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六甲高山植物園にて「六甲山ボタニカルフェア 牧野の足あと」神戸で見つける博士と植物 みてきました


2023年7月15日
六甲高山植物園にて
六甲高山植物園にて現在開催中の展覧会では、貴重な資料が展示されています。この展示では、牧野富太郎博士の図や書簡などが取り上げられ、特に彼の神戸・関西での活動の記録が中心となっています。貴重な資料を通じて、博士の活動の軌跡を知ることができます。

書簡から見る牧野博士と神戸の人々とのつながり

牧野博士は日下氏に六甲藤を送ってほしいと依頼しています
90歳を過ぎても植物のことをつづっています
年賀状の自身の写真がユニークです

牧野博士は、熱心に研究に没頭するあまり、経済的に困難な時期もありました。そのような困難な状況を支えたのは、神戸の名士・池長孟氏でした。

博士が標本を売却しようとしていることを知った池長氏は、博士の3万円の借金を肩代わりしました。さらに、博士のために兵庫区会下山に「池長植物研究所」を建て、提供しました。この研究所は約40万点に及ぶ植物標本や図書を収容する場として、博士の研究に大きく貢献しました。

また、牧野博士の研究を支援した人々の中には、薬種業の日下久悦氏も含まれています。彼は博士に多額の資金を提供し、博士と深い親交を築いていました。日下氏は高山植物の栽培を趣味とし、博士と共に植物の採集や標本作りに参加し、博士を自宅に招いたりもしていました。しかし、不思議なことに、博士の著作や記録には日下氏の名前が見当たりません。この事実に気付いた森和男先生は、日下氏の多大な貢献を後世に伝えるべく、記録を整理しています。

さらに、日下氏と森和男先生は中学時代からの友人でした。ご子息の日下義彦氏が今回の展覧会に多くの貴重な資料をご提供されています。牧野博士の研究は、池長氏や日下氏などのスポンサー、そして多くの人々の支援を受けて成り立っていたことが明らかになりました。その情熱的な取り組みと支援のおかげで、博士の研究は続けられ、後世に継承されています。

◆「らんまん」でも話題の美しい植物画

大日本植物誌 1900年 「ヤマザクラ」
「らんまん」のストーリーに登場する
石版印刷によって刷られた
「牧野富太郎図」
大日本植物誌「ヤマユリ」1902
大日本植物誌「ホテイラン」石版多色刷 1911
「日本植物図解」 矢田部良吉1892 
「普通植物図」松村任三

牧野博士が手がけた作品と他の画工の作品を比較してみると、明らかにタッチの違いが顕著に現れています。

◆興味深い資料の数々

森先生も貴重な資料をたくさんご提供されています
「牧野日本植物図鑑 北隆館」1940(右から3冊目)
「APG原色牧野日本植物大図鑑 北隆館」手に取ってみることができます

これまでは図譜として出版されてきましたが、「牧野日本植物図鑑 北隆館」1940は、その貴重な研究の集大成として初めて図鑑にまとめられました。この図鑑には、牧野博士が78歳の折に込められた情熱と努力が、精緻に凝縮されています。

牧野博士が植物の収集、調査、そして精巧な植物画の制作から出版まで行う過程は、多くの人々の協力と時間、労力、財源が不可欠でした。その過程は膨大で、彼の情熱と尽力が欠かせないものでした。

彼が描いた石版画を実際に見ると、その才能と熱意が鮮明に伝わってきます。植物を写真で記録する重要性は認識しつつも、自身で植物画を制作することの意義も再認識しました。

また、森先生によると、牧野博士は多くの雑誌に記事を寄稿されていましたが、その記録は残っていないため、それらを見つけ出すことは一苦労です。しかし、興味深い記事が何点か存在するとのことです。これらの記事は、彼の豊かな洞察力と知識を垣間見る貴重な資料となることでしょう。