景色をたべる

 昨日の日記(?)です。

 綿雲がまるで建物のようにうずたかく山の稜線の上に積まれて、カーテンの奥に付けるレースのように太陽の光を遮っているから、晴れているような、曇っているような、妙な空でした。でも時折小雨が降っていたからきっと天気予報では曇り時々雨、といっていたはずです。目玉のように濁った白色の、とにかく、妙な空でした。

 ぼくは仕事の前のわずかな時間、散歩をしに外へ出ました。現代人の生活というのはせわしないので、どんなに短い時間であっても、またはんたいにどんなに長い時間であっても、それを無駄にすべきだ、とぼくはおもいます。自分が牧歌的な人間だとはおもいません。何も考えない時間がないから。こう書くと計算高い人間なのだとおもわれるかもしれないけれど、計算は苦手なんだ。うまくできない。

 散歩と思索との相性は、意外にも、あんまりよくない。もっと、どうでもいいことをしている最中の方が、思索に耽るにはいいだろう。というか、ぼくはさいきん、そもそも生きることと思索との相性が、あんまりよくないんじゃないかとおもいはじめました。理由はうまくいえないのですけれど……。

 小雨が降り出して、雨宿りも兼ねて公園の中にある森に入りました。クヌギの木の幹に触れてみる。血が流れているみたいにあたたかい。子供の頃、このあたりで蜘蛛の巣にかかっているコクワガタを逃がしたことがあります。足もとには、ビー玉と同じくらいの大きさの丸いどんぐりが足の踏み場に困るほどたくさん落ちていました。この丸いどんぐりが、小学校の一時期、貨幣として使用されていたのをおもいだしました。今なら大金持ちになれる。少し強くなってきた雨に、景色がひび割れているように見えました。

 何も考えない時間がない、と上に書いたけれど、考える、という言葉はもしかしたら適当じゃないかもしれない。散歩していると、色んな景色が見える。ほとんどは、取るに足りないものかもしれない。そのとき、特に心揺さぶられるものではないかもしれない。でもなけなしの注意深さでもって対象を眺めさえすれば、何分後か何日後か、それはわからないけれど、頭の中にむくむくとイメージがたちあらわれて、本来空虚であるはずの自分の中に根を張る、そんな瞬間があります。

 そうやって景色を「食べて」いるうちに、自分の中にいろんな景色が屹立してできた、公園であったり、摩天楼であったり、遊園地であったりするそれが、それこそが自分なんじゃないかな。秩序だっていなくたっていっこうにかまわない。節操のない随想こそがまさに自分を形作っているところのものなのではないか。そう考えると、散歩は時間の無駄じゃない。というか、時間を無駄にすることは決して無駄なことじゃない。

 雨は止んだけれど、風が強くなって、空では薄雲が散り散りになっていました。歩きながら空ばかりみていたせいで遊歩道のどんぐりに足をすべらせて、あやうく転びかけました。たぶん滑稽な姿だったとおもうのだけれど誰もみていないので自分で笑うしかなかった。もう空は見ずに帰りました。上衣の裾がひるがえるほどに風が強くなってきたけれど、風に乗ってどこからかでたらめなソプラノリコーダーの音がきこえてきて、なんだか救われたような思いでした。

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