理性というライフハックについて

 高度な教育を受けた勉強熱心な人間であったり、客観的で知的であろうとする人間を眺めていると、彼らはかなり画一的で根拠のない話をし続けているのに気づくだろう。計画を立てて、計測を行う。複数の意見がある時には論理的に整合する方を選ぶ。定性よりも定量を重んじ、データに基づいて判断をする。彼らと何かしらの物事を行う際に、この彼らの個人的で不合理なこだわりや信念に振り回され辟易したことも少なくないはずだ。

 彼らは不思議な生き物だ。物事が上手くいくコツを誰よりも知っているという顔をして、自分なりの成功論を解く。正確でもっともらしい論証を行い、現実について極めてよく理解したかのように振る舞う。その論理的な発話と現実についての対応については自明のものとして、特定の規則に従った推論が現実に確実に起こると何の根拠もなく強く主張する。もしくは取得したデータを眺めながら、多い気がする、もしくは少ない気がするという感想を述べることが、誰の目から見ても絶対に納得するであろう論証だと思っていたりする。

 「どうしてそれが上手くいくと信じているのか?」という問いを僕は投げかけるようにしているのだが、彼らはそこで面白いぐらいに言い淀む。いつもとても論理的で明朗に物事を語る彼らが「当たり前だから」「今まで上手くいってきたから」というとても非論理的で根拠がまるでない物言いで自分の強い信念を肯定し始める。それはそうで、論理なんて現実のそこらへんには落ちていないし、データに関する感覚はただの雰囲気だからだ。

 確かに上記のような物言いは最もらしく聞こえ、個人的な理解の助けになってくれている。豊かな解釈は個人で楽しむ分には構わない。彼らの物事の理解の仕方は極めてシャープだ。境界によって綺麗に別れるように対象を分解し、新しい観点を付け加えてくれる。もしくはデータによって現象の裏側について思いを馳せたりしてもいいかもしれない。そういった楽しみは人間に感性の深みを与えてくれる。

 だが彼らは面白い言葉遊びが世界に対する有効な反映の仕方をしているという。「論理的で客観的な判断に基づいた判断や行為」は彼らの人生の主観的な成功体験の裏付けになったと彼らは何故か信じているが、そこにもまた合理的で客観的な根拠は何一つ存在しない。そんな不思議な理由で採用された特定の信念を共有している人間たちが集まり、自身らを優秀な集団だと表現し、上記を信じていない「愚か」な相手に「もっと上手くやる方法」を伝授する。

 彼らは不安で仕方がないのだと思う。何かを判断したり、物事を行うというのは想定外のリスクに常に晒されている。そういう時に論理という代数演算によって世界に対して何らかの予測を与えられる。もしくは取得したデータの分布にそれらしき線を引くことで、どの程度のことまでが起こり得るのかを感じることができる。少なくともそれらを信じている限り、上記を組み合わせた合理的な結論は、彼らの判断に補助線を引いてくれる。

 こういうのは素晴らしい自己啓発やライフハックの一種だし、僕は否定をしていない。個人的な不安の解消のために導入された私的な信念を振り回し、同調してくれる仲間と群れて自己肯定をし合う。自分たちのこの信念は正しく、理解できない人物は頭が悪く、自分たちはいつも困らされていると。このような行為は流石に転倒のしすぎではないかと、見るたびにどうしても思ってしまう。

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人間性

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