立宇宙軍 オネアミスの翼」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」を生み出すGAINAXへとつながっていく。

庵野秀明氏は上記3作品において作画ないしは監督を務めているのはもちろんのこと、スタジオ・ジブリ「風の谷のナウシカ」における巨神兵のシーンを描いた男といえば、分かる人も多いだろう。

対して樋口真嗣氏は「王立宇宙軍 オネアミスの翼」が上映された84年に、「ゴジラ(1984年版)」にて怪獣造形に携わっているのが大きい。92年にGAINAXを辞めてアニメーション制作会社GONZOを立ち上げつつも、実写怪獣映画としてゴジラと並び立つであろうガメラの平成シリーズ3作品に特撮監督として参加。「ローレライ」「日本沈没」『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』において監督を務めている。

彼ら2人はいわば、日本SFの創成期からSF作品の薫陶をうけ、あまりにも濃すぎるその血筋とDNAをアニメ/実写問わず大きく脈動させて表現してきた2人、といえる。彼ら2人の円谷作品への愛情、海外/日本のSF作品への愛情は、上記した映像作品を見てもらえばわかるだろう。

今作においてのきっかけは、庵野「最初は断ったが、東宝と樋口からの熱い誠意によって心動かされた」というように、元々は東宝と樋口から「シン・ゴジラ」は始まったといえる。とはいえ、今作で中心となった長谷川博己と竹野内豊両名へのインタビューを読んでみると、庵野/樋口コンビの制作は・・・

「お付き合いが長くて絶大な信頼感を寄せておられるでしょうから、現場ではお互いが補い合っている感じがしました。」(竹野内)

「樋口さんが前に出てやっている事もあれば、庵野さんが前に出られる事もあった。長年の呼吸で分かっておられるのでしょうね。そういう風に僕は感じました。」(長谷川)

というように見えていたようだ。

http://eiga.com/movie/81507/interview/

庵野氏は、劇場版エヴァンゲリオンとの制作も平行して行なっている上に、心身ともに疲れていた上で今回のオファーを受けている、しかも樋口氏はそれを知っていてなお庵野氏を口説き落とした。

この両名には、<ゴジラという怪獣をいかに背負い表現していくか?>というカルマを分け合うかのようにも見えてくる。もう30年は続く仲睦まじい間柄、しかし同時にピンと張り詰めた緊張感、制作期間中の2人は独特の緊張感が流れていたのだろう。

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・というかゴジラってどういう存在だったっけ?

ゴジラといえば、最初期は50m、今作では全長が100m以上もある巨大生命体として描かれている。デカイ!ヤバイ!怖い!

しかしまぁ、日本のSF作品の血筋と文脈を熟知してきた男2人が生み出すゴジラである。正直に言って、「ディレクターが制作費用をぶん取ってきてSFオタクが作りたいように作った映画です!」だなんて毛ほども僕には思えない、それなら『ゴジラ』以外のタイトルで作ればいいじゃないか。「巨神兵現る」を、全く違う形で新たにもう一度2人で作ればいいじゃないか!とまで思えてくる。

じゃあなぜ「ゴジラ」という名前を使うのか。これは樋口監督や東宝の人に聞いてみないとわからない(笑)

しかしながら、察する側面は多くある。今作は昭和ゴジラ、1954年版「ゴジラ」をかなり意識していている。当時の煽り文句やキャッチコピー、そして戦後直後という世情も手伝って、「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」とも言われた初代ゴジラ。というか「シン・ゴジラ」のこのロゴ自体が1954年ゴジラの題名字面に似せているしね。

ゴジラを現代に蘇らせることは日本のSF作品/空想科学文化の更新に繋がる。庵野氏が2015年の製作発表コメントを読むと、それこそが庵野氏/樋口氏の狙いだったと一目瞭然であり、ゴジラじゃないとあかんと。

同時に、ゴジラ作品について庵野氏はこう記しています。

ゴジラが存在している空想科学の世界は、夢や願望だけではなく、現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります。現在の日本でそれを描くという無謀な試みでもあります

つまり庵野さんにとって、ゴジラを描こうとすれば否が応でも現実世界を風刺せざるを得ないと語っている。逆説的に言えば、何を風刺するために今作のゴジラはあったのか?ということすらも射程に入ることになり、それこそが今作の面白さにつながっている。ぼくみたいな人間でも5つくらいの見方や捉え方ができてしまう、解釈を赦し、提供してくれた映画だ。

・じゃあシン・ゴジラってどんな作品?

今作「シン・ゴジラ」を軽く言い表すならば、

「ゴジラってどれくらいヤバイ存在だったっけ?」ということを改めてイントロダクションしつつ、「このヤバすぎる存在をいかに人間が駆逐するか?いかに思考し打倒策を編み出すか?」にフォーカスを充てている。

昭和ゴジラ中期から平成ゴジラに至るまでに推移していった大怪獣同士のファイティングバトルや放射能火炎(放射能熱線/放射熱線がシリーズ中一番表記されるが今作はこちらのほうが的確か?)をバチバチにキメあうようなエンターテイメント性も、ハリウッド版ゴジラのような「アクション映画」としてのド迫力の場面演出も、空想科学読本から飛び出てきたような人類側の脅威の新技術によって設計された超兵器も、今作にはない。

生物としてはあまりにも弱すぎる人間が叡智とコミュニケーションの限りを尽くし、生物としてはあまりにも強すぎる生物を打倒し、あるいは人々を守るか?というロマンチズムとリアリズム、この辺りが今作品の核たる部分となっている。

長くなるが、ここからは詳しく考察していきたい。

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神としてのゴジラ

人間では手も足も出ない相手に対し、あの手この手を使って打倒しようとするストーリーライン。この筋のストーリーラインといえば、樋口氏が監督を務めた「進撃の巨人」をすぐに思い出せるだろうが、個人的に彼ら2人の共通項としてパっと思い当たるのは『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(ポケ戦)だ。

市民とザク・パイロットとの触れ合いを中心に描いた本作。主人公機であるガンダムに比べて長いあいだ<弱い機体>と目されてきたザクとそのパイロットであるバーニィと、小学生アルフレッド・イズルハとの2人の物語で進む今作において、『ガンダムシリーズ』においてて絶対的で神な存在であるガンダムは敵役としての役回りになっている。

ガンダムが主役機ではない、この点において『ガンダムシリーズ』上では異質な『ポケ戦』ではあるが、1954年版/1984年版「ゴジラ」や「シン・ゴジラ」における「ゴジラvs人類」というテーゼとなんとなくマッチする。

昭和ゴジラ中期から平成ゴジラに至るまでのエンターテイメント性に振り切っていたゴジラシリーズでは、いずれも「ゴジラは人類の味方側にいる」ことが前提になっているが、シン・ゴジラとポケ戦は「シリーズ中において神と目される存在と相対する」という意味で、非常に似た構造をもっているのだ

ちなみに簡単なネタバレにもなるが、バーニィ操るザク部隊はガンダムNT-1を大破させている、神に対抗しうる存在になるのだ(詳しくは作品を見て欲しい)。関連性はこれにとどまらず、『ポケットの中の戦争』で監督を務めた高山文彦は、『ふしぎの海のナディア』21話にて各話演出を担当している、脚本は樋口氏である。

では今作ではゴジラはどれくらい神かつ危険な存在なのか?上記した体長以外にもネタバレをあまりしない方向で話すと

・遺伝子レベルで人間よりも確実に上位の存在、基本構造が見えてきてもあまりにも複雑でスパコンで解析しだす

・常に進化を止めずに成長を続ける、作中ですらガンガン成長する

・日本自衛隊やアメリカ軍の兵器はほぼ効果を与えられない。

・体内に核を持っていて、ほぼ常時放射能を撒き散らす。詳しい数値を映画内で出していたけど失念

・シリーズお決まりの放射熱線をぶちかますが、吐きっぱなしで都内3区が火と放射能の海、首都機能がほぼ壊滅状態に追い込まれる

というくらいの存在。

特に放射能火炎を最初に吐き出すシーンの絶望感たるや、これまでのゴジラシリーズでは比較にならないほどに「放射能や火炎を巨大な熱線として吐き出される絶望感」が表現されている。子供の頃にちょっとは頭をかすめていた「放射能を都市にかまされてよくもまぁ簡単に復興するな」という冷ややかなツッコミすらも、完璧に灰にしてくれる爽快感すらある。

絶望的かつ救いも慈悲もない放射能火炎は、ゴジラが人間とはまったく次元の違う驚異的な脅威・・・神の域だともう一度はっきりと示してくれる。

この見せ方に伺えるのは、「シン・ゴジラ」はこれまでのゴジラシリーズのちょっとした軽いニュアンスの演出にすらも批評的かつ風刺的であり、通底しているという点だ。「怪獣がやってきたら一発で壊滅、機能停止。そしてそこでは物凄い惨劇が広がっている」という演出には、今作の裏で駆動するリアリズムが透けてみえる。

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深としてのゴジラ

これほどの存在感を放つゴジラだが、本編約2時間の間で暴れるのは約30分程度、後の1時間半近くは人間同士の討議と論議に費やされる。つまり、ゴジラを倒すための表の戦いと、国を動かすための裏の戦いが並行して進む、ゴジラという巨大生命体を倒し、これまで築いてきた社会や人々の生活を守るために、人間側の知略/論議とコミュニケーションに深く深くスポットライトをあてているのが本作だ

ここに伺えるのはGAINAXスタッフの多くとも繋がりがある「機動警察パトレイバー」(特に劇場版)であり、どことなく「踊る大捜査線」や「PSYCO-PASS」の姿が見えてくる。

「踊る大捜査線」や「劇場版パトレイバー」や「攻殻機動隊」などで中心となるストーリーライン、「政府内部/または省庁間/あるいは対人同士における国益・集団益・個人の損益を念頭に置かれたコミュニケーション」を<社会のしがらみ>として描くヒューマンドラマ性は、今作におけるもう一つの軸となっている。体感で雑なことをいうと、場面の配分はおっさん→違うおっさん→ゴジラ→おっさん→違うおっさん→ゴジラ。これくらいのペース配分だ。

これでも「劇場版パトレイバー2」よりはまだ安心設計だ、この作品では主役機であるレイバーは作品途中で破壊され、基本的に人間同士のやりあいで解決へと向かう。おっさん&おっさん&おっさんのペース配分なのだ。

つまり、「劇場版パトレイバー2」はロボットアニメでありながらもロボットが全く出てこない。一つの見方で言えばエンタメ性がほぼ皆無、この点は今作「シン・ゴジラ」と平成ゴジラシリーズを比較して見た時の<エンターテイメント性>の欠損と、やはり共通項として見えてくる。また「劇場版パトレイバー」にて脚本を務めた伊藤和典氏は、平成ガメラシリーズで樋口氏とタッグを組むことになる。

それでもなお「劇場版パトレイバー2は傑作である」という声は根強い、それは登場人物のセリフから覗き見える<日本という国の立ち位置が風刺的である>ということに個人的には尽きるのだが、今作「シン・ゴジラ」でも同じであるからだ。

「日本はいつまでも戦後」「だから日本はいつまでもアメリカの属国なんですよ」「極東だったらなんだって許されるっていうんですか!?」「アメリカに支援要求を出しましょう!→アメリカはあくまで支援する立場を崩さない、まず自分たちから動かなくては話になりません」「いやいくらなんでも、3度目の核はちょっと・・・」

今作における日本人は、日本という国と立場を冷ややかかつ冷静に受け止めたセリフの数々と吐いている。

日本は世界の中心にまで返り咲いたと言われた80年代から30年を過ぎ、経済的にも文化的にも世界の共通項からは離れた国であることが、日日としてわかってきている2010年代の日本において、こうしたセリフは非常にトゲトゲしい。もしかすれば、見る人が見ると「おい!なんだかひどく諸外国にも日本に対しても攻撃的じゃないか!?」だなんて言い出しかねないセリフが所々にある。もしもアメリカ人含めた海外の人が今作を見たら、いかように感じ取るのかは興味はある。

憲法9条や自衛隊法に則った武力行使についての論議戦、武力行使に関するシーン・・・陸上自衛隊がゴジラに対する攻撃を仕掛けるかどうかについての論議は前半部分の見どころシーンであり、ゴジラと陸自が接敵しファーストアタックを仕掛ける際の出来事もまた見どころだ。「敵に対して簡単に攻撃が出来ない国、日本」「自国民を守るか、相手を倒すか、その両方に引っ張られウヤムヤになる判断と責任」そんな姿を風刺していく。

ここでも「シン・ゴジラ」がこれまでのゴジラシリーズのちょっとした軽いニュアンスの演出に批評的かつ風刺的であろうというのが見えてくる。

人間側の知略戦とコミュニケーションによるヒューマンドラマ性をより深く切り取っていく手腕、この点について別の角度から話してみると、アニメ演出として随一の手腕を誇る庵野と樋口の手腕から切られたコンテカットによって、今作では非常に印象的な像として記憶に焼き付いてくるようなシーンが多数ある。

人の顔を画面真ん中に置いて真正面から撮ったカットが非常に多く、<対人コミュニケーションを行なっている>強烈に観客へと伝えているのがよく分かる。これは特に、前半部分ゴジラ初上陸に際して首相を中心に討議する場面に多く、顔アップ→全体ショット→顔アップ→全体ショットというカット展開も遅々としていて見る人に<飽きてきた>感覚を覚えさせ、政府判断の重々しさと政治判断系統の遅さを表現しているのは見事だ。序盤におけるこの印象的なコンテカットによって、今作品において<対人コミュニケーションがキーファクトになる>という印象を視聴者へあたえることに成功していると言えそうだ。

これとは逆に中盤以降、血液冷凍弾を制作する特別チームに場面では特に、カット切りがトントンと進み、討議内容の進捗にスピード感をつけていることで、前半での政府判断の遅々さに比べるとやはり早く感じさせるようになっている。ゴジラとの接敵によって盛り上がっていくシナリオ展開と共にも勢いをつけていきそうなくらいだ。

こういったカット切りや演出に纏わる話を今作から見て取れば、写真出演となった故・岡本喜八監督と庵野氏との関係を読み解いてもいいだろう。

庵野秀明監督「個人の人生観、フィルムの演出家としても正直、岡本監督から多大な影響を受けている」「『沖縄決戦』は、僕が生涯で一番何度も観た映画なんです。のべ100回以上観てますね。」

庵野秀明監督と岡本喜八監督の貴重な対談 
http://d.hatena.ne.jp/type-r/20151029

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信としてのシン・ゴジラ

先にも書いたが今作においては、いかにゴジラを打倒し、人間社会/日本社会をいかに守るか?のために対人コミュニケーションはキーファクトとなっている。たったひとりの人間による判断と力で打倒できるのは、おなじ円谷英二が生み出したウルトラマンだけだと相場が決まっている!(たぶんきっと違う)

政府内部において、綿密なほどにコミュニケーションを取り合う。一つの語句、一回の会話、一回の会議、一度詰まったら<それはどういうことだ?>と聞き返すシーンが多々ある。ゴジラという巨大生物(虚構)に対抗するのは、巨大兵器ではなく、人と人とが繋がりあうことで生まれる社会性や組織によって生まれる力(現実)だと示し、人が人を信じるということで生み出せる力を今作では表現しようとしているともいえよう

蒲田から品川までを横断した巨大生物(このときはゴジラとすら呼称されていない)は、ただ地上を歩行しただけで甚大な被害を及ぼした。倒壊した建物と木々、死に絶えた人と動物、残された放射線物質。2016年の今だからはっきりわかる、これは東日本大震災のときに見たあのシーンだと。

あの大震災のときに、Twitterを通して僕は何人もの人を見た。

著名な知識人に対策案を聞きたがり不安を吐露した人達、時に誠実ながらも事実と異なったことを話しまう知識人や芸能人、必死に人助けのためにと情報を供給し、またはボランティアへ奔走した人達を今でも思い出す。

「立場はどうであれ、未曾有の事態にはあらゆる人間は無力である」そのことを淡々と、ゴジラという虚構で暴き出す手腕、庵野氏と樋口氏は非情なのかもしれない。だがそれゆえに、未曾有の大災害を起こしたゴジラ(現象≒虚構)を倒す術として、人が人を信じ、社会性や組織による生まれる力によって打倒できるチャンスを今作で与えている、その手ほどきは素晴らしいの一言に尽きる。

「この国は、まだまだやれる……!」(作中セリフより)

ところで、300人以上の有名な役者/芸能人を起用している。スポットライトが当たる/当たらない、見つかりやすい/見つけにくいという差異はあれど、なぜ当たらない役にまで役者をあてがったのだろうか?。

それは、1人の人間がもっているストーリーが、あくまで多くの中にある1つででしかない、ということを示したいがためではないだろうか。

有名な芸能人や俳優を一般人にまで配することで、一般人にもそれぞれかけがえ無い人生を持っていた存在だと言うことを気づかせ、官僚や総理大臣は一般人と同じようにあっさりと死ぬ存在だということを気づかせる。庵野さんと樋口さんの怜悧な視座がうかがえる。

あれだけ前半部分で画面のど真ん中を占有していた人物らが、火炎放射一撃で吹っ飛ばされ、テレビの個人撮影キャプションによる「行方不明者」として報じられたあと、作品世界や場面上には一切出てこない。
「死んだ人間があっさりと扱われる」「名も無き死者」「かけがえのない人生の終わりが、大多数の数字の中に埋没していく」リアルということを改めて浮き彫るための、300人もの配役の妙は、ストーリーが全て終わったエンドロールで気付かされる。

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親としてのシン・ゴジラ

結末付近の話を話すが、シン・ゴジラが射程に捉えていた1954年版ゴジラとシン・ゴジラのラストは、まったく異なる。
空想科学読本から飛び出てきたような生物を、空想科学読本から飛び出てきたような兵器で潰すのでは無く、遺伝子分析を経た上で血液から凍結しに掛かるリアリティは、人類の科学技術進歩を踏まえなければ創造できないラストだ。

前者は科学者の突飛な開発によって生み出されるが、後者は人と人との繋がり(という名の人頼み)と団結によって編み出されている。

空想的な想像ではなく、実効的な創造によるゴジラ≒神殺し。些末な点の説明不足は尺の都合上で否めないが、あくまでも人間の叡智と科学技術による神殺し方法であり、核に頼らないようにと日本人の記憶から生まれる反動もまた、神殺しに寄与してる。

1954年版ゴジラは、「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」と言われてきたことをもう一度思い出してみる。2016年においてみても、核エネルギーの塊であろうゴジラはやはり、ざっぱにいえば歩く核融合炉そのものである。親の世代からの遺産であり、僕らの世代に至っても負のイメージがのこる原発や原子炉を暗喩する存在としてあるし、核という存在に対する親の世代の怨嗟じみた気持ちに同調したくもなる。

翻って今作に戻ってみれば、核攻撃を許さないという日本側の行動理念、放射性物質の些細な動きに対し人々が敏感になるシーン、ラストシーンにおける夥しいまでに人間の顔を象った尻尾付近のデザインに至るまで、核に対する戦後日本の怨念じみた気持を強烈に表象しているようだ。

戦争と核の関係や原発問題が親世代から残る遺産とする視座を許容してみると、より深く違ったゴジラの姿が見えてくる。今作におけるゴジラは、ある意味では親(≒核問題)を象り、その存在を乗り越えていこうという批評的な視座を見出すことも可能だ

本作品を見終えている人は思い出して欲しい、ゴジラは最後に破壊されただろうか?。東京のど真ん中で血液から凍りついたままで、なんと政府は東京都再生を先んじようとすらしているのが示唆されている。打倒という名目を置きながら、肝心要な場面で問題を完璧に葬りさることのできない日本人の性を皮肉にも映し出しつつ、本作におけるゴジラの意味が、ここまで僕が書いてきたような意味をもっているのであれば、簡単にゴジラ破壊/駆逐など出来ないと察してもらえると嬉しい。

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なぜゴジラは2016年に蘇ったのか?

先にも書いたが、本当のところは樋口監督と東宝の方に聴くまでは分からない。しかし察するところはある。

2016年にゴジラを再起動した理由を僕になりに書き出せば、今作におけるゴジラの役割は、東日本大震災(未曾有の大災害)・原発問題(核問題)・海外での活発なテロ行為(正体不明な相手との戦い)の3点が入り混じったものだろう。もしもこの3点をそのままに映画にしようとすれば、必ずどこかしらから文句が出てくるのは間違いない。

庵野氏は今作において、「ゴジラという壮大な虚構に成立させるためには、他のものは極力、現実に即していなくてはいけない」と話している。ココらへんの話は劇場で購入できるパンフレットに記述されているが・・・

「防衛省は当初から、提出された庵野氏の脚本の緻密さに驚いていたという。それだけに一番の悩みどころは、これほどまでにリアルに作っている映画のために迂闊なことを話すと、それが防衛省の公式な手順だと誤解されかねない。おのずと応対は慎重になっていった」

「実際の災害発生を想定した各行政に在るマニュアルを『巨大不明生物の出現』という例にどう当てはめるか。危機管理センターにおいて'治安出動か防衛出動か'という議論も、ちょうど有事法制の話題が沸騰していた時期でもだっただけに、最新の防衛白書を読み込んで取材をしたのですが、お聞きする方によって回答が違う・・・」

「映画のような出来事が起きたら、どういう組織が立ち上がるのか?。3.11の時の記録資料が膨大にあったので読み込みました」

まさしく、虚構を虚構たらしめ、同時に虚構を打倒するための現実の在り方を追求している。虚構を打倒するための想像力、いや創造力が今の日本にあるかどうか?そんな問いかけと探求を感じる、同時に見ている人の心にドンッ!と踏み込んでくる作品でもある。

今の日本が疑わしいからこそ、ゴジラは再び蘇ってきたのだ。これが最後の側面、<審としてのシン・ゴジラ>ではないだろうか。

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