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南沙織は 写真だけでスカウトされ『17才』でデビュー♪ 彼女が背負った苦悩☆

写真だけでスカウトされた南沙織は『17才』でデビュー♪
5/4(水)9:06配信


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南沙織(C)共同通信社


"「17才」南沙織"
https://youtu.be/7sxgltwkYqw

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  初の沖縄出身歌手としてデビューし(1960年)売れっ子となった仲宗根美樹と入れ替わるようにデビューしたのが、南沙織(現・写真家の篠山紀信夫人)だった。

普天間基地近くで生まれ育った南と芸能界の出合いは意外な形だった。

「仲宗根の活躍で沖縄に芸能界の目が向けられるようになり、地元テレビ局も視聴者参加型のど自慢番組を放送して新人の発掘をサポートした。
 この番組の集合写真にアシスタントとして写っていたのが南。

 偶然、CBSソニー関係者の目に留まりスカウト。母親と共に東京に呼び寄せた。歌も聴かず写真だけで決めたのも、南には沖縄の少女らしい雰囲気があったのだと思います」(地元紙記者)

 音楽プロデューサー・酒井政利を中心に特別プロジェクトが結成され...
わずか3カ月という異例の早さで71年6月1日、実年齢に合わせ楽曲も「17才」でデビューした。

 キャッチコピーは「ソニーのシンシア(月の神)」だった。
「長い黒髪と小麦色の肌、クリッとした瞳。エキゾチックな女の子に男女問わず魅了された。

 ブロマイドは2年連続1位。アイドル歌手のレジェンド天地真理と小柳ルミ子に南が加わり“新3人娘”と呼ばれた。

 南は翌年の返還に向けて沖縄のイメージアップにつながった」(元芸能誌編集者)
 南も撮影で知り合った篠山氏と結婚。活動8年で芸能界を引退した。

プレーバック「沖縄芸能50年史」南沙織からフィンガー5、安室奈美恵、黒島結菜まで
(日刊ゲンダイ)


 今や沖縄出身者は、芸能界の一大勢力になっています。
 そのルーツは62年前、沖縄がまだ米国の統治下だった時代までさかのぼる。

 初の沖縄出身歌手としてデビューした仲宗根美樹さんのことは全く知らないが、南沙織のことはテレビ画面を通しての記憶はあります。

 当時、全世代から過半前後のファンを持つ天地真理とは、全く違ったファン層だった南沙織さん。

 あまり小学生の人気対象ではなかったので、クラスの友達との会話には登場しなかった。

 しかし、あらためて聴いてみると、上手い歌い手なのだ。
 非実力派宣言で知られた森高千里さんのリメイクカバー『17才』により、再評価されたように思う。

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"71'「17才」72'「純潔」73'「色づく街」74'「夏の感情」75'「人恋しくて」南沙織"
https://youtu.be/3fJd225XwbQ


(以下、引用加筆修正)

 昭和47年5月15日(1972年)、戦後27年間に及びアメリカの支配下にあった沖縄が返還された。米軍基地は残り続けるのだが...

 その前年に「17才」でデビューした、沖縄出身の歌手・南沙織がいたのだった。
いわば沖縄代表であり、返還前後の沖縄の象徴となってしまった。

 彼女は、自ら「沖縄」を語ることはなかった。

 それは、当時、米国と日本政府との狭間で、沖縄と日本本土との微妙な距離を感じとった中での「祖国復帰」前後の象徴とされたこと、また自分の育った環境との大きな違いから、触れようとしなかったのだろう。


 しかし、2002年、歳を重ねた南沙織は、沖縄タイムスのインタビューでこう応えている。
 「私は純粋に沖縄生まれの、沖縄育ちです。それは紛れもない事実です。でも(県民の)皆さんが想像するような沖縄育ちといえる立場ではない。(中略)私は27年間のアメリカ統治下の『時代の子』として特殊な世界に暮らし、育ったことをあらためて実感するのです」と、率直に語っている。

 当時は、米軍に土地を奪われ、圧政に苦しむウチナーンチュと、米軍の基地経済に依存して暮らすウチナーンチュが交錯する時代だった。

 また、米軍人と結婚したウチナーンチュの女性たちも多く、任期を終えた軍人の帰国で置き去りにされた母子も少なくなかった。
「ハーフ」の子どもたちが差別された時代である。沙織のいう「時代の子」とは、こんな環境を指すのだろう。
 しかも、彼女の家族は米軍基地に寄り添う生活であったために、沙織自身、アイデンティティを素直に「沖縄」に求めるのは本人には抵抗があった。

(以上、『南沙織がいたころ』(朝日新書)より、引用加筆修正)


 若き南沙織さんの、華やかな芸能界に長く身を置けなかった理由が、ここにあったのだろう。
 家族にも誰にも話せず、孤独の中での苦悩だったのでしょう。


"クリス松村otonano連載【クリス ミュージック プロマイド】⑧南沙織『CYNTHIA ALIVE』スペシャル"
https://youtu.be/JTTLTVenhBk


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南 沙織(みなみ さおり、1954年7月2日-67歳 )は、日本の元歌手、元アイドル。
沖縄県嘉手納町生まれ、宜野湾市育ち]。夫は写真家・篠山紀信。3児の母。次男は篠山輝信。

別名シンシア(Cynthia 英語名)・ポーリー(Paule フィリピン人義父の姓)
学歴:上智大学卒業
ジャンル歌謡曲、J-POP職業元歌手、元アイドル活動期間1971年-1978年

1991年-1997年レーベルソニー・ミュージックエンタテインメント事務所バーニングプロダクション→T&C ミュージック(現役時代)
共同作業者:酒井政利・有馬三恵子
筒美京平公式サイトArt of loving


[人物]

 沖縄県嘉手納町で生まれ、4歳の頃からは宜野湾市で育った。幼少の頃は宜野湾市でも何度か引越しをしたが、南によると「どういうわけか、自宅はいつも普天間飛行場のゲートの近くだった」という。

 母の勧めで真栄原のクライスト・ザ・キング・インターナショナル・スクールに通った。

 義父はフィリピンが故郷で、第二次世界大戦後にアメリカ合衆国の軍属として沖縄に来ている。

 デビュー時は母親の郷里、鹿児島県(奄美大島)生まれとされたが、実際は生まれも育ちも沖縄県[3](なお、出生から17歳まで琉球政府施政権下)。
 また、フィリピン人とのハーフであるとされてきたが、正しくは両親とも日本人で母の再婚相手(義父)がフィリピン人である。

 生育環境からいわゆるバイリンガルである。異父妹弟がいる[5]。

 カトリック信徒で、英語名「シンシア(Cynthia 月の女神、蟹座の守護神の意)」を愛称としている。

 星座が「蟹座」であることから、デビュー曲「17才」のジャケットの写真にも「蟹座」のデザインのシャツを着用しているほか、発売時のキャンペーンでは蟹のマークのシールが配布されていた。
 デビューから35年を経て発売されたCD-BOX『Cynthia Premium』の外箱には、同様に蟹座のマスコットがプリントしてある。


 1972年の沖縄返還の前後に沖縄県民の間では非常に大きな盛り上がりがあったが、沖縄が日本に返還されることについて南は、「とても複雑な心境だった。素直に喜べなかった。」と述べている。

 その理由として、義父がアメリカ軍兵士を相手に飲食店を経営しており、返還を機に父の店はダメになるのではと懸念していたからであった。

 本人が「テレビよりもファンと直接触れ合えるコンサートが好き」と語っていたように、芸能活動の多くは音楽活動に費やされ、テレビドラマや映画出演などの女優業はほとんど行わなかった。


[著名人のファン]

 吉田拓郎は南のファンであることを再三にわたって公言しており、かまやつひろしと組んでリリースした「シンシア」は、南に捧げた楽曲である。
 また、泉谷しげるも同様で1973年に野音にて南とジョイントコンサートを行っている。
他にも羽仁進、大岡昇平、岩崎宏美、泉麻人、やくみつる、さくらももこ、みぶ真也などがいる。

[来歴]
デビュー前

 歌手デビュー以前、地元沖縄で琉球放送の視聴者参加型のど自慢テレビ番組『オキコワンワンチャンネル』『100万人の大合戦』などでアシスタントのアルバイトをしていた。

 一方、その頃東京では、CBS・ソニーがデビューさせる新たな人材を探していた。

 ある時、琉球放送のテレビ番組にヒデとロザンナがゲスト出演した際...

 そのマネージャーが持ち帰った写真に偶々、南が載っており、更にそれが偶然ソニー関係者の目に留まったことから...

 急遽、東京に呼び寄せられることとなった。


現役時代

 1971年の春、本土復帰前の沖縄から母親と二人で上京。
CBS・ソニー社長との顔合わせを経て、デビューに向けたプロジェクトが開始された。

 レコード・デビューまでわずか3ヶ月足らずというその過程について、作詞家の有馬三恵子は、「あんなにスムーズに新人歌手をデビューさせられた例は、他にない気がする」と語っている。

 そして「詩心を大いに刺激した」という南のために書かれた詞の中から...

 「17才」がデビュー曲として採用され(タイトルは酒井政利による)...
 6月1日に「ソニーのシンシア」のキャッチフレーズを持って歌手デビュー。約54万枚の大ヒットとなった。

 楽曲作りに着手した時点ではまだ芸名は決まっておらず...
 CBS・ソニーの社内公募では「南陽子」が1位だったが、有馬三恵子の「彼女のイメージは陽子じゃなく、沙織じゃないかしら」の一言で、「南沙織」に決まった。

 デビュー時の南のインパクトについて、写真家の篠山紀信は「彼女の登場は、返還を目前とした沖縄のイメージ・アップのための国策歌手かと思ったくらい良かった」と述懐しており、音楽プロデューサーの酒井政利は「そのタイミングは、南沙織が持つ気運のひとつであったのではないか」と著書で書き記している。


 1971年暮れの第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞し、同年のNHK『第22回NHK紅白歌合戦』にも初出場。

 プロマイドも、1971年、1972年の年間売り上げ実績では第1位を獲得している。
 また、同時期にデビューした小柳ルミ子・天地真理らと共に "新三人娘" と括られることもあり、当時のアイドルの代表格であった。


 1972年から1974年頃までは、筒美京平が手がけた楽曲を中心にヒットを放ち、アルバムでは多くの洋楽ポップスもレコーディングした。

 そのファン層は広く、普段は洋楽しか聴かない層の獲得にも成功したと言われている。


 1975年発売の「人恋しくて」では田山雅充が作曲を担当。カヴァー・ソング以外では、初めて有馬・筒美コンビではないシングルA面曲となった。

 また、この曲で第17回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。
以後、松本隆や荒井由実など、ニューミュージック系のライターも起用するようになった。

 珍しいところでは、アルバム『人恋しくて』において矢沢永吉("五大洋光" 名義)からも楽曲提供を受けている。


 1976年には、本人が「大のお気に入りの曲」と挙げる「哀しい妖精」を発表した。
 当楽曲は日本語歌詞(作詞: 松本隆)によるシングル・ヴァージョンのほか、ジャニス・イアンから提供された原詞そのままの英語ヴァージョンが15thアルバム『ジャニスへの手紙』に収録されている。

[歌手活動引退]

 1978年1月、資生堂・春のコマーシャルソングに起用され...

 尾崎亜美が他アーティストに初提供した作品でもある「春の予感 -I've been mellow-」をリリース、スマッシュ・ヒットと成った。


 ところが、24歳の誕生日を迎えた1978年7月2日、当時在学中だった上智大学での学業に専念するため、歌手活動にピリオドを打つ事を突如発表する。
 翌7月3日には、南自身の誕生日パーティーでの席上と、及びフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』の生出演時にも、改めて活動停止の詳細報告を自ら行った。


 さらに引退に際し、同年9月25日放送の『夜のヒットスタジオ』においては「南沙織 サヨナラ企画」が放送され...

 同期デビューで奇しくも同じバースデイだった小柳ルミ子(年齢は南が2歳年下)や、当時同じ所属事務所(T&C ミュージック)だったピンク・レディーらが共演し、特に小柳と増田恵子が感極まって惜別の涙を流していた。

 そして、同年10月7日に調布市市民福祉会館で開催された「さよならコンサート」をもって、歌手業を含めた芸能活動を引退した。
 なお、当コンサートの映像は商品化されていないが、ライヴを録音したレコードが同年12月5日にリリースされている。


 1979年、引退後に交際がスタートしたという写真家の篠山紀信と結婚。紀信との間には3人の息子をもうける。
 次男の篠山輝信は、2006年に俳優デビューを果たした。

 1983年には、"Cynthia" 名義で作詞家としての活動を1曲のみ行っている。森山良子が作曲し「ウ・フ・フ」というタイトルでアグネス・チャンのアルバム『小さな質問』に収録された。

[歌手活動の一時再開]

 1991年末、第42回NHK紅白歌合戦へ1977年の第28回以来14年ぶりに出場。

 NHKからオファーを受けた当初は「17才」「色づく街」の2曲を歌う予定であったが...
南本人の希望もあって「色づく街」のみを歌うに至った。
 なお、本人が登場する直前のコーナーでは、阿久悠が執筆した南の紹介文を渡辺美佐子が朗読し、BGMに「17才」のメロディーを流すという演出であった(1991年)。

 1992年以降、「家庭が第一」というポリシーのもと、基本的にはレコーディングのみと限定的ながら活動を再開して作品をリリース。
 この時「シンシア」の名で活動したこともあるが、他に同じ芸名の歌手がデビューしたと言う事もあり、「南沙織」に戻っている。

 1997年4月にフィリップモリスのCMソングとなったシングル「初恋」をリリースして以降、新譜の発表はされていない。

[2000年以降]

 2000年6月、歌手デビュー満30周年を記念した完全生産限定CD-BOX『CYNTHIA ANTHOLOGY』が発売された(CD5枚+DVD1枚の全6枚組)。

 日本の音楽CD-BOXとしては初めてDVDが同梱された作品であり、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高62位にランクイン、再プレスもなされた。

 またこの頃、リリースにあたってソニーミュージックの公式サイト「Art of loving」では、記念作品が完成した事に対して自ら謝辞コメントを寄せた音声が公開されていた。


 沖縄本土復帰30周年となった2002年、「沖縄タイムス」(5月15日付)のインタビューで沖縄への思いを語ったほか、2003年7月には浴衣姿で被写体となった新聞広告(撮影: 篠山紀信)が掲載された。


 2006年3月、恩師である酒井政利の「文化庁長官表彰・音楽プロデューサー45周年」パーティに、久しぶりに夫婦で公の場に登場し、乾杯の音頭をとった。

 同年6月には、歌手デビュー35周年を迎えるにあたり...
 全スタジオ・アルバム21枚を紙ジャケット仕様で復刻した完全生産限定CD-BOX『Cynthia Premium』が発売された(CD21枚+DVD1枚の全22枚組)。
 当ボックスでは「篠山シンシア」として監修も務めあげ、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高84位にランクインしている。

 2008年10月には、週刊誌『アサヒ芸能』(第63巻第39号)内特集 "70年代アイドルを「感涙の総直撃」" に特別メッセージを寄稿。
歌手デビュー当時の思い出や近況等が記載された。

 2011年1月17日付の東京新聞・朝刊において、「この人-南沙織さん」の記事と顔写真(当時56歳)が掲載される。
 生まれ育った沖縄県の普天間基地移設問題に関し、南自ら「あの危ない飛行場が何故、未だに有るのか?移設先が辺野古の海というのも駄目です」と猛反対するコメントと、及びデビュー40年を機に再び歌手業の復帰については、「もう声、出ませんよ」と首を振り完全否定していた。


 2020年には週刊現代にて「いまもって特別な存在 なんで南沙織だったんだろう[20]」の見出しのもと4ページに渡り特集記事が組まれた。

 同年7月2日、自身の誕生日には歌手デビュー50周年目を迎えた記念企画CD-BOX『CYNTHIA ALIVE』が発売された。
 その中で、クリス松村との対談に参加している。




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