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「日本の女性はもっと東アジア人としての美しさにプライドを持ってほしい」ー人種・外見差別に対して私達が出来る事 byナザニン

先日、ノルウェーの方が「東アジア人の女性はなぜ瞼を二重にし髪を染めるのか。東アジア人としての美しさプライドを持ったらどうか」と言われおおむね賛同する日本人男性のツイートがありました(元のツイートは削除されています)。これを受けて、なぜ「瞼を二重にし髪を染める」ことが東アジアで起きているのか、そもそも東アジア人のプライドとは何なのか、どうすべきなのか、この度は場所を日本に限定し、論考してみました。

1.白人が美しいという偏見と抑圧

まず初めに、なぜ「二重」で「髪を染め」「東アジア人としてのプライドがない」と見受けられることを日本人はするのでしょうか。簡潔に言えば、私達が複数回に渡ってこのブログで議論してきたように、日本国内に住み日本国内で育った人々は雑誌やテレビや街中の広告などを通して毎日「このような見た目であれ」という抑圧を内面化しているからだと推察します。上の画像はその一例です。

上に挙げた画像は、全て日本で販売されている国内の化粧品ブランドのものであり、百貨店で販売されている比較的高い価格帯のものです。その「高級」ブランドの広告に、日本国内の人口の多くを占める東アジア系や他のアジア、もしくは中南米やアフリカ系の人々ではなく、白人のモデルが高い確率で起用されているのが現状です。つまり「高級ブランドは白人モデルを多く起用している」ということであり、裏を返せば「東アジア人は高級ブランドに相応しくない」ということを匂わせていることでもあり、そしてこれが自分達と同じ東アジア人達によって行われているという更に深刻な状況にあります。加えて、日本国内においては「二重」であるとか「美白」であるとか、果ては「ハーフ顔」メイクや「外国人風」カラコンなどというものについての広告や特集をよく見かけます。上記の広告に加えて、色素が薄く目が大きく、顔が小さく鼻は高く見えるような化粧品や化粧の方法、またはその条件を満たしたモデルが毎日のように紹介されていれば、日本で暮らしている中でそういった広告を多く見かけるという体験を重ねていき、結果として日本に住む一個人が、特に幼い頃から外見の美醜を主観的かつ一方的に値踏みされながら生きる女性は尚更に、それがこの社会において「美しい」とされている外見なのだと認識し始めるのです。このようなものに幼い頃から自分が生まれ育った社会の中であらゆる媒体を通して触れていれば、程度の差はあれ無視できない数の人々が結果として美しい=白人に近い外見、という価値観を持ってしまうのではないでしょうか。そういった価値観を内面化してしまった個人の数がある程度多くなれば、白人に近い見た目にならなければと買う消費者が増えるためそのような商品が売れる、売れるから更に似たような商品を出し似たような広告が打たれる、そのために更に多くの個人がその価値観を内面し商品が更に売れる…という悪循環に陥っているのが現状かと思われます。ハーフ=白人ハーフという偏見と白人ハーフ以外の疎外も恐らくはこの悪循環の中で露骨になった現象と思われ、そして白人ハーフの一個人もまた紙面上の白人ハーフのようであればならないという抑圧を受けるのはその差別を維持するために発生する「コスト」を当事者自身でありこういった風潮を作り上げる過程には加わっていない彼らが支払わされているからと考えています。

先日のArineへの抗議の記録で言及したように、現在服飾やデザイン、メークアップなどの業界で最も上に立っているのは一握りの白人です。我々は無意識の内に、白人中心の美的感覚をも内面化しています。その業界内において東アジア人はまだ少数派であり、東アジアの中から東アジア的美的感覚をもって業界を変える段階でもまだなく、業界内の文脈に沿って知名度を上げるか、消費者としてアジア蔑視的広告や商品を出したブランドに抗議する段階に留まっています。そのような状況に置かれている人々に対して、その理由を知らないまま東アジア人としての誇りを持てと外から言うのは、些か無知でありますし、白人の世界からのみ我々を集団として極端に単純化しながら色眼鏡で見ているからであろうと思います。

マヤとナザニン両者とも人生のほとんどを日本で過ごしてきたためにそのような価値観を内面化し、お互いにハーフらしい見た目でなければならないという強迫観念に苦しんできました。そしてハーフではない人達も、変えようにも限界がある、生まれ持った外見を否定するかのようなこの価値観に苦しめられている個人は少なくないのではないかと考えています。私達は、個人を尊重しないままただ見た目だけ「白人のように」美しくあれ、「白人に近い見た目だから」ハーフ顔になれ、と嘯き続けそれによって物を売る日本のメディアのあり方や市場の戦略に強く反対しています。我々には東アジア人としてのプライドがないのではなく、それを持つことを許されていないのだと考えてしまうのです。

2.日本企業のデザインにおける怠惰

東アジア系や東南アジア系が人口の大部分を占める日本で、なぜ広告に白人モデルばかりを起用するのでしょうか?彼らはモデルである以上白人の中でも特に見た目が整っている人々に限定されているため、東アジア人にとって参考になるならない以前に、白人と他者から認識されやすい身体的特徴を持つハーフ含む個人への外見に関する偏見をも強める可能性があります。加えて、自分の見た目に関わる商品を売り込むにあたり身近でない見た目を持つ人々ばかり起用するその有用性には疑問があります。彼女達がしている化粧を自分の顔と重ねて想像してみることはほとんどの個人にとって恐らく困難です。たとえば、日本国内の企業であれば少なくとも日本国内で活動している日本語話者のモデルを特定の人種にかたよることなく起用する方が容易であろうと思われます。購買者にとって具体的な使用例を提示できることでもあるのですから、実用性においてもそちらの方があり得るのではないでしょうか。あるいは人口に関して言えば日本において最も身近な外国人にあたる、中国や韓国から来た人々や東南アジアから来た人々をモデルとして見かけた方が、まだ理にかなっているはずです。中韓のモデルの方々は何かと日本語インターネットでも見かけますし、反応も好意的なように思われます。しかしそうではなく、わざわざ国外を拠点にしているモデルを起用するという行為からは、自らがやっていることをまるで省みることなく「こうしておけば売れる」としてやっている企業側の態度を読み取らずにはいられません。白人モデルすらモノとして見ているのか、売り物の客寄せパンダとして見ているのか、という疑念が尽きません。企業も考えてみれば個人の集団に過ぎないのに、集団になった途端に帰属する個人が思考停止し集団に自我を埋めてしまって自らの良心をもって考えることをしなくなる、企画が通れば上に聞こえの良いやり方であればよい、それが結果金になるなら過程や手段は全くどうでもいい、となる企業のやり方の帰結は、こんな形で膿のように出てくるのだと思います。そして上記の現象は上層部の決定権があまりにも強すぎ、彼らの古く偏った価値観に下が従わなければならないという企業の体質によるところが大いにあろうと思われます。企画の段階であっても違をとなえることは和を乱すとして敬遠され、また上の意向で突如として企画内容を変えられ、結果としてその古い価値観の再生産と強化を肩代わりすることになり、それに下の世代が抵抗できない、自分の仕事を維持するためには思考停止状態に陥るしかない、という風潮に繋がり、このような現象の変化を滞らせている可能性もあります。

北米や欧州向けの広告に白人モデルを起用するのであれば問題はないのに、という考え方も一面的には理にかなっているものの、北米や欧州でも白人以外の人々もその地で自分の生活を営んでいるのですから、やはりこれほどの頻度で白人モデルだけが起用されていることの正当性を保障するものではありません。そしてそれは全く逆であって、日本のブランドであれば積極的に東アジア系のモデルも同じ頻度で起用した広告を打つことで、東アジア人モデルの知名度を上げその地に住む東アジア系の人々の存在も示せるのですから、むしろ資金と知名度のある日本のブランドほどそれをやらない手はないと言えます。メディアは人々の価値観に作用するその影響力において優位な立場にあるのですから。つまり、日本の高級ブランドがその影響力を用いて自ら東アジア系のモデルを起用しない限り、東アジア人が「そのブランドの価値に見合う顔」であると認識される日が早々に来ると私は思いません。立場を逆にして考えてみてください。日本のブランドが、たとえば日本社会において少数派にあたるアフリカ系や中東系のモデルを起用し彼らの日本社会内での認知度を上げるために貢献しているのを何回見たことがありますか?たまに話題にあがる中韓のモデルやアイドル達が従軍慰安婦の存在すら認められない人々のサンドバッグになっているところを見かけたことはありませんか?ハーフモデルは頻繁に起用しても、そのハーフモデルの文化的背景を、それを物珍しいものを楽しむ目的以外で追った特集を私達はどれだけ見かけたことがあるのでしょうか?もしこのうちの一つでも日常的に問題としてメディアが取り上げていたら、こんなことが行われなくなっていたのではないかと、思いはしませんか。そしてその一方で、日本以外に出自を持つ個人が声を上げなければならないことになっている事態を、我々はインターネットでよく目にはしていませんか。それどころか日本において最も身近な外国人にあたる、中国や韓国から来た人々や東南アジアから来た人びとがどんな仕打ちを受けているのかすら、我々は知っているにも関わらず、私達は違うから、と、日常的に話すこともないのではありませんか。そして私達の、この彼らと私達という線引きを引きながら自分たちの社会の中で起こっている差別に対して他人事のように振る舞う体たらくのために当事者が、外見から勝手に推定された出自や国籍のみを根拠に価値を値踏みされる出来事には耐えられず、そしてその人生の中で自分以外の誰も代わりに声をあげてくれないと学ばざるを得なかったから、自分がやらなければ何も変わらないと知っているから、何かが変わるきっかけすらないまま次の世代まで同じことが繰り返されると知っているから声を上げているのではありませんか?集団の中に個を埋没させ現実に関する情報に対して受動的であるよりも、個人の力を使ってメディアに働きかけ、その過程で同じことを考えていた個人同士が個人のまま集まって声を大きくしていくことは、消費者として出来る数少ないことでありながら、もっとも力ある行動であろうと思っています。私達が1人でも多くその行動をすれば、企業もいずれは動かざるを得ません。あなた個人の力を、どうか過小評価しないでください。あなたには現実を変える力があります。東アジア人のプライドは見た目ではなく、世界の片隅からでも何かを変えられると信じ行動に移すことで示せると思うのです。

3.私達個人の参加意識

ここまでは、いわゆる力関係において上に位置する側を指して批判をしてきました。では、その力関係において弱い立場にある私達は全く無罪で、一片の責任もないのでしょうか。この点に関しては、私の自らの無責任さに恥じ入りながら書きます。今日誰かが、私の失敗を見てその傲慢さを認識してくれて、明日からは今までよりも少しだけ善良に生きようと思う機会になればとの思いで共有します。

まず、人種差別はする側に全ての責任と問題の根源があります。そして人種差別は、個人の見た目などの傾向を極端に単純化し、特定の性質と結び付けた上で、発言者の偏見を保つために行われるものが当てはまります。人種差別と聞いた時に、あまりにも露骨な、たとえば出身地域と知性を関連付けるなど最も醜悪で邪悪なものを想像することが多いのではないかと思いますが、実際にはもっと気軽にやってしまえるものもあるのです。たとえばハーフ顔などはまさにその類にあたり、言っている側は褒めてるつもりでも実際には相手の見た目をもって相手の人格や人生はこうであろうと決め付けており、目の前にいる人間その人を全く無視しているため、根っこにある醜悪さの性質は同じです。アフリカ系の人は足が速い、白人は目の色が明るい、なども同じです。実際にはそうでない人も多くいる上に、仮にそうだしても個人の持ち物に相当してかつ生まれた以上変えるのは大変難しく本人が選択して得たものですらない身体的特徴に言及するのは失礼極まりない行為です。

自分が当事者でもない限りそもそも知りようがないのだから決め付けない、大雑把に括ろうとしない、最初から可能な限り相手の見た目に触れない、自分の認識や知識を過信しない、など出来ることはありますが、やってみてもそう上手くいかないのです。私には、「あれだけ気を付けて普段から考えているのに言ってはならないことを言ってしまった」という失敗をした過去があります。それは、なぜその行動を自分は変えるのかという点に理解が伴っておらず、つまり当時の私は相手を見て言動を変えていただけであったからであり、自分の認識の浅さや傲慢さは変わっていなかったからです。私は、自分は良い人であるという幻想に浸りたいからやっていたのです。私はこの社会において少数派ですが、他の少数派の尊厳を踏み躙る行為を知らない内に行ってしまう可能性は常にあります。その「対処法」として単に良い人であれば良いのだと考えていました。別に、それが完全に悪いことかと言えばそうでもないのかも知れません。私達は、そうやって行動して人を助けたつもりで、実は良心的人間で自分はまだいられていると思わせているその相手に助けられています。情けは人の為ならずと言いますが、そういった理由からでしょう。しかし自分が行動を変えるのは、「確たる意図のない」差別をこれ以上続けるのをやめ、この社会の中にある差別に「消極的に」加担しないための重要な一歩であり、自らの良心に従って実行する行為です。他者の目から見た自分を見て私って差別しない良い人優しい人という自己陶酔に浸るという目的にその方向性が向いてしまっては本末転倒でありましょう。褒められたくて、見返りがほしくてやっていては、いずれやめてしまいます。良心に従って生きることは一銭にもならないどころか負担と感じるものにすらなるため、他者の目に映る自分の見栄えを良くしたいという理由では到底続かないのです。それでも、良心を無視し続けて何かを得たとして、あとで言いようのない居心地の悪さや後ろめたさと戦わなければならないことにもなります。サッカーで手を使って勝つのは簡単でしょうが、そうやって勝ったとして充足感が得られるのか、その方法で勝った自分を快く思えるのか、ということでもあります。

確たる意図のない差別に加担しているとは、どういう状況でしょうか。私は、物質的に豊かで便利な東京の生活を当たり前と思って暮らしていました。東京に居た頃は服が好きで、特に安い価格帯の服は気晴らし程度でも買っていました。H&Mには出先に店舗があれば、特に欲しいものもないのに必ず入っては買い物をしていました。安くて可愛いからいいや、安かったからすぐだめになっても捨てちゃっていいや、という感覚でした。そうしていた時、2013年にバングラデシュのラッカ市シャバールにあったラナプラザというビルが倒壊し、1000にものぼる人間がその下敷きになって死亡しました。ラナプラザは商業ビルであり、その中には縫製工場もありました。その縫製工場では、私が知っているブランドの服の製造も行われていました。北米や欧州、そして日本のブランドは、劣悪な環境に置かれている人々の現状を無視し、その人件費の安さを理由に彼らから搾取して利益を上げていました。人件費を安く抑えるために、彼らの労働環境の改善どころか、彼らの労働環境すら知ろうとはしませんでした。そして、そのブランドの服を買っていた私も、それに加担していました。ラナプラザ倒壊事件は遠い国で起こった悲劇などと他人事のように片付けられるものではなく、私自身も安全な場所からその構築と維持に、搾取と殺人に私のお金を出すことで加担していました。当たり前と思い込んでいたその物質的豊かさがどこから来ていたのかなどと疑問にすら思いませんでした。日本における外国人研修制度という名の奴隷産業も、私のこういった無知と傲慢が許した国家ぐるみの犯罪です。恥ずかしいことですが、ラナプラザ倒壊事件以前はそれに加担している自覚や特権意識どころか知識すらなく、ただ安くてお手頃だという認識しか持っていませんでした。見なくて良かっただけなのに、無いものと思い込み無視をしてきました。これが、確たる意図のない差別なのです。安さには理由があるのです。私達は常に、ただ好きだから、欲しいから、という動機で知らないうちに何かしらの差別に加担している可能性があるのです。自分は良い人であるという幻想に浸るためでなく、これ以上差別という人を1000人でも殺しうるものに加担しないために、私達は少しずつでも気付いたところから行動をしなければなりません。そのために多少の安価さや楽しみを犠牲にしなければならないとしても、その安価さや楽しみは人間の命を犠牲にして得てきたものだということに比べたら、よっぽどましだとは思いませんか。「ハーフ風」カラコンも、白人モデルの広告も、結果として人を殺すことに繋がる可能性は否定できません。先日自殺したハーフの子達は、我々がハーフ顔やハーフメイクを「好きだから」消費する一方で、その行動に伴う結果に対して無責任であったから、現実に生きる人間に及ぼす影響を軽視し続けたから、その結果2008年に愛知県刈谷市で、2010年に群馬県桐生市で、実際に生きていたハーフ達が自殺したのではありませんか?私達は彼女を自殺に追い込んだ環境を整えてしまっていた、私達が彼女を殺してしまったとは、考えられませんか?私達の子供が、孫が、姪や甥が、ハーフとして生まれてきたり外国人として生きることになる日がくるかも知れないのに、あるいは誰かの子供や親戚達がそうなる未来がくるかも知れないのに、これ以上こんなことが起こったあとから悔しいとかこの社会はおかしいとか、そう言ってみるだけのままではいけないと思いませんか?私達は当事者としての意識を持たなければならず、この問題を直視し、自分が間接的にでも関わっている差別に対して行動をする責任があります。それどころか、何もしないでいられる時間はもうないのです。自らの個人としての責任や良心の呵責から目を逸らしながら持てるプライドがあるかどうか、私には疑問です。

4.確たる差別、無視

改めて差別というものを目を向けてみましょう。「個人の見た目や傾向と特定の性質を結び付けた上で行われるもの」の中には、その上で特定の集団に属する人々を無視するという手段が存在します。居ないことにする、あるいは取り上げるに値しない集団として扱うことです。私もしてきたことが、この無視です。居ないことになっている人々を我々は見ることがないのですから、そこに自分との関係性を見出す以前の問題になってしまいます。白人モデルを広告に起用する一方で、そうでないモデルは起用しないとなると、暗にモデルとして起用されない人々が属する集団は美しくない、客として扱うに値しない、という風な社会通念が出来上がっていくのだと思っています。

日本国内においては上で挙げたように、「日本以外に出自を持つ個人が声を上げなければならない事態」が存在します。アメリカ出身で日本在住の記者バイエ・マクニールさんをご存知ですか。

https://abematimes.com/posts/3595982

とある日本のお笑い芸人の方が、某アフリカ系アメリカ人のコメディアンの方が演じた役を再現する際に顔を黒く塗ったことから再度話題になったこの手の差別は、日本では歴史的文脈上馴染みが薄いという理由が先立ち、それを理由に視聴者側はなぜこれが差別なのか理解する気がない様子であったことを覚えています。なぜ差別的なのか説明されても、でもここは日本だから、とその差別の実態から目を逸らす、つまり無視するといったことが日本ではまだ平然と行われており、実際のアフリカ系アメリカ人の個人が声を上げ続けなければならない状況が続いています。何か起こればその時は思い出して言及するものの、結局その後は普段どおり「居ない人々」として無視してしまうのです。そしてその無視という選択肢があるのもまた、特権です。外見が「普通と違う」状態で生まれてくれば、毎日毎日それについて言及されるのだから、無視できるという特権に与れる日は死ぬまで来ません。

また一つ恥ずかしい話をします。私は日本に住んでいた時に、自分の肌色に完全に合うファンデーションの色はなくても、当時は私の肌色が明るかったので何も気にせず明るさが近いものを使っていました。これは、一つには私のような緑っぽい肌色の人間が無視という形での差別を受けていることに鈍感だったことを意味しています。もう一つには、このファンデーションの色が全て合わないということを意識せずに生きられるという自らの特権に無知であったことと、全ての色が合わず顧客として無視されている人々が実際に存在していることを、日焼けさえしなければ私が無視できたこともあります。日焼けをしたあとは、その辺のアイシャドウも頬紅もまるで発色せず、仕方なく高いブランドのものを買わなければなりませんでした。日本国内において、それが肌色の深い人々が毎日直視させられている、彼らへの社会全体からの無視です。これにたとえば「美白」ときう価値観が加わればどうでしょうか。更に絶望的な聞こえではありませんか。移住してからそういった会話に触れ、幅広いファンデーションの色の範囲が当たり前になりつつある社会の中で生きることにして、そして日焼けして日本に遊びに行くまで全く気付きませんでした。これもまた私が気付かず加担していた差別であり、無視であり、私自身も差別に対して鈍感でした。

この無視という手法はアメリカにおいても使われ、何百年もの間アフリカ系アメリカ人達が、現在ではアジア系アメリカ人達も、自分が存在しないことになっている社会の中で苦しめられています。たとえば深い色のファンデーションが店頭に置かれておらず、高い価格帯のブランドからは発売すらされていない現状が例にあげられます。これに関してはブランド側から、顔料にお金がかかるとか、店頭の筐体の大きさは限られているとかいった釈明が行われてきました。しかし実際に使われている顔料はファンデーションの色に関わらず特定の色の調合比率を変えているだけですし、筐体の大きさが限られているならオンラインで売れば良いのですから、言い訳のようにも聞こえます。現に、アメリカ国内においてはアフリカンアメリカンの女性の方が白人女性と比較して何倍も化粧品にお金をかけています。

https://www.refinery29.com/en-us/2016/02/103964/black-hair-care-makeup-business

にも関わらず彼女達が使える化粧品が少ないのは、暗に彼らを顧客として見ていない、まさか買っているとは思わなかった、つまり無視してきたからであろうと思われます。あなたは顧客として相応しくないからうちには来ないで、という風にも聞こえます。しかしながら、この現状は少しずつ変わってきています。Fenty Beautyが40を超えるファンデーションの色を用意したことで、アフリカ系アメリカ人を顧客として想定していると明確に示す高級化粧品ブランドを誕生させました。アフリカ系アメリカ人の、特に女性達が長い戦いの末に得たこの変化を、アジア人も参加して更に推し進めていくことが出来るとは思いませんか。加えて、最近では欧州の化粧品のブランドも、市場戦略の一環としてモデルに白人以外を起用するようになってきました。

日本の化粧品ブランドも少しずつアメリカに進出しています。日本の化粧品の質は、Suqquや資生堂が示しているように、日本国外の消費者にも受け入れられる基準に優に達しており、高価格帯のブランドとしての知名度を確立し始めています。先に知名度をあげた韓国コスメのお陰で、アメリカでは東アジアの化粧品店が参入する素地が整っています。ここで日本のブランドがアジア系、中南米系、そしてアフリカ系のモデルも起用し、彼女達を顧客として想定していると商品の展開を持って明確に示すことの方が市場戦略としてよほど有効ではありませんか?無視しない、ということを我先にやった企業が結果として儲けを得るのであれば、けちはつかないと思います。我々の国の企業は無視をしない、と言えるようになることもまた、見た目だけでない東アジア人としてのプライドになり得るのではないでしょうか。

おわりに

現実私達は、東アジア人としての自分を誇れない状況にあります。幼い頃から白人の見た目に近付くことを提案され続けていれば、それも無理はありません。特に美容産業はその形態の性質から、白人のモデルを中心とした美的感覚をもって運営されており、それは消費者にも広告を通して伝播します。その美の基準に合わなければ劣等感を抱えながら生きることをなり、誇りを持つという次元にも達することはできません。まずはその広告、あるいはその広告の向こう側にいる企業の姿勢を個人が問い続けることで進みは遅くとも変わっていきます。消費者が広告業者や発注元の企業にメールをするだけでも、積み重なれば変わっていくのです。しかし変えていく側の個人に、なぜそれをするのかという強い動機や、すべき理由への自身による深い理解も必要になります。この問題には自分も間接的に関わっており、むしろ自分には当事者意識と責任感が必要だ、という確信があって初めて声に出せます。その助けになればと、私個人の体験を挙げました。誇りとは何も見た目の話でも誰かから与えられるものでもなく、自らが持つその精神性から来ると思っています。我々は当事者意識と責任をもって不正を見逃さない、誰も無視しない、と強く示すことが、次第に周囲にも波及していき、時間はかかってもそれが東アジア人としての誇りになると思うのです。東アジア人としての誇りだなんて大げさな、なんで自分の人種を常に認識していなければいけないのか、人種なんてものがない世の中にしていったほうが良いんじゃないか、というのも理解はしています。しかしこれは大げさな話ではなく、ただ個人として持てるものを行使するという話であり、人種などというものを世界中の人間が忘れる日が来るとすれば人種というものがもたらすこのようなものを一つ一つなくしていった結果であると思うのです。人種は無視すればなくなるというものではない、むしろ悪化させる、ということを我々はすでにどこかで知っています。ここで無視をやめ、無視をしない、誰の足も踏みつけず誰の頭も押さえつけない、ということを強く誇示し続けることがいずれ誇りになっていくのではないでしょうか。思考は言葉に、言葉は行動に繋がると私は信じています。この記事が、あなたのどの段階であっても一助になればと願い、書きました。これは私の行動ですが、あなたがこうして読んでくれることで成就し、そしてそれが更に私にとって行動をやめないきっかけになります。私があなたの一助になれているかは分かりませんが、あなたは私を助けています。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。