ここがダメだよアナキズム刑法論!

アナキズム刑法論のおおまかな言い分

 体系的なアナキズムの支持者は、犯罪が起きたときに加害者をどう裁くのかについて、現代の統治システムとは異なる解決の仕方を支持する場合が多い。まずこの章では、スタンダードなアナキストの刑法に関する主張をまとめていこうと思う。
 アナキストにとって「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」という法則の最たる例が警察である。つまり、永続的に治安維持業務に専念していれば必然的にそれ以外に盲目的になり、権威を振りかざすようになるという問題意識がある。アメリカ合州国で一般に「警察は差別をするもの」という認識が広まっていることからも、この指摘が的外れでないことは確かだろう。この問題に対し、ギョームはバクーニンの主張を以下のように要約している。

今日のように、特別な公的機関に委ねられはしない。(コミューンの)健常な住人全員が、コミューンによって制定された治安対策に交替で召集されるであろう。

James Guillaume, Bakunin on Anarchism, p. 371

勿論、市民から選出された警官は問題行動があった場合すぐ更迭できるようにされる、とした条件が付いた上の主張だ。
 次に犯罪を犯した場合だが、日々変わる民衆の倫理観としばしば乖離した法律と、それに則る現代の裁判システムは自由社会とは相いれないと考えるアナキストは多い。したがってアナキストの間では、陪審員を民衆から無作為に選出し、その陪審員が法律に依存し過ぎない裁定を下すことが最善だという見解が一般的だ。

人々の間に意見の相違が生じた場合、任意に受け入れられた仲裁や、世論の圧力の方が、無責任な判事を通じてよりも、正しいことが何処にあるのかを論証しやすいのではないだろうか?

Errico Malatesta, Anarchy, p. 43

 最後にその刑罰を遂行する刑務所だが、まさに自由の束縛を目的とする施設には反感を持つものが多い。今日こそ再犯防止のため復讐よりも社会復帰と更生を重視する考えが定着を始めて久しいが、アナキズムが理論を編まれていた当時、刑罰は被害に対する復讐の場以外の何物でもなかった。したがって、アナキストたちが刑務所の廃止を唱えるのは必然だった。ただし、それでも他者の自由を脅かしかねないようなものたちは、その原因が精神病である場合は精神病院に、それ以外の場合は島のような場所で隔離される必要があると論じられている。

市民全員参加の治安維持

 さて、これらの主張、かなり時代遅れのものが散見されることにお気付きだと思う。アナキズムは第二次世界大戦後大きく退潮したが、それ以前に組み立てられた理論が社会の進歩を反映しないままここにきている。例えば刑務所の例にしても、「刑務所の本質は復讐である」という認識にしても、刑務所をどう社会復帰の場として運営できるかが議論されている今の世相とはだいぶ異なり、当時の解決策が現在のそれに代わる見込みは薄い。
 まず、市民のうち一定数が短期間警察業務に従事し交代していくという構想は、それの遂行に必要な技能と高度な専門知識に応えることが出来ないだろう。警察には犯罪者を鎮圧する身体能力と、法律の理解を必要とする。身体能力の高い人材を常に確保できるかは不透明で、雇用契約でも結ばない限り難しいものと思われる。そして法律の点だが、これまでの記述からも分かる通りアナキストは法律を重要視しない。したがって、警察業務を請け負う市民団は恣意的な権力の行使を妨げるものは何もないことになる。
 しかしアナキストの権威主義的で腐敗した警察への懸念はもっともだ。これに対する解決は市民の良心よりも、市民が警察の統率部を民主的に選出することのように思われる。具体的に言えば、警察の署長を直接選挙によって選出し、専門的に訓練された職業警察官の指揮にあたらせる。そしてその職業警察官の採用担当者も同様に民主的に選出することで恣意的な運用と権威主義的な腐敗を防ぐことが出来るだろう。現在の政治システムでも、軍での同様の問題を解決するために、軍のキャリアを持たない文民が軍の指揮にあたる文民統制を採っている。同様の抑止効果が期待できるだろう。

法律ではなく良心に基づく陪審員

 アメリカ合州国の陪審員は、裁判中にテレビや知り合いとの会話を禁じられ、フェアな判断が下されるよう配慮されることはよく知られているはずだ。アナキズムの主張は「民意と良心に即した裁定の方がフェアである」という認識に基づくものだが、これは左翼にありがちな「民衆は自由のために適切な判断を必ず下してくれるんだ」という民衆への楽観的な過信が背景にある。民意は群集心理によって暴走をするし、良心には恣意性と相対性が含まれている。恐らく、アメリカの陪審員が外部との接触が許可されたとしたら、犯罪の程度に限らず厳罰は飛躍的に増えるだろう。民衆の願う量刑が適切な量刑と同じであるとは限らないのだ。
 私は刑罰の場合でも裁判の前に被害者と加害者が合意に至った場合はそちらを優先すべきであるという主張に同意する。また、日本では裁判員裁判を除いて職業裁判官による裁判が多くを占めるが、これにより裁判官が検察側に心情的な肩入れをするという指摘がされており、陪審員裁判の導入は現在よりフェアな裁定を下せる可能性を大きく上げるだろう。

刑務所の廃止

 何度も述べたように、今日の刑務所は復讐の場から脱皮を始めている。我々はこの動きを強く支援すべきだろう。つまり刑務所を廃止することによって問題の根本を排除することよりも、刑務所の持つその問題の解決を図ることによって適正な更生の場として利用されるよう改革するべきなのである。実際、他者の自由を脅かそうとする者を隔離する必要性を否定できるものはいない。ならば、犯罪者に危険な性質を取り除く場を与えるとともに、刑務所が出所後の再度の犯罪を防ぐことへ集中すれば、刑務所を必要とする人々は減っていくだろう。


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